30
住宅に囲まれた路地。その途中で三日月さんは立ち止まり、向き直った。
そして俺と視線を合わせ、真っ直ぐな瞳で、
「志津摩さん、騙してすみませんでした」
深く、自分に罰を与えるように頭を下げた。
俺は努めて冷静に、
「それはいいです。俺の方こそ、ひどいことを言ってすみませんでした」
と言い、礼を返す。
謝るということは、悠が何を話したかわかっているのだろう。もちろん自分が何をしたかも。しかし俺が聞きたいのは謝罪ではない。
「それよりも、訊きたいことがあります」
「はい」
返事の後に、三日月さんが顔を上げたのを確認して、質問した。
「三日月さんは、多重人格ですか?」
はっきりと訊く。聞き取れるように。
しかしだしぬけの質問は予想通りの効果を発揮し、
「え? ……い、いえ、違うと思います……」
戸惑いの表情を浮かべさせる。
それでも続けた。
「一昨日の放課後、何をしていたか思い出せますか?」
「一昨日は……。本当にすみません。実は私、志津摩さんを付けていたんです」
視線を逸らし、腕をつかむ。
「俺を勧誘するためでしょう。でも俺とぶつかってしまい、気絶させてしまった。そのあと、俺を第二会議室に運んだ。そうですね?」
「はい……すみません」
さらにうつむいてしまう。
けれどもう一度、質問に答えてもらわねばならない。
「しつこいようですが、もう一度訊きます。三日月さんは、多重人格ですか?」
訊くのも馬鹿馬鹿しくなってきたことは否めない。
「ち、違います。確かにあり得ないくらいおかしなこともしましたけど、あれは……」
口ごもってしまった。
部長の時のことを言おうとしたのだろう。
「もういいです、わかりましたから」
「ご、ごめんなさい……」
また下を向く。
それを見て俺は思った。
人は誰しも役者だ。古人がそう表現したように。ドラマツルギーでいうパフォーマー。時間、場所、相手によって仮面を選び取り、かぶり分ける。この世界はそれの繰り返し。自我に目覚めた時から終わりまで。舞台裏に戻れるのは独りの時か、眠る時だけ。しかるに、観客は巨万といる。それも至る所に。役者はあまりにも多くの役を演じ分けなければならない。何度も、何度も。終幕までひたすらに。それはある意味、心を殺す行為だ。自分の首を絞める行為だ。ゆるやかに自殺しているも同じ。それもそのはず、役は自分自身ではないのだから。仮面は本当の顔ではないのだから。自分でない誰かを演じ続ければ、自分を見失ってしまう。仮面をかぶり続けていれば、本当の顔がわからなくなってしまう。しかし、そんなことは露知らず、あるいは無視して、観客は演じ続けることを強いてくる。精神は擦り切れ、感覚さえも麻痺しかけているというのに。そして、束の間の退場は短く、幕間はすぐに終わりを迎えてしまう。動かなくなるまで踊り続けろ、とでも言うように。
それは幸せなことか? 真に願うことか? 確かに役割は重要だろう。役割をこなすには、演じなければいけないこともある。世の中は役を演じることで回っている――そういうことだろう。だが、その考えはおかしい。――役を演じる? ――仮面を被る? それはもう、諦めではないか。希望はないから諦観している、と言っているようなものだ。それでは、自分を殺す、と言っているも同じ。自ら息を止め、死のうとしていることと同じだ。
人は役者だ、という言葉は、結果を表現したに過ぎない。結果ゆえの表現であり、結果あってこその表現。その表現は後に作られたものであって、先に存在するべきものではない。
人は、そんなものに縛られてはならないのだ。
そんなものに縛られた世界では、個人が介在する余地など、ありはしないのだから。
自分を殺さなければ、成り立たない世界。
殺さなければ、自由のない世界。
そんな世界に、自由はない。
――だから。
「俺は、ありのままの部長が好きです。自由で、奔放で、自分を飾らない部長が好きです。でも、俺は三日月さんのことも知りたい。落ち着いていて、教養のあるおしとやかな三日月さんも知りたいんです。……俺は、どっちの部長も好きになりたい。だから――」
ありのままに。思ったことを。
できるだけ。自分と相手が、嘘をつかなくていいように。
心から出た気持ちを、言葉にする。
「――だから、部長、もっと気軽に、話しませんか」
自分の想いを告げる禎生。
それを聞いた部長――三日月の心にはどのような、どれだけの感情が湧きだしたのでしょうか。
次回の投稿をお待ちください。