02
無機質な色の扉。
扉とは仕切り。隔てるもの。区切るもの。
扉を開くことは、自分が傷ついてしまいそうで怖い。緊張する。
だから俺はトビラを開け、中へ入ることにした。
「失礼します」
入って最初に感じたものは匂いだ。昼休みということもあって、パンや弁当の匂いが、ごちゃ混ぜになって辺りを漂っている。
中央の空白を囲むようにして教員机が置かれており、先生たちは自分の席で食事、または事務作業をこなしている。
俺が入った扉から対角の位置にいる教頭は、噂のかかあ殿下に作ってもらったらしい愛妻弁当のおかず――唐揚げを頬張っている。
右手の中央にいる数学の山崎先生は、しゃくれアゴをしゃくりながら魔法瓶のコーヒーをすすり、その横で野崎先生がしゃっくりを繰り返し、反対側では江崎先生が「鉄道員」を読みながら泣きじゃくっている。
その、我が校で三崎と称される先生方を見て吹きそうになりつつも、俺はまっすぐ歩を進め、目的の人物である三枝先生のところへ辿り着いた。
先生は漢字の小テスト(是枝君の)を採点していたが、こちらに気づくと、息を漏らしながら赤ペンを置き、椅子を回した。
「それで、この落とし前はどうつけるつもりなの?」
脚を組みながら呆れ声で訊いてくる。
視線を脚から上げると、そのまま足蹴にしそうな眼と目が合った。
「お、落とし前って……」
俺は聞こえないよう小さく漏らす。
「今日までにって言ってたでしょう」
何度言わせるつもりなの? と先生は暗に言う。
俺は縮こまり、
「それはその、大事な選択だと思って悩みに悩んだ結果というか……」
歯切れの悪い返答をする。
「もうあなたくらいよ? 決めてないのは」
ここ数日で三回は聞かされた文句を先生はまた口にした。
「いや、俺知らなかったんですよね、この学校が強制なの」
そう言うと、視線が途端に厳しいものになり、
「それは先週聞いたけど?」
こわいお。
手慰みにペンを回しながら聞き飽きたわ、と問うてきた。
「そそそそうでしたっけ? ははは……」
乾いた笑いを漏らし、目を逸らして先生の後ろ――窓の外に視線をやると、バッターボックスに立った男子が居合いの構えからものを振りぬき、痛烈な当たりが窓枠の外へ飛び出していった。グラウンドにいる生徒のほとんどが、目でボールを追っている。俺は、一線級だな、と頭の片隅で考えた。
「へぇ。休みになってごろごろしてたら、頭からすっぽ抜けちゃいましたと」
どうせそうなんでしょ? と頭ごなしに詰るように言われた。
「そ、そういうわけでは……」
「じゃ、どういうわけなの?」
足を組み直したのを見て、とっさに口を動かした。
「考えすぎたせいで知恵熱が出てしまって、休みはずっと寝込んでいたんです」
言ってから後悔した。これでは、たとえ知恵熱が事実だったとしてもふざけているようにしか聞こえない。怒ってくださいと言っているようなものだ。「先生を馬鹿にしてるの?」とか、「ふざけてるつもり? そんなにあなた専用の宿題がしたいの?」などと憤慨させてしまってもおかしくはない。下手をすると、「その年で寝込むなんて体力が足りない証拠ね。今から校庭二十周、全力で走ってきなさい」、なんて言われてしまうかもしれない。
そんな想像をしてビクビクしていると、
「あらそうなの。それは仕方ないわね。例え女の子が看病に来て、病気にもかかわらず一日中お医者さんごっこしてても仕方ないわねそれは」
口早に滔々と捲し立てられた。
俺は数秒固まってから、
「……は?」
と、言った。
(お、お医者さんごっこ……? え、あの……すみません、後ろの後藤先生が固まってるんですけど……俺はどうフォローしたらいいんでしょうか……)
十数秒かけて思考していると、
「違うの?」
首を傾げて、あら違ったかしら? と言わんばかりに訊かれた。
「いや俺、彼女いませんけど……」
おずおずと答えると、先生の雰囲気が一変し、
「冗談よ」
ぱっと笑顔になった。とてもにこやかで嬉しそうである。
俺はわけがわからず、
「冗談?」
まばたきしながら繰り返す。
「でも一人の方が気が楽よね。そう思うでしょ? 志津摩君も」
脚を組み替えながら半強制的に賛同を促してくる。俺の言は無視らしい。
「はあ」
そうなるとこう言う他ない。
俺が気のない返事をしたせいか、先生は顔色を変えた。
「もしかして……女子に興味ないの?」
「もしかして……ゲイなの?」と興味深げに質問してきた。そんなわけはないが、人の異性に対する考えには興味があるらしい。
「ないわけじゃないですけど、今は遊ぶかのんびりする方がいいですね」
率直な意見を述べた。しかし……。
どうしてあらぬ疑惑を掛けられなければならないのか。そんな固まらないでください後藤先生。
希望を言えば、高嶺の花はいらない。中腹の影にひっそりと咲いた一輪の花がいい。しかしそれを口にする気はない。それを口に出せば、ゲイ疑惑が完全に晴れると言われても言葉にする気はない。だって……恥ずかしいんだもん。なんて。
「いつも本読んでる気がするけど、春風君以外に話す人いるの?」
是枝君の漢字テストを裏返しながら訊いてきた。二十八点。
春風というのは俺のゆ……春風というのはたまに話しかけてくる、お節介な自称ジャーナリスト――春風悠のことだ。
本当は悠以外にまともに話す相手はいないのだが、思春期特有の、心配されすぎて鬱陶しくなる病を発症してもいけないので、サバを読んでおこう。鯖鯖鯖。
「何人かは」
そう言うと、先生は肘掛けを使って頬杖をつき、
「もう少し交流の幅を広げてもいいんじゃない?」
やんわりと人間山脈の開墾を提案する。しかし俺はそれに対し、
「それは追々で。大丈夫です、俺、基本来る者拒まずなんで」
軽く受け流すようにそう言うと、先生は少し間を空けて、
「そう、それならしつこくは言わないけど……」
と言葉を濁す。
俺は間を持たせるために言った。
「名前と顔覚えるのが面倒臭いんですよ」
「でも、隣の席の子くらいは覚えてるんでしょ?」
「まあ、それくらいならなんとか。でもそのまた隣になるともうあやふやですね。クラスで顔と名前が一致するのは数人ですよ。他のクラスとか論外です」
記憶の中で顔と名前が一致するのは、悠とクラス委員の……ボウズってニックネームだったな……。うん、名前は時野彼方君だ。
とふざけたことを考えていると、
「群れるか群れないかはあなたの自由だけど、学校が仲間を増やす場でもあるということは覚えておいた方がいいわよ。それに、高校の時の友人は長い付き合いになる事も多いから、大切にした方がいいわ」
淡々と、しかしどこか忠告するように教訓を授けてくる。だがそれは下世話であり押し売りだ。俺の耳には蛸が張り付いている。ちゅうちゅうたこかいな。五匹ですね。
「なんとなくはわかってます」
できるだけ真面目に応えた。
共に同じ事へ力を注いだ仲間。バカばかりして過ごした輩。そんな仲間たちは、時を経ても何かしら自分を支えてくれる、背中を押してくれる強い味方になってくれるのだろう。それのあるなしで、どれほど未来の可能性が広がるのか。そう理屈ではわかっていても、経験したことのない俺にはやはりわからない。
「それはともかく」
うわべだけで素直に聞き分けると、先生はそう言った。
「とりあえずっていうのも納得いかないかもしれないけど、決めてもらわないといけないのよ。そういう規則だからね」
半ば強引に分岐器を操作する。
俺はなぜか、営業利益というレールに囚われ、
「はい、それはもう」
と、社畜みたいに受け答えした。
この言葉の続き――つまり彼らの思いは、わかっていますがわかりたくありません、でもわからないと自分の将来もわからなくなるのでわかろうと思います、だと最近はしみじみ思う。プライムタイムのドラマとか見てると特に。
「じゃあはい」
ザラ紙を渡された。入部届だ。
「今ですか?」
「今です。一週間も遅れてるんだから当たり前よ。それともアレ? 過去に戻って歴史改変でもしてくるの?」
先生はマーティに言った。
俺は突然現れたマーティに絶句し、体が斜め上後方に吹き飛びそうな勢いで吃驚仰天した。
なぜそんな単語が出てきたのかを考え、ある結論に至る。
「先生……前の休みに、タイムトラベルが題材の映画でも見ました?」
そう言うと、先生は表情が一変し、
「――どうして?」
後藤先生の箸が止まった。
俺はすかさず答えた。「いや、俺ドクが好きなんで、見たなら話わかるかなあって」
手に汗握るとはこのことである。
「ああ、そういうこと。残念だけど、私が見たのはバタフライ効果のアレよ。そっちは見たのがかなり前だから、あまり話はできないと思う」
と言う先生の顔はいつの間にか元に戻っていた。ふう。
「そうですか、それは残念です。俺がタイムジャンプできたら、先生が映画を選ぶ前に戻ってデロリアンを勧めるんですけど……。勢いつけて屋上からジャンプしたら、できますかね?」
解れた糸を無理くり繕った。
「道だ? 未来にそんな物必要ない」、そう言ったドクが、最高にかっこいい爺さんに見えたのは俺だけだろうか。と、未来の誰かに問うてみる。そういうわけで、繕いはしたがドクが好きなのは嘘ではない。
「それはやめて、お願いだから。其の筋の人来ちゃうから。関係各所に申し開きすることになっちゃうから」
屋上の縁に立つ生徒を説得するような口調で先生は言った。
それに心をこめて答える。
「先生、誰だって一度は、できるかも、してみたいって思うはずなんです」
タイムトラベルを使って何をするか。俺なら、猫型ロボットを連れてくる。そして、ひみつ道具を片っ端から試してみる。気が済むまで。
自分でも何を言っているのかとは思ったが、熱意は伝わったようだ。先生は感慨深い顔で口を開く。
「私も大学院まではそんなことを思ったりもしたわ。でもね、それは夢なのよ。あれを見た人たち全員のね。夢であり夢。夢を現実にしようとしても、この世界では警察沙汰になるのが関の山。最悪の場合、先生の顔が全国放送されかねないのよ。目に申し訳程度の黒い線が引かれたりして」
現実という高い壁が目の前に立ちはだかっている。それは俺より少し長生きした人間と、現代科学の限界。夢は夢であるから美しい、ということなのか。
「先生……夢って、どうして叶わないんでしょうね」
「きっと、人が増えすぎたせいね。神様は忙しくなって、皆の願いを叶えられなくなったのよ」
郷愁的な目付きをして疑問に答える。
意外にロマンチシストな紫センセ。保育士なんかもやれそうだ。
「儚いですね……」
人の夢と書いて。
おそらく、人は忙しすぎるのだ。忙しすぎるから心を亡くし、大切なことを忘れてしまう。忘れてしまって、気づいた時には後戻りが利かなくて、どうしようもなくなってから後悔する。それは人の業だ。
「そうね……」
と、室内を遠い目で眺める先生。だが急に視線を合わせてきて。
「で、決まった?」
素の表情。
……き、決まった? いや、そんなかっこよく決まった感じはなかったような……。
「えっと、何がです……?」
そう訊くと、先生は是枝君のテストに手を置き、後藤先生は石になった。
「何がです、じゃないでしょう。部活よ部活。考えてたんじゃなかったの?」
若干早口で言う先生に、
「え、あ……ああ!」
鹿爪らしく驚いた。
「はぁ、まったく……」
肘掛けからずり落ちるくらいは拍子抜けした様子。抜けた拍子には呆れが納まったようだ。
「いや、割と話にのめり込んでしまって……」
後頭部を手で押さえていると、
「そんなに好きなの? ああいう時間旅行モノ」
ちょっとそこまで、という寄り道の質問が飛んできた。
タイムトラベル――それは男のマロン。なにそれ、モンブランの栗ぐらい重要ってことか。
「いや、そこまでじゃないですけどほら、マロンがありますよね。あとドラマも」
映画は考えさせられるもの。作者のメッセージが深ければ深いほどおもしろい。
「マロン?」
首をひねる先生。
「あ、ロマンですロマン」
マロンマロン考えていたらマロンの虜になっていた。これはもう帰り掛けにケーキ店のテラスでモンブラン食べるべきかもしれない。マロンがあるし。
「ああ、ロマンね、ロマン」
繰り返し味わうように先生は言った。マロンじゃないよ?
「そうね。確かにあの類の名作は、大抵の人が面白いって思えるかもね。――って違うでしょう、部活よ部活、決まったの?」
「え? あ、まだっす……」
今先生ノリツッコミしたような……。初めて先生がノリツッコミするところを目撃したような……。頼んだらもう一回やってくれっかな……?
なんて余裕をこいていると、爆発した。
「もう! いいのね? 私がオカ研って書いて出しても!」
オカ!?
「いやいやいやいや! それはいくないです! 決めます、決めますから、自分で!」
そのチョイスはあまりにあんまりだろう。知らないうちに妹がチョイスの箱空にしてたくらいはあんまり。マリーよりチョイスな俺にはあんまりーなのよさ。
是枝君のテストを握り潰した先生は、「オカ」まで入部届に書いて手を止めた。
「じゃあどこ?」
はっきりしなさいよ! あの女か私か! どっちなの! そんな剣幕。
とっさに俺は思考を巡らした。
うーむ。この一週間、呼び出しを受けては「家で考えてきます」の繰り返しだったからな。しょうがない、事前に決めておいた、妥協案の部にするか。
「あ、あの……」
おそるおそる申し出る。
「なに?」
この期に及んでまだ何か? と目が言っている。
「良ければなんですけど……見学に行ってきてもよろしいでしょうか……?」
案なんてなかった。とにかく部活がめんどくさかったので、入部や部活という言葉を忘れるようにしていたのだ。知恵熱はナンプレしてたからだ。
そう言ってこわごわ陳情すると、
「……はぁ」
もはや呆れも通り越したようで、こめかみを押さえ始める。バファリンを持ってきた方がいいかもしれない。半分が優しさでできているらしい、バファリンを。優しさで人が救えれば易いもの。
それはそうと、先生のお言葉は覿面に効いたようだ。しぶとい捻くれが少しは治ったのかもしれない。
「帰ったりしないでしょうね?」
俺は先生の脚に誓った。
「大丈夫です」
大丈夫。何かにつけて大丈夫。全然と合わせて日本人がよく使う言葉だ。全然大丈夫! その言葉は全然大丈夫ではない。例えバファリンをもってしても、大丈夫にはならないのである。
「もし帰ったりしたら……泣くから」
横目でじろりと睨んでくる。
その姿は少女のように若やいで見えて、実際はどうなのだろう、妙齢であることは間違いないだろうが、と、公開されていない情報が気になったが、そんな子供みたいなしぐさで泣かれても色々な意味で参っちゃうなあ、と、感慨深く妄想を膨らませることにもなった。
「いや泣かれても……」
ちょっと泣いてるとこ見たいかも、と思った俺は鬼畜なのかもしれない。いや鬼畜だろう。もういっそのこと、先生の家畜にしてもらうべきかもしれない。愛の家畜に。
「教頭がうるさいんだから……」
小さく、面倒臭そうにこぼす。
ああ、あのハゲか。あのナマハゲだけはいけ好かん。捻くれたことばっか言うからな。あのハゲの方こそ、ナマハゲに指導されるべきだ。ナマばっか言いやがって……ナマハゲが。え。
教頭は家では座布団だが、学校では左大臣なのだ。その差ときたら――
とカツラにいたずらしたくなっていると、
「あと!」
ボリュームを大にして言われる。
そうですよね、カツラにイタズラは後ですよね。わかってます。
「な、なんでしょう?」
「今日中に決めて、私に報告すること!」
ビシィッ!
「は、はい! 了解です!」
命令とともに指差され、心身ともに引き締まる。
「じゃ行って」
「はいぃ!」
情けない声を出して、でも挨拶は忘れずに、職員室を後にした。
前話から時間は巻き戻り、禎生が先生に入部を催促されるシーンです。
というか、前話が、部長との最初の部活動シーンを冒頭に持ってきている、と言えます。
読んでいる人からすれば回想に思えるかもしれませんが、悪しからず。