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予想だにしない再会と勧誘の後、しばらく客の出入りがあった。その間、俺と部長はさしたる会話もせず、ただ、ただひたすらに甘味と苦味とを喫するという、これまた予想外な様相を呈することとなった。
部長は静かで、何か悪いものでも食べたかな? と疑いそうになるくらいは普通の人然としていた。
今まで続いていたものが、ある時を境にひたと止んでしまう。そういう事態に直面すると、人は違和感を覚えるものだ。俺自身も、そういったマジョリティの例に違わず、それに思考を揺さぶられてしまい、いつもは間を置かず出てくる話題なんてものを探すはめになってしまって、そんなことに没頭していたら、あることにはたと気付いたので、それに縋ることにした。つまるところ、自己紹介を済ませていなかった件のメイドを呼んで、名前を訊いたのだ。名前は七鳥ことりで、同学年だった。俺は自己紹介をしたが、部長は「自分の名前は部長です」と言って聞かなかった。まあ、予想通りといえば予想通りだ。
※
客足が収まって、再び俺達だけになった時、部長はマスターを呼び出した。
そつのない運びで、逆に言えばそつがなさすぎて、安心や安定感、泰然さえも超越し、我が国を闊歩する暴君の如く見える足取りで、其の人は俺達に近づき、
「アレかい?」
不明瞭な代名詞とともに部長を睨んだ。
――いや違う。これは多分……笑っているのだ。どうしても「アレ」が法に引っかかりそうな『アレ』にしか聞こえないが、これは部長の意図を汲んで、そういうことだろ? とほくそ笑んでいる顔なのだ。多分きっと恐らく。
「お願いできますか?」
部長は礼を損なわない声音で言う。
「わかったよ。今なら客も少ないだろうしね」
マスターはしょうがないね、といった風に肩をしゃくる。
そしておもむろに奥へ戻っていった。
……何をおっぱじめる気だ。何を。
しばらく待っていると、何やら長方形の箱を提げて戻ってきた。そして箱――じゃなくてケースから取り出したるは……まさかのヴァイオリン。
え。それ、バット代わりに使うの? 誰に使うの? なんとか組の人に? と戦慄していたら、ペグを回して調弦を始める。
それが終わると、出入口から見て右側にある空きスペースに移動した。
こちらを向いて静かに一礼。
肩にヴァイオリンを置き、顎で挟みこむようにして支え、最後に粛々とした所作で弓を構えた後、一呼吸置いて演奏が始まった。
長閑やかな春の日の昼下がり、小さな隣人の声が聞こえ、私は戸を開けた。
外に出て声の主を探すと、かわいらしい隣人は樹の上で一人歌っていた。
少し近づいて、「友達はいないのかい?」と訊くと、こちらを向いてあいさつしてくれる。
それに温かい気持ちで応じると、隣人は翼をひろげて飛び立っていった。
太陽に向かうその姿を、私はやわらかい心で見つめていた。
ある日のこと、長らく聞いていなかった声に惹かれ、外に出た。
木の上を見ると、隣人の傍らには私の知らない人がいた。
彼らは踊るように話していて、私が「友人を紹介してくれるかい?」と近づいて訊くと、彼らは「私のこともそうだ」、と言うように周りを飛び回りながら歌い出した。
私はすっかり楽しくなってしまって、踊りだしそうな気持ちで一緒に歌った。
そうしていると、私の友人がやってきてこれに加わり、私は、さらに楽しい気持ちになった。
幾らか経って、隣人とその友人が、生涯を共にする間柄になった。
私と、私の友人は、それを祝うためにお茶会を開いた。
樹の下で行われたお茶会は、彼らと私達の歌声で彩られ、ダンスによって心躍る時間となった。
彼らは樹の上に家を作り、本当の隣人となった私達は、毎日楽しく歌って過ごした。
手を叩く音が聞こえる。考えるまでもなく、拍手だとわかる。
「ありがとうございました」
部長の声。それを聞いても俺は目を開けることなく、余韻に浸っていた。
「悪いね、下手な演奏で」
マスターは無愛想に言う。
「どうだった? 志津摩君」
そう訊かれて、思い出したように目を開き、少しまごついてしまった。
「えーっと……いや、感動しました。どう言ったらいいかはわかりませんけど」
どうしてそんなことしか言えないのか。心の底からそう思う。
「そうかい。ちっとは出し物として見れた、じゃないな、聴けたものだったみたいだね。それじゃアタシは奥にいるから、何かあれば呼びなよ」
ヴァイオリンをケースに戻してから、マスターは奥に戻っていった。
それを見ていると、にわかに部長がこちらを向く。
「志津摩君、辞めてもかまわない」
いきなりで混乱した。
「な、何をです?」
「部をだ。確かに入部したが、今日は仮入部として考えてくれてかまわない」
「は、はあ」
少し考えると、答えに行き着いた。
要するに、体験入部という選択肢があったにもかかわらず入部した俺を気遣ってくれているのだろう。いろいろあって気づかなかったが、そういう事もできたのだと。
ふむ。それならお言葉に甘えて、猶予期間ということにしておいてもらおうか。
「まあ、考えておいてくれ」
そう言って、少し冷めたコーヒーに口をつける。
返事をしてから、それに倣った。
※
会計の時は大変だった。店長は「サービスだ」と言って聞かないし、部長は部長で「払います」の一点張り。終いには払うの活用形まで言い始める始末で、「払われるのがいやなら土下座してください」なんて言い出し、マスターが「よし」と言いながら本当に膝を突き始めた時は焦った。
結局、店長に「二人分は悪いですから俺にも払わせてください」と言って聞き分けてもらった。ちょうど二人の代金が同じだったので、割り勘ということにすればいいと思ったのだ。
「そんなに払いたいなら払えばいい。体でも何でも使って」
などと、部長の方まで聞き分けがよかったのは不思議だったが、気まぐれなのか、それとも何か下心があるのかはわからなかった。
当初は部長のおごりだったので、もったいない事をしたと言えば違いない。だが、マスターを土下座させてしまった時の、いかんともし難い気まずさを味わうよりはましだと思った。
勘定の後、部長が出ていき、俺も続こうとしたところ、
「おい、兄ちゃん名前は?」
レジカウンターから声がかかった。
兄ちゃん? 兄ちゃんって誰? 俺そんなデカイ妹持った覚えないけど。俺が妹と認めるのは、「お兄ちゃん大好きっ!」って飛び込んでくるロリっ娘だけだけど。
「志津摩です」
人の名前を訊く時は、まず自分から名乗るべきじゃありませんか? そう言うやいなや、マスターは鈍く光る得物を手に襲いかかってきた。「いい度胸じゃないかい兄ちゃん。ちょっとその胸の中見せてもらおうか!」とかそんなことになりそうで怖い。ドスの利いた声で叫びながら、ドスをドスッみたいな。舞妓さんがやるとちょっとシュールかもしれない。「今からあんさんの胸にこのドスをドスってするんどすえ。ほな」ってな感じに。逆に怖いどすえ。
「シヅマ、これみいちゃんに渡しといてくれ。すぐには渡すなよ、あとでだ」
裏釘を返しながら札と硬貨を手渡してくる。
俺はすぐに事情を察した。
「これ、部長のお代ですか?」
部長のおふざけに対するお代なら、安すぎて突き返す額だ。「私を馬鹿にしているのかね!」って。恐ろしくてそんなことできないけど。
「こうでもしないと、奢らせてくれそうにないからね。頼んだよ」
すんなりした手足を何気なく動かして、例のモデルポーズでお願いしてくる。
頼んでいるつもりだろうが、言われている俺は完全に下っ端の気分である。それに俺に頼まれても困る。マスターでもできないことを、出会って一日の俺にできるはずがない。その気にさせたいなら、お前を信じる俺を信じろ! とか気の利いたこと言ってほしい。
「わかりました。やってみます」
でも断れない。怖いから。だって、入店してから一度も目を合わせられていないくらいこわいんだもん。今だって必死に顔の横のレンガ凝視してるくらいだし。餌付けされたせいで最早恐懼の域ですこれ。
「いいかい、渡すのは別れる直前にするんだよ?」
サイコキネシスが発動しそうな表情で念を押される。
「了解です」
頷き返してから、もう一度「ごちそうさまでした」と挨拶し、扉に向かった。
「また来な」
という声を背に受け店から出ると、部長は一人で夕日を仰いでいた。
例に違わず、腕を組んで仁王立ちで。
ふいに。
「よし、走るか……」
「やめなさい」
やさしく諭した。
部長は向き直り、
「君の財布に入っている余剰金だが、私に渡す必要はないぞ」
またぞろ急に話題を振ってくる。でも今回のそれは、俺も見当がつくものだった。
(なぜそれを。もうバレたのか……)
「今日は私のおごりだからな。それを君が渡さなければ、私は君におごる事ができる」
まさか。マスターが必ず勝つと言っていたのをそこまで見越して? 俺のお代と額が同じだったのはそのため? 部長とマスターの言い合いに俺が割って入るのを予想してた上、店長が俺を使うこともわかっていたと? あの時妙に素直だったのは……。
それが本当なら、部長を見る目を改めるべきかもしれない。
「頭いいんですね、部長」
そうでなければ、そこまですることはできないだろう。少なくとも俺には無理だ。よく知らない人と喫茶店に入り、そんなことにまで思考を割く余裕はない、と思う。
「私は君の方がすごいと思うが」
部長は至極真面目に答えた。
(またわけのわからないことを……)そう思いながら、俺は諦めることにした。
仕方ない。マスターにはああ言われていたけど、やっぱり俺には無理だ。このお金はまた今度来た時にマスターに返……こわいお。
「でも部長」
「ん?」
これだけは言っておかないといけない。部長の今後のためにも。
「盗み聞きは良くないです」
そう言うと、
「ごめんなさい」
深々と頭を下げた。
太陽に向かって。
小休止回、とでも言いましょうか、そんなものを内包したシーンです。
詩(のようなもの)を書くのは話を書くことより恥ずかしいな、と実感しました。