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一路自宅を目指して歩き、幾らか経つと、住宅街に入った。
閑散とした路地のほとんどは影で満ちており、人口の光が道標となって行く先を照らしている。
路端の高いところ。通り過ぎるもの。四囲より漏れるもの。それらを見ていると、どこかよそよそしい感じがして、除け者にされているような気分になる。
有り体に言えば、部長に不満を抱かなかったわけではない。騙したことは間違いないだろうし、そこに悪意がある可能性を考慮すると、捨て置くという選択肢さえ頭に浮かんだ。
本性が悪魔のような人に欺瞞され、弄ばれたのかと思ったのだ。次の日話しかけると、他人のような素気無い態度で突き放される――そんな場面を想像して、胸が締め付けられた。
しかし、それよりも、疑問の方が勝り、怒りや悲しみは鳴りを潜めてしまった。
自宅への道すがら、なぜ部長は正体を隠していたのか、そればかり考えた。そうしていると、思わず知らず門戸を通り過ぎていて、気づいた時には視界の端から表札が消えており、我知らずたたらを踏んでしまった。そんな痴態を誰に見せることもなく晒して門をくぐると、数十分の道程が数秒の事のように感じられ、どれだけ思考に没頭していたかをしかと思い知らされた。
家に入り、親に挨拶をし、すぐさま自室へ向かった。
靴を脱いだ時、親に言葉をかけられそれに返した時、二階への階段を急ぎ足で上がった時も体は無意識に半自動的に動き、思考と行動は乖離してしまっていた。
やや荒い感じで自室の扉を閉め、椅子に座り、輻輳している疑問の整理を試みた。
三日月満月の気質と部長の気質。
悠に会って気質が変わったこと。
昨日、部長と遭遇したこと。
マスター・七鳥・花崎・モモ&ココの店員と会ったこと。
部長の嘘。
談話部が存在しないこと。
あるはずのない部に入部することになったこと。
先生の行動と思惑。
正体を知られたくなかった理由。
ひとまずこのくらいだろうか。思い見る間に雑多な疑問に枝分かれしていきそうだが、とりあえずこの辺りを考察してみよう。
俺はPCの電源を入れて、OSが立ち上がるのを待った。そしてそれを取っ掛かりにして、まずは部長の気質についてからか、と思索を始めた。
軽々に判断してはならないことだが、俺が見た部長と、悠の言った校内で知られている部長、正反対の性格、急変したこと――それらを鑑みると、部長は二重人格、もしくは多重人格なのか、という疑問が浮かぶ。
デスクトップ画面が表示されて数十秒しか立っていないが、ブラウザを起動し、検索してみた。
すると、『解離性同一性障害』というリンクが一番上に表示された。
それをクリックすると、ウィキペディアのページが表示される。
――解離性同一性障害。かつては多重人格障害と呼ばれ、DSM-5では解離性同一症の診断名が併記されている。
概要に目を通してみた。
自己防衛のために感情・記憶を切り離した結果、それらが成長し、別の人格となって現れる精神疾患。例外を除いて主人格が交代人格の記憶を持たず、主人格は、交代人格の行動と、記憶の欠落によって生活を障害される。
要約するとこんなところか。
では、部長は多重人格に当てはまるだろうか。
まず、悠と遭遇した時の大人しい人格を三日月、それまでの自由奔放な人格を部長と定義して、考察してみよう。
多重人格なら、悠と会って性格が変わったように見えた時、もしそこで人格が交代していたとすれば、それまでの部長の記憶がないのだから、どうして自分がそこにいるのか、どうして俺と一緒にいるのか、俺は誰なのか、自分は何をしているのか、そういった疑問が生じるはずだ。
悠と別れて、三日月は何と言ったか……。「悪いんですけど、今日はこれで帰ります」と言った。
悠と会ったことで人格交代が起きたのなら――交代した人格のままで俺に言ったのなら――部長に記憶の欠落はなく、そもそも別の人格もないということになる。なぜなら、部長の人格から三日月の人格に変わったということは、取りも直さずそれまでの俺と過ごした時間の記憶がないということであり、人格が入れ替わっているなら、「今日はこれで帰ります」という、脈絡の正しい会話が出てくるはずはないからである。
そもそも、人格交代が起きたと思われる悠との会話の辺りも、人格交代が起きたのなら、通常の会話が成立すること自体ほぼありえないのだ。と言うのも、人格交代が起きれば、それまでの自我が別個の自我と交代し、記憶までもが入れかわるからである。そのようなことが起これば、交代した人格は、自身を取り巻く環境に何かしら戸惑うはずなのだ(例えば先述したような疑問に襲われたり、といったことである)。それらを鑑みると、部長は多重人格ではない、と言える(交代人格が人格交代を何度も経験して慣れていた場合、戸惑うことなく環境に順応する、という可能性も否定はできないが、片方の記憶がない人格が全くそつのない言動をこなせるかというと、多少疑問が残る)。
しかし、三日月が主人格ではなく交代人格であった場合、この推論は覆ってしまう。
交代人格は、表に出ていない時の記憶を持っていることが多いからだ(どちらも交代人格であったなら、両人格が同じ記憶を持っていてもおかしくはないのだが、主人格が、意識を最も長い時間支配することを鑑みると、その確率は低い――つまるところ、三日月が主人格であろうと推論を立てているわけである)。
それなら、俺が見た部長が主人格だとすればどうか。
校内で知られているのは三日月の方だ。とすると、部長は課業中の記憶がないことになる。
第二会議室に来てから人格交代が起きたとしたら、部長は自分がなぜここにいるのか、どうして気付いた時には放課後になっているのか、と疑問に思うはずだ。そんなことが起これば、自分は異常なのでは、とさすがに気付くだろう。
そのように勘案すると、やはり多重人格ではない、と言えそうなのだが、この場合、部長が疑問を口にしなければ――すなわち自分は異常なのではないか、ということを口外しなければ、多重人格の可能性を否定することはできない。
自己の内心に想念を閉じ込める人間は観測し難く、また、部室に一人の部長は誰かから観測されることが少ないためである。
専門知識のない俺が、多重人格かどうかを見極めることは難しい。俺にできることは、蓋然性を高めるため、せめて訊いてみることだけだろう。
多少気落ちしつつもブラウザを最小化して、デスクトップ画面を見る。すると、先生と、部長について話したことが脳裏を過ぎった。
先生は部長を何と言い表したか……。「変人」と形容した。
あの時の口ぶりから察するに、先生は部長のことを幾らか知っているのではないだろうか。気遣い、心配していた様子は、ただの知り合いを超えたものがある気さえした。
もし、先生が部長の事情を知っていて、部長が精神疾患なら、「変人」とは言わないだろう。変人と病人では、雲泥の差どころか、見当違いもいいところだ。
ということからも、部長が多重人格とは考えにくい。とはいえ、これは俺の推測であって、本当のところは、先生に訊いてみないとわからない。
そこまで思慮したところで、階下から我が母の声が響いてきた。
俺はひとまずPCをスリープ状態にし、腹の虫をくすぐる芳香の元へ向かった。
自宅に帰り、推理するシーンです。
多重人格というややこしいテーマのもと推理が行われていますが、医者でもない禎生には荷が重いものでした。
多重人格という推理はいらないのでは、と思いましたが、部長の変わりようと普段の素行との乖離を鑑みると、その可能性も捨て置くことはできない、と判断しました。
多重人格について考え始めると、専門知識のない者では思考が堂々巡りになってしまうことが多々あるので、高校生の禎生なら諦めるしかない(自分だけの推理では)、と考え、あのような描写にした次第です。
多重人格は議論が紛糾してしまうほど難しい障害です。
私が小説で拾い上げたせいでそのようなことにならないよう、読者の方にはあらかじめお願いしておきます。
しかし、私の小説内で疑問を抱いたり、懐疑心を持つこともあるかもしれません。
その時は、感想にてその旨をお知らせいただければ、私の答えうる範囲で回答しますので、よろしくお願いします。