明晰夢
雲一つない満月の夜に、少女は大木に登って空を眺めていた。
誰かに見咎められれば、すぐに降りなさいと言われるであろう。だが、そうやって少女を叱ってくれる存在はどこにもいない。
「・・・母さま。私はこれからどうすれば良いのでしょう」
ぽつりと呟いたそれは空気の中に溶けていき、空虚な風をもたらした。
かつては恐れ、忌み嫌っていた存在を人々は時が経つに連れて忘却の彼方へと追いやってしまった。少女が背負う役目も知らずに――。
誰にも認められず、そこに在ることを誰も知らない。それは少女をひどく不安定にさせてしまう。
だがかつて、ただ一人だけ少女を認めてくれた人がいた。
恐れるわけでもなく、忌み嫌うわけでもなく、その人は少女と共にいた。
少女はその人を『母さま』と呼び、慕った。けれど、『母さま』も人の子であったため、悠久の時を生きる少女とずっといることは叶わなかった。
「もう、母さまの元へと行ってもいいのでしょうか。私はもう・・・疲れてしまいました」
『母さま』の最期の言葉を守りながらも無為とも言える日々を過ごしてきた。
時が過ぎ、少女が見守ってきた村は旱魃による飢饉で無くなってしまった。これから先、どうすればいいのか少女には分からない。
未来を考えても答えが見つからないことに溜息を吐きながら、『母さま』との思い出が詰まったこの大木に身体を預ければ、大木から不思議と温もりを感じる。それは、『母さま』が少女にくれた温もりに似ていた。
『役目のために生きるのではない。生きていくことに役目は付随するのだから。お前が願い、望むままの姿で生きてくれればわたしはそれだけで良い』
『母さま』がくれた最期の言葉。眼を閉じれば今も鮮明に思い描くことが出来る。
穏やかな笑みを湛え、節くれた手で優しく撫でてくれた感触が少女の心に温かいものを灯す。
「母さま、私には願うものがありません・・・」
見上げれば、静かに佇む月に少女は目を閉じる。
仄かに白く輝き始めた少女の髪は、風も吹いていないのに空へと舞い上がり始めた。
けれど少女はそれを気に留めず、じっと眼を閉じている。
「けれど、もし何かを願うのならば―――」
◇ ◇ ◇ ◇
ふと眼を覚まして辺りを見渡せば、そこはいつもと変わらない自分の部屋だった。
窓の外を見ればもう薄暗くなっていた。どうやら学校の課題の途中で眠ってしまったらしい。
「あれ・・・夢、かな」
ひどく寂しい、けれどどこか懐かしく感じられた夢だった。
「『母さま』ってどんな人だったんだろうなぁ」
ぽつりと呟いた直後にドアがノックされる。返事をすれば、扉が開いて母が顔を覗かせた。
「蛍。華雪が今日こっちに来いって言ってるけど、どうする?」
「もうすぐ課題が終わるからそれからでも良いかな?」
「わかった、そう伝えとくよ。じゃあ、私は下にいるから」
ドアが閉められ、足音が遠ざかっていく。
ひとまず課題を終わらせようと、目覚めたばかりの身体に気合を入れ、取り掛かった。
―――もし何かを願うのならば、私はまた母さまに会いたいです。