ドッペルゲンガー
小気味のよい音が、縁側にひびいた。
「王手。私の勝ちだな」
「ま、待った!」
俺は教授に手の平を突きつけたが、教授はかぶりを振った。
「だめだ。飛車を守りすぎたのが、君の敗因だな」
そう言って、教授は将棋の駒と盤を片づけはじめた。
「……ま、悪手とまでは言わないけどね」
「いや、負けたんだから悪手ですよ」
俺──深井良一はため息をつき、庭に目を向けた。
縁側からのぞく広い庭は家庭菜園で埋め尽くされている。緑の蔓に、大きなゴーヤがいくつもぶらさがっていた。その向こうには竹垣があり、子供の声と、竹垣の上から伸びる虫捕り網が見えた。
そういえば、俺は子供のころ、虫捕りなんかしていただろうか。おぼえてないな。
「ところで良一君。御両親に連絡はついたのかな?」
将棋盤をしまい、冷たい麦茶を持ってきた教授が言った。
「いえ……まだ旅行から帰っていないみたいです」
実家の留守番電話に入っていたメッセージを思い出し、俺は唇をかんだ。メッセージには「旅行へ行くので留守にします」などと吹きこまれていた。空巣に来てくださいと言っているようなものだが、どうせならいつ帰るかも吹きこんでおいてくれればよかったのに。
実家に帰れば連絡先のメモぐらいあるかもしれない。だが、俺には実家に帰るための金がなかった。
「何度も言いますけど、教授──」
「お金は貸さないよ」
にべもない。
「別にあせらなくていいじゃないか。在学中はずっとここにいてもいいんだし」
「そんなことできるわけないでしょう!?」
とんでもない非常識もあったものである。
俺は大学に通うため、田舎から出て一人暮らしをしていた。
ところが、身におぼえのない借金でヤクザが部屋に押し入り、命からがら逃げだしてきたのだ。
路上で困りはてていた俺に手をさしのべてくれたのが、文化人類学部の斉藤秀夫教授だった。
──五十二の独身男に、今の家は広すぎるのでね。よかったら、うちに来ないか。
そういうわけで、俺は教授の家に居候している。今のところ、ヤクザが追ってくる気配はない。おそらく、教授が警察に事情を話してくれたおかげだろう。
本当は両親にも連絡してもとの生活に戻りたかったのだが、
「君はずっとうちにいてくれていいんだよ」
のほほんと、教授は言った。
「君は優秀な学生だ。君のおかげで、私の研究もずいぶんはかどっている」
「俺、なにもしてませんけど」
「君の存在自体が、研究の役に立っているんだよ」
俺は首を傾げた。どう役に立っているのかはわからないが、教授の「研究」といえばひとつしかない。
「研究って……教授が提唱している『ドッペルゲンガー理論』のことですよね」
「その通り」
教授はうなずいた。
ドッペルゲンガーとは、二重存在のことだ。自分と同じ姿の人間がいて、そいつと会うと本物が死んでしまうと言われている。
教授が提唱する「ドッペルゲンガー理論」によると、この世には無数のドッペルゲンガーが、日々誕生しているらしい。
それは本物にとって、脅威以外のなにものでもない。「本物の保護のため、ドッペルゲンガーは即時始末すべき」というのが、理論の基本だ。こんな物騒なことを提唱する理論が他にあるだろうか。
「ひょっとして、俺の借金もそのドッペルゲンガーが作ったものだと思っているんですか?」
「その通り」
教授は同じ言葉をくりかえした。
これだ。俺は心中で渋い顔をした。
教授はとてもいい人なのだが、少し、エキセントリックなところがある。正直ついていけない。
ドッペルゲンガーのような「迷信」は、文化人類学の研究対象になりうる。が、それを本当に信じている人はいないはずだ──目の前にいる教授を除いて。
玄関のチャイムが鳴った。
「俺が出ます」
玄関へ向かい引き戸を開けると、若い警官が二人立っていた。警官は俺を見て、「あっ!」と声をあげた。
「きさま、こんなところに隠れていたのか!」
「え?」
警官がいきなり腕をつかんだので、俺は情けない悲鳴をあげそうになり──呑みこんだ。一方の警官がすでに拳銃を抜いていることに気づいたからだ。
「どうかしたのか」
ばたばたと足音を立てながら、教授が現れた。俺と警官を見て、目を細める。
警官が口を開くより速く、教授が言った。
「私は斉藤秀夫という者だ。『ドッペルゲンガー理論』の提唱者、と言えばわかってもらえるかな」
俺の腕をつかむ力が、出し抜けにゆるんだ。警官はあわてたように敬礼し、「失礼致しました!」と叫んだ。
教授は俺の肩を軽く叩いた。
「ちょっと手違いがあったようだ。私が話をしよう。君は中に戻りなさい」
「あの……」
「いいから。戻りなさい」
優しいが、反論を許さぬ口調で、教授は言った。
わけがわからぬまま、俺はうなずいた。
居間を通って、縁側へ戻る。少し風に当たりたかった。
風はなかった。庭に目を向ける。
ゴーヤの濃い緑を背景に、誰かが立っていた。
ひっ、と声をあげそうになったのは、そいつが拳銃を握っていたからではない。
その男は、俺とまったく同じ顔をしていた。顔だけではない。背丈も体型も瓜二つだ。ただ一つちがうのは、男が相当疲れきっているように見えたことだった。
──ドッペルゲンガーは実在する。
教授の馬鹿げた理論が、頭をよぎる。
疲れた表情が、かすかに動いた。ドッペルゲンガーがつぶやいた直後、
「いたぞ!」
警官の声がひびき、俺はびくりと身体を震わせた。
かたまっている俺とは反対に、ドッペルゲンガーの動きはすばやかった。ゴーヤの葉が舞い、ドッペルゲンガーが駆ける。竹垣に足をかけ、一気に飛びこえた。警官が叫びながら、ドッペルゲンガーのあとを追っていく。
「怪我はないか?」
うなずくと、「なにか言われなかったか」と訊かれた。俺はうなずき、庭に目を向けた。無残に踏み潰されたゴーヤが土の上に散らばっている。
たのんだ。
ドッペルゲンガーはたしかにそう言った。
それから間もなく、ドッペルゲンガーは死んだ。拳銃で自分の頭を撃ち抜いて。
ドッペルゲンガーは複数の金融会社に多額の借金をしていた。追いつめられたドッペルゲンガーは銀行強盗を実行したが、失敗したあげく、暴れた行員を二人も射殺してしまった。その後、警察から逃げまわっていたらしい。
そのことを、俺はテレビのニュースで知った。昼前からずっと流れていたらしいが、俺は教授と将棋をさしていたため知らなかった。パニックを起こさぬように、との教授の判断だった。
「少しは落ちついたかね」
居間で横になっていると、教授がやってきた。手に持った盆からは湯気が立っている。夕食をとる気力もなかった俺のために、うどんを作ってくれたらしい。教授が作るうどんは関西風の薄味で大好きだったが、今は食べる気にならなかった。
「教授……教えてください」
すがるように教授を見あげる。「いったいあいつはなんだったんですか」
「君ならわかるはずだ。私の理論を知っているなら──」
「そんな迷信でごまかさないでください!」
俺は飛び起きて怒鳴った。教授は軽く頭を振り、
「迷信じゃない。『ドッペルゲンガー理論』は、すでに世界中で認められている。中学生でも知っていることだ」
耳を疑った。認められている? あんなふざけた話が?
「君が知らないのも無理はない」
教授はなだめるように言った。
「なにしろ、君は一週間前に生まれたばかりなのだからな」
ドッペルゲンガー、二重存在、偽者。
それが俺の正体だと、教授は言った。
「君が生まれるところに出くわしたのは、まったくの偶然だった」
それは僥倖でもあった、と教授は言った。「ドッペルゲンガーは本物を消そうとする。『同じ人間が二人いる』という矛盾を、無意識のうちに不快に感じているのだろう。だから私は、君を監視下に置いた。本物の深井良一を守るためにな。
さいわい、君にはまだドッペルゲンガーだという自覚がなかった。本来なら警察に届けるところだが、私のもとならば、ドッペルゲンガーだと気づかないまま、生きられるかもしれないと思ったのだ」
「俺がいるとはかどる、とおっしゃっていたのは、そういうことですか」
「本物を守るために、ドッペルゲンガーはすぐさま処分される。ゆえに、ドッペルゲンガーとともに暮らすなどという貴重な体験ができたのは運がよかった」
気を悪くしたかい、と訊かれたので、俺はかぶりを振った。
ドッペルゲンガー──つまり俺が自分の正体にかんづき、本物の深井良一を殺しにいく可能性もあった。念のため教授は俺のことを警察に届け出て、不測の事態に備えていたらしい。
だが、教授が想定していなかった事態が起った。
「本物が君の前に現れてしまった」
偶然のはずがないと教授は言った。
「ドッペルゲンガーの誕生が確認されると、警察から本物に対して警告が発せられる。誤ってドッペルゲンガーと接触しないようにな」
じゃあ、どうして──出かかった言葉を、俺は飲みこんだ。
ニュースで観た、本物の深井良一の悲惨な人生。「旅行」と称して不倫相手と出かける父と母、孤独な少年時代、そして借金と殺人。すべてのひずみが、今日の結末へとつながっていた。
庭で俺に見せた、良一の表情。
笑っていた。彼は目の前にいるのがドッペルゲンガーだと知っていて、姿を現したのだ。
「『深井良一』は、自分の人生をリセットしたんだ。まだやりなおしのきく君に、すべてをたくしてね」
「でも、俺はドッペルゲンガーなんでしょう?」
「もう、そんなことは問題ではない」
教授は笑みを浮かべた。「君は、本物よりずっとましな気質の持ち主のようだ。これからは本物の『深井良一』として生きていくといい」
「はあ!?」
俺はぎょっとした。
「ドッペルゲンガーは本物の写し身だ。しかし、たまにまったくちがう気質のものが生まれることもある。君のようにな」
歯を見せて、教授は笑顔を作った。その表情に、俺はなぜかうすら寒いものを感じた。
「そういうときは、よりましな方を取るのだよ。人類のよりよい発展のためには、別に本物にこだわる必要はないからね。
それが私の、『ドッペルゲンガー理論』の真髄だ」
使えない王より、有能な飛車を。
この世は、悪手が必ずしも悪手だとは限らないと、齢一週間の俺は知った。
(了)
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