コトバの国から闇夜の無言語の国を経て生命の王国への旅 (私の言語哲学)
そもそも、
人間という動物は、言葉を得た(発明)頃から堕落が始まったのではないだろうか?
それまでは全身の体観で全世界を得悟したり、
ハート(心情)で大自然を感じ取ったり、、
無言の目線で相手の心にコンタクトしていたのに、、
それが言葉という、悪魔の?ツールを得た途端、
もう、人間は「コトバ」しか、信じなくなってしまった。
かくいう、この私も、こうして言葉で表現するしかないわけですよね。
言葉以外で意思や思想を伝える方法が、、一般的には、まあ、とりあえずは、、無いからです。
つまり今や、
言葉が世界そのものであり
言葉ですべて全宇宙を説明できると信じ込み
言葉以外の「体感」「ハート」「霊感」「予感」「啓示」「霊視」などを
すべて時代遅れの迷信だといって、切って捨ててしまった。
それが現代のコトバ万能時代です。
そもそも、
コトバ以前の時代、人間が言葉を持っていなかった時代には、まあ、原始時代、人間は闇夜の恐怖と、底知れぬ大自然の深淵のカーオスとに
日夜狂悩させられおびえていた。
ところがやがて、言葉を得ると、
コトバで、
世界は説明されうるようになって「混沌」でも「戦慄」でもなくなったのだ。
これは画期的なコペルニクス的な転回点だった。
そしてそのご、人間は「コトバ」と「数字」(数式)で、全世界を全部説明しようとして
「科学」の体系を作り出した。
それはある意味?大成功だった。
それはこの現代のこの科学文明を見ればお分かりの通りですね。
コトバと数式に満ち溢れた現代文明世界、
言葉があふれかえっていますよね。ある意味安易に?
言葉はその昔「言霊」とも言われていて、神から賜った霊的な力を持った、いわば「呪文」「霊言」だったのですよ。
ある特別の言葉を発すると、強大な霊が出現したり、望みが即、実現したり、
という霊力を持った「コトバ」があったのです。
でもその後、今や言葉は全く霊力を失い、もう、ただくだらない?おしゃべり道具でしかないという現実。言葉が軽く?なってしまった時代、それが今現在ですね。
ところで今現在言葉に不信感を抱くような人っているんだろうか?
「あの人の言うことは信じられない」そういう不信感ではないですよ、。
そうじゃなくって「コトバ」の存在自体に対する不信ですよ。
言葉ってなんか、疑わしいツールだなあという、そういう不信感ですよ。
実は言葉ってとっても、あいまいで、あやふやで、頼りない「道具」なんですよ。
つまり何と言ったらいいのか、、、実は言葉は、「架空通貨」?でしかないのです。
言葉で表されたこの世界像は実は架空世界像であり、偽物であり。本当の世界像でないんです。
というのは世界、、宇宙といってもいいでしょう。
世界や宇宙を言葉で説明できうる、、という「思い込み」にすぎないからです。
言葉で世界を説明できるという、それは人間の「信じ込み」にすぎません。
本当の世界は言葉でなんか説明できないのかもしれない。
本当の世界は「言葉」なんていうような、こんな「チャチナ」ツールで説明できるはずがない。
そう思いませんか?実際、
混沌と、不条理極まるこの全世界、全宇宙をどう言葉で統一的に説明するか?
いったん言葉でうまく世界像を説明できたかに思ったとたん、いやそうじゃないよという事態が出現です。
つまり「定立」したとたん、「反定立」が出現します。そこをうまく、アウフヘーベンして、「総合」してもその先にまたもや、そうじゃないだろ?という事実が出現ですよ。
キリがありませんよね。
言葉で説明しようとする限り、そのあいまいさと、あやふやさでいくら説明しても、すっきりしない?のです。じゃあというので、数式で説明しようとした哲学者もいました。
でも数式では、人間というこの生命体の、心情とか心の底を説明はできませんよ、。
それでは、言葉というものをもっと厳密にもっと正確に、研ぎ澄まして。まさに「哲学用語としての厳密な論理的なコトバ」を作り出そうとした哲学者もいましたが、ことごとく失敗したのです。
なぜでしょう?
言葉というのは、科学的でもないし、論理的でもないし、そもそも、
生活用具?としての、通有性を持った、アバウトであるのが本質であるようなツールだからです。
それをいくら磨いてみても?哲学用の一点もスキのないような、がちがちの「論理言語」になんかできないのですよ。無理なんですよ。そもそもが「日常言語」でしかないものをいくら精密化しても「科学言語」「人工言語)にはなりません。
言葉は科学ではないのです。言葉は生活言語です。
一つの単語でも、実は受け取る人によって無数の意味を持ってしまう。それが言語というものなのです。
一つの単語で一つだけの意味(対象)を持つなんてありえません。
同じ「単語」であってもそれを発する人が誰であるのか、や、その単語がどんなシチュエーション
で、発せられたのか、によって、おそらく100通りの違う「意味」を持ってしまう。
それがコトバの正体?なのです。こんなあやふやなツールでしか世界像を人間の本質を論じられないという悲しいジレンマ?ですよね。でも言葉に代わるようなツールがない以上、言葉で述べるしかありません。
まあこのように、言葉はあてにならないアバウトなツールですが、
ごく一面的な。。一般受けする?説明方法としては今でもそして未来にも、言葉が通有的なツールであることは変わりないでしょうね。
でも言葉以上の完璧な「情報伝達ツール」はないものなのか?
もしかしたら?
人間以外のどこかの知的生命は、言葉でなくてほかのツールでもっと
本質的に世界の本質像を説明しているかもしれませんよね。
そんな「物自体」に触れられるような「ツール」があったらドンナに素晴らしいでしょうか。
ここで、まとめておきますと、
「言葉による世界の説明とはそれはあくまでも言葉の範囲内での言葉内世界での世界像の掌握でしかない」
ということです。そして、先ほどから述べているように、コトバとはいい加減な?ツールでしかありませんから、言葉による世界像の説明は、
つまりすごくいい加減な?粗笨なる、一面的な世界のとらえ方でしかありません。
じゃあもっと本質的に、的確に、そのものズバリの?
世界掌握ってないのか?
ないこともないです、というか言葉以外での世界丸ごと体感?ってあります。
たとえば、禅ではサトリ(世界丸ごと掌握)を、一応以下のような言葉で言い表しますが。この言葉はあくまでも、「月を指し示す指」であり「戸をたたく瓦のかけら」でしかないのです。
人が月を見たらもう指し示す指は不要です。扉があ変えてもらえたらたたいていた瓦のかけらは不要ですね。
つまり「指」や「瓦のかけら」が「言葉」ということのたとえです。
そういうサトリの境地を、まあ、とりあえず仮に言葉で表したのが以下のような「コトバ」なのですね。
拈華微笑
教外別伝
直指人心
このような仮の言葉によってサトリを体感したら?こんな「瓦のかけら」は不要で捨て去ればいいのですね。
というような、、、脱コトバ的方法論?もあるわけですが
これはまあ、一般には宗教とされるから
誰にでも、伝わる方法ではないわけですからね。
極く、一部の、相当、脱コトバ的訓練を経た人でないとムリです。
まあこれを得るには一般には、修行とか、瞑想とか言ってる行法を行わないといけないわけですね。
言葉も、まあ訓練を経ないとうまく操れないという弊害?はあります。
「考えるのではなく、感じ取るのです」
これは相当修行しないと?無理なサトリの究竟でしょう。
このような
、脱コトバ的な行法修行よりは、コトバでの伝達方法はまあ、あやふやで、幾通りにも解釈されてしまうようないい加減なツールではありますが、、取り扱いは、まあ、簡単です。
というわけで言葉はとても便利です。
だからこそこれだけ普及したわけですが、
それでも、なお、言葉の罠があります。
おおよその人は騙され切っていますが、言葉はワナでもあるのです。
まあ先ほどらいから、、くどくどと述べてきたように、
それは言葉では、残念ながら世界のほんの、そうですね、、、
1パーセントも説明できていないという恐るべき?真実です。
何か人間は、、もう、言葉で世界をすべて説明しきれると信じ切ってるフシがありますが
言葉なんて実はとっても粗雑なツールでして、
世界のほんの上っ面をなでてるだけが、、コトバの本性なんですよ。
世界をまず対象化してそれを概念化して、それを特定の名づけ(命名)によって
コトバ化する。
こうして人は、世界を言葉に取り込むのです。
でも?それでほんとに世界を取りこんでますか?という大疑問がありますよね。
たとえば「宇宙」と言いますが、、これでほんとに
『宇宙』そのものの本質を、物自体を100パーセント取りこんでいますか?
もっと簡単に言えば、宇宙と仮に?名付けてみただけの話であって、宇宙って言ってるだけで、、
じゃあ、「宇宙って何ですか?」と答えられないでしょ?という
根本的な疑問です。
ただ、、名付けただけでしょ?名札を貼っただけでしょう。「宇宙」というラベルを作ってペタって張っただけでしょう。
そうして、コトバ化したけど、その行為は、、ただ、、それをそこに何かがあると認定しただけでしょ?
ということです。
ただ手当たり次第に名付けただけ、本質とかそれ自体には、まあよくわからないけど、、、
だから、、じゃあその名づけた対象がほんとは何なのか?
は、全く分からないというかなしい?現実。
それが言葉の限界、、というか
その限界を判らずに?名づければもう、すべて解決済み?みたいな
それこそが、
コトバの罠ですよね。
しかも名付けたからと言って,じゃあその命名が、本当にその対象をとらえきってるのか?
というのは哀しいカナ、検証方法は、実は無いんですよ。
コトバと対象は、実は全く乖離してるというのが大正解なのかもしれない。、これまた哀しい現実。
もっと簡単に言うとですね。
あなたはいっぱいラベルを持っていて、そのラベルにテキトーなコトバを書いてですね。
それを手当たり次第に、そこら中に
そこらにあるモノ(形ないモノも含まれますよ)に貼っていくんですよ。
でも、、あとから誰か来て、、そのあなたが張ったラベルを
今度は、はがして、めちゃくちゃに貼りなおしたんですよ。
でもそういう貼り直ししても別に困らない、というのはあなただってテキトーの張っただけだったからですよ。つまり別に言葉のラベルがそのもの自体に正当に照合してなくったって困らない?というか
どうでもいいんですよ。我々の「名づけ」という行為はそんな程度のいい加減なものだということなのです。
対象への名づけとは、、つまり言葉による概念化というラベル貼りは
まあこんな程度の雑な?作業にすぎないということです。
そうして名づけられた言葉上の世界とは?
ほんとに世界の実相をとらえているのか?
それとも物自体からは完全に浮いちゃってるのか?
それを証明する方法はありません。
というのは、、言葉以外での別の視点から検証しなければ意味がないのですが
コトバしか持たない人間には別の視点からの検証ができないからです。
例えはよくないかもしれませんが
人類全員が、仮に色覚異常だとしたら?
「それはほんとは緑じゃなくって赤なんだよ」って、、どうやって
説明できますか?
コトバで言葉の誤謬を説明するって、、無理でしょ?
自分が被告で自分の裁判を自分が裁判長でしてるようなものですよ。
こんな検証方法では真実などは見えるはずもないのです。
というわけで我らは言葉の魔宮、、ラビリンスに閉じ込められている。
そこから抜け出すことはできない。
そして私たちは、、、言葉が万能(厳密で正確)ではないと、直観的に解ってもいる。
「言葉っていい加減なもんだよね」ってわかってる。
なぜなら、
コトバが万能なら、、つまり言葉というレベルが本当に物自体にピタッと貼り付けられているならば、
食い違っていないならば、言葉が本当に対象を象徴する記号であるならば、
たぶん、
答えのない、質問はないだろう。
だが、、実際問題
いくら質問してみても、
答えが無い事の方が多いからだ。、
「我々はどこからきて、ここで何をして、どこへ行くのか?」
「神の救済はあるのか?」
「人生を有意義に生きるにはどうしたらいいのか?」
こういう質問には正しい?回答はあり得ないという現実。
それは、、つまり言葉という粗雑なツールの限界点、を越えたからだ。
つまり答えられないことを質問してしまったのだ、。
ということは日常生活を送るうえで私たちは、くれぐれも、そんな言葉の限界外使用を、自己規制して
ゆくことが大事?だろう。
コトバの許す範囲内で、言葉を使用している限りにおいては、
我らは楽しく?暮らせる?という
ことでもあるわけですね。
ですから、
くれぐれも言葉の、「限界外使用」は、なさらないようにね。
そう、すればあなたは一生安泰に暮らせて
そうして、、安らかに?死んで行けるんですよ。
しかし、、
もしも?あなたが
コトバというこの粗雑なツールの限界性に嫌気がさして
その先の、、ほんとの世界に直接じかに、、コンタクトしようなんて
無茶な野望を、抱いたとき、
そこからあなたの奈落がぽっかり地獄の口を開けるいんですよ。
オオ、コワイ
コワイ
そんな奈落を見ないように
しっかりとあなたは言葉の楽園の範囲内でくつろぐんですよ。
良いですか?
突然すべての言葉が消失した世界を想像してみてください。
あなたは突然、全盲、全聾になったようなものなんですよ。
それに耐えられますか?
そしてその「魂の闇夜」から出発して
あなたは再び
世界と再コンタクトとれるようにまで
自己を先鋭化し
かつ、
霊耳
霊眼
を獲得できる
修行、行法を
開発できますか?
全くコトバが消えうせた魂の暗夜の世界で、
「コトバで考えるな。全身で感じ取るのだ」を実践できますか
大自然と言葉以外で魂の交感ができますか?
おそらく
言葉につかりきった、浸され切った、現代人には
ムリでしょう。
だったら
この
気持ちの良い
コトバの「虚構の楽園」から脱出しようなんて
夢にも思ってはダメですよ。
いいですか?
でも結局私たちは(というか、私自身)は言葉という「記号の王国」などは求めてはいないのだ、
もっと生活感のある
もっとぬくもりのある
もっとまなざしを交し合う
そういう生命の交感のある
「生活世界」を求めているんじゃないのか。
コトバの国から闇夜の無言語の国への逃走という
魂の闇夜の先にある
「生活世界」へたどり着くためにも
いったん「言葉の国」を捨象して
闇夜を突き抜けて
魂の光芒に昇華するまで
神を探して
神と会話して
太陽と森とせせらぎの国に到達しなければならないのではないだろうか?
だがそういう言語を超越しようという試みの中でも
最新の注意を払うことを忘れたはいけないだろう。
そこにも「魔物」は潜んでいるからだ、
たぶん?言葉の魔物よりもそいつはずっと恐ろしい魔物だろう。
得体のしれない言葉では言い表せない魔物、
そういうリスクを冒してでも私は魔境を超えて
「生命世界」の究竟に行かなければならない。
ということは、、文学や哲学のかなたを目指すということになります。
文学はモロに、言葉ですし
哲学もコトバでしか哲学できませんし、
言葉以外で哲学しようとするならば、それは宗教になってしまうでしょうからね。
「コトバで考えるな、全身全霊で体感(頓悟)せよ」
繰り返しになるが、
「私たちは言葉という記号の無機質な楽園ではどうしても安らえないのだ、記号のかなたの
記号を捨象した先の、生命の世界にたどり着くまでは」
コトバの国から闇夜の無言語の国を経て生命の楽園への旅
正 反 合
定立 反定立 総合
『怪物を倒そうとして
おまえ自身が怪物にならないようにしなさい、
なぜなら、、、
深淵を覗きこむとき
深淵のほうも、お前を覗きこんでいるのだから、』
ニーチェの言葉より