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マンドラゴラ

作者: 此花耀文

 今日、娘が死んだ。


 兆しも何もない、学校の帰りに空き地で友達同士遊んでいて、心臓の発作という、急に倒れてそのままだった。血相変えて家に駆けつけたクラスメイトから話を聞いて慌てた、というより半信半疑の体だった私の辿りついた時にはとうに救急車が到着していて、娘は担架に乗せられていた。事務的に搬送の作業を続ける救急隊員たちの表情から何がしかを読み取れはしなかったが、紙のように真っ白な顔が目の前を通り過ぎるのを見ると、ああこれは駄目だと、あれこれの感情より突き放した納得が先に来た。

 こう書くと随分と冷たい親と思う向きもあるかもしれないが、そうではない。私は娘を愛していたし、娘も私を愛してくれた。娘のいない生活など考えたためしもない。それくらいに、娘はほとんど私の一部だったのだ。その死ぬのを目前にしても私は受け入れなかったのだと思う。私の中で娘の死などあり得ることではない。ならば駄目だとわかっていながら、家でひと休みして待っていれば娘は何事もなく帰ってくるのだと、どこかでそう信じてもいた。けれど電話があって娘は死んだ。お通夜、告別式、知っている人の、知らない人の泣く顔。風景の流れるように通り過ぎて、私はひとりで家に放り出されていた。初七日が終わってぱたりと客の足も絶えた時分である。


 ここ数日どうやって暮らしてきたのか覚えてない。何を食べたのかさえよく思い出せなかった。冷蔵庫がほとんど空だったので買物に出た。

 行こうと思ったわけでもないのに、家を出れば自然と足は空き地に向かう。娘の倒れた辺りには名も知れぬ草の小さな紫色の花をつけて寂しい秋の風に踊っていた。花は愛らしい、親しい、まるで生れる前から知り合っていたかのように。花の揺らぐ様が娘の楽しげにはしゃぐ姿とだぶって、頬に生ぬるい涙が流れた。いなくなったのではない、帰ってくるんだ。私はただ、待っているだけだ。

 しばらくは日常生活が苦痛だった。いつまでも眠っていたいのに勝手に目が覚める。インスタントの麺だかを無理やり喉に流し込む。水のようなぬるま湯で体をこする。早く逃れたいと、そればかりを考えていた。


 娘の死んだのは発作ではない。奇妙な噂の存在を知ったのは、どん底の状態をどうにか脱した頃だ。発作ではなくて、毒にあてられたのだと。馬鹿な。誰が娘に毒なぞ盛ろう。聞けば、噂は娘の同級生の間で広がっているという。私は空き地に出かけ、物影から様子をうかがった。

 放課後になると幾人もの子供たちがやってきた。ランドセルをそこいらに放り出して、ゲームでも何でもあるこの時代に鬼ごっことかルールもないボール遊びとか、そんなのに興じている。私は待った。

 しばらくすると、遊び疲れた子供がふたり、空き地の端へやってくる。知った顔。娘のクラスメイトだ。可憐な花に目を留めて、摘み取ろうとでもするかと思いきや、ふたりしておぞましいものでも見るかのような視線を投げた。ひとりがしゃがみ込む。

「駄目だよ、抜いちゃ」

 立ったままのもうひとりが言った。

「わかってる」

「Kちゃんはそれを抜いて死んだんだから」

 娘の名を聞いた途端、私の心から理性が弾け飛んだ。

「なんで」

 自分の言葉が他人のそれのように頭上を行き過ぎる。

「ねえ、どういうこと。こんなもので人が死ぬわけないじゃない。ねえ」

 ぎょっと目を見開いたふたりはゆっくりと後ずさりを始める。

「逃げないでよ。教えてよ。この花が悪いの? そのせいで娘は死んだの?」

 私は屈んで花に触れた。つややかな緑の葉。愛らしい花。

「やめて!」

 子供のひとりが叫んだ。遊んでいた他の子たちもこっちを振り返る。

「花を抜かないで」

「馬鹿言わないでよ!」

 私は怒鳴っていた。乱暴に茎を握りしめる。

「いやあ!」

 子供たちが耳をふさいで一散に走りだす。

「何よ! 何なの! どうしてこんなものが人を殺すの!? くだらない噂流すの、やめなさいよ!」

 聞いたこともない金切り声だった。そんな声を出す自分に半分呆れ、もう半分は酔ったようになりながら、激情のおもむくままに委ねた。声はやがてほの暗い情念となって空き地の底にたまるようだった。

 涙でべっとりと濡れた頬を冷たい風が過ぎた。もう夜だった。帰ろうとして、右手に何かつかんでいるのに気がついた。さっきの花だ。我を忘れて引き抜いてしまったらしい。

 花を抜くなと、さっきの子供の声が耳にこだまする。私はほくそ笑んだ。馬鹿な子供たち。ほらこの通り、死んだりするはずがない。四肢の生えた胴にも見える奇妙な根を生やしたその花を、まるで戦利品のように持ち帰った。


 その日、夢の端に娘が現れた。かすみの中にうっすらと、辛うじてそうと見分けられる人の体の透けて見える、その程度だった。距離もある、あるいは薄霧の濃淡がそんな人がたを作り出しているだけかもしれない。それでも私は影を娘と確信した。夢の中ですら、その名を呼ばわりすらせず、私は泣き崩れた。ただ嬉しくて、感情の昂ぶるままに泣き続け、心地良かった。

 娘に会えて気持ちの整理でもついたのか、ほとんど人並みの生活をしていなかったのが、その日は久しぶりで早くに目が覚め、朝食でも作ろうという気分になった。キッチンに立って取りとめのない思いのよぎるがままにしているうち、つい玄関先に置き放したままの花が浮かんだ。冷静になって考えてみれば激情に駆られた昨日の自分が恥ずかしい。あんな愛らしい花を抜いてしまうなんて、少しかわいそうなことをした。もうしおれてしまっているだろうか。

「あれ?」

 玄関に回って探したが、花はどこにもなかった。持ち帰ったと思ったのは間違いで、実際は空き地に捨て置いてきたのか。違う、そんなはずはない。思ったより重たい花の根元を持ち、落とさないように気をつけて歩いた覚えが確かにある。そうだ、どうしてか、そうやって歩く間、娘と手をつないでいるような、足元の浮く気分を私は味わっていた。

 考えにくいけれど、野良犬か何かが持っていったのだろうか。それとも誰かが玄関口まで来て? やや気味が悪くなってリビングに戻ると、そこに花があった。

 娘の使っていた皿だ。普通のより深さがあってちょっと珍しいのを、値もそれなりだったからやめようとして娘の強情に会い、結局折れて買ってあげたのだ。何年も使っているから縁の模様が擦れてかすんでいるけれど、それ以外は欠けたりひびの入ったりもなく、ずっとお気に入りだった。娘の死んでからは食器棚の奥にしまい込んでいたのだが、いつの間に取り出したんだっけ。皿には水が張られて、根を湿した花は弱った様子もなく、つやのある葉の先までぴんと伸びていた。とても可愛らしい花。その日は1日、何をするでもなく花を眺めて過ごした。次と、その次も。花はいつまでもみずみずしい。なんだか、花が私を見ているような気もしてくる。


 何日目かに思い立って、庭に植えかえてあげることにした。

 肌を濡らすように重く冷たい夜の名残の空気を透明な陽が溶かしている。こんな気分のいい朝は幾日ぶりだろう。ただ花を植えるだけではもったいなくて、少しは草取りとか庭木の手入れでもしてみようという気分になった。

 ベランダに降りる戸をいっぱいに開け、空気の入れ替えと一緒につけっ放しのテレビの音が、背を向けた私に降りかかる。テレビはくだらないワイドショーだ。くだらないワイドショーはけっこう大事である。なぜって流されるニュースは陳腐に形骸化されたおとぎ話だから。そうであるなら、それが大事件で、そして直截私に関係なければないほどに、かえってこの場の平和は高まるから。あんなに恐ろしい世界から隠れて、私は娘とふたり。

 だがあいにく、今日はそれほど大変な出来事は起きていないらしかった。執拗に繰り返されるニュースは、交通事故で子供がふたり死んだとやらのものだ。交通事故くらいどこでだって毎日起こっているだろうに。現に私の町でも。振り向いた目に映るふたりの写真には見覚えがある。

 人の形をした根の、肢の欠けた部分をぼろ布で覆った。別にそんなことする必要もないのだろうが、見ていて少し痛々しかったのと、それから罪悪感だろうか。縦に深めに掘った穴にすっぽりと根を納めて、柔らかい土をかける。空き地に自生していたんだから、私の庭でだって元気に育ってくれるはずだ。

 働いた、というほど働いたともいえないが、慣れない土いじりなんかしたから少し疲れた。そのせいか、それとも別の作用か、リビングのソファに腰かけると、じわじわと睡魔がにじり寄った。

 娘が少しだけ、私に近づいていた。ぼやけた輪郭にすぎなかった体が、四肢を持った人の形にまで見えるようになった。皮膚の全体を目にして娘の気配を感じ取ろうとする私に、ちりちり痛痒いような感覚が波打つ。もう少し。もどかしい。

 起きると夕だった。湿った空気がカーテンを生き物のように動かした。

 食事の支度をしなければいけない。キッチンには何もなかった。近所のスーパーで適当に肉と野菜と卵を買う。まっすぐは帰らず、空き地に寄った。

 夜だから子供の姿は見えず、花だけが闇にまどろんでいた。仲の良さそうな2輪を持参のシャベルで傷つけないよう丁寧に掘り出して、買い物袋に入れて帰った。

 やはりすぐには植えない。小さい5弁の花は、よく見れば意外にも深く鋭い色合いだ。生け花風にアレンジするとか、押し花なんかでもきれいだろう。もちろん花を殺してしまうそんな真似はしないけれど。


 2輪は数日間私の目やらを楽しませて、その後で最前のと一緒に庭の住人となった。本当はもう何日か、ためつすがめつ眺めていたかったのだが、娘が呼んだのだ。早く植えてあげないと寂しいというのなら、今はもう自らの手で何を成すこともできない娘のために、私がなんでもかなえてあげる。

 やはり肢の欠けているのを布でふさいで、最初のの隣に植える。心なしか嬉しそうだ。殺風景だった庭に光が灯って、心の深いところまで切り裂いてしまいそうな際立つ色味が風を食んでいる。


 少しして、また花を採りに行った。友達は多いほうが良い。妙な噂が流れているためか最近は空き地に近寄る子供も少なく、繁り放題の花はなんだか退屈そうだった。ひと目見るなり、私は待たれていたのだと、どうしてか強く感じた。

 その日はひと株にしておいた。帰り道にやはり娘の友達に会った。私の手元を見て硬直した表情が最後となって、翌日のニュースが彼女の事故を伝えた。前と同じように庭に花を植えながら、私は背中で聞く。娘は楽しそうだった。子供は残酷だと思う。他人が自分と同じ不幸に遭う、自分と同じ仲間になるのが嬉しいのだ。でも私もそうかもしれないから悪くは言えない。大人はただ抑えているだけだ。他者の不幸を願う浅ましさを、心からむしり取ってやりたいくらいに憎んでも、私たちは聖人にはなれない。海豚は弱った仲間を群れから追い出すという。猫だって鼠をなぶり殺す。生き物とはそういうものだ。私が花を植える。弱い誰かが死ぬ。摂理とはそういうものだ。


 それでも、ひとつひとつの死は知らぬ間に私にのしかかっていたらしい。花が10輪も並んだ頃か。私は突然恐くなった。毒々しい夕暮れの日だ。空を見た途端に切迫した焦燥が喉元まで込み上げて、思わず足をついた先に庭があった。血の色に照る花壇がおぞましくて、キッチンまで逃げた。窓の外を見たくなさに戸を閉てることもできず、赤い夕陽のじりじりと室内に染み透ってくるのを、流しの陰で震えながら過ごそうとしていた。悪寒がひどい。関節が強張って指さえ曲がらなかった。陽が沈むまでに恐怖に耐えられなくなったらどうなるのかと、その不安がまた恐怖を生んだ。

 マンドラゴラという花は無実の罪で死んだ人間の涙の後に生える。にわかに心に言葉が浮かんだ。マンドラゴラは人の見ていないうちに自ら歩き回る。何をいきなり。くだらない迷信だ。マンドラゴラは引き抜かれる時に叫び声を上げる。これを聞いた人は死ぬ。あり得ない、私は生きている。だが娘の友は死んだ。マンドラゴラは人を狂わせる。馬鹿な、私は何をこんなに恐がっているんだ。世の中にそんな不条理などあるわけがない。

 いや、不条理はある。娘が死んだことだ。それこそ、この世界で到底許されるはずのない、もっとも馬鹿馬鹿しいいんちきだ。愛してたのに。家族だったのに。だから、そうだ。それは本当に許されない。だから娘は死んでない。


 軽いサッシの向こうに見える黒く染まった庭の遠く、灰色がかった赤い大気に沈む町を、熾き火の温かささえなくして意味もなく照らす太陽がゆっくりとこぼたれて、夜が来た。身体の震えは治まったか、それとも私自身から見えなくなったせいで治まったのと同じ効果を生んでいた。私はそろりと動いて、心が平静なのを確かめると、思い切って庭に下りた。

 美しかった。噂とか死とか私のやったこととか、まるで関係ない。花の咲くのは、それがそうあるということが冒しがたく厳然とした、混迷の世界に唯一の光を放つかのように揺るぎない事実だった。私はそれに打たれた。そうしてそうであるなら、娘の存在を私が願えば花のそれを叶えてくれるのはたやすいはずだった。だから願った。


 朝起きてごはんを食べて娘を学校に送り出して掃除洗濯買い物して娘が帰ってきて学校の話を聞きながらごはんを食べてお風呂に入って寝る。かつて日常はそうやって、色紙と針金とストローで作った頼りない風車のように回っていた。今は代わりに花の世話をしてやる。いつの間にか花は庭いっぱいに咲き乱れていた。土をかけ、水をやり、虫を取り、雑草を抜く。娘が微笑む。きれいだね。言葉に出さずとも気持ちが伝わる。私は嬉しくなる。


 私の花を抜く抜かないに関わらず、人は次々に生まれては死んでいった。ひとつひとつ違う顔のひとつひとつ違う心が現れては消え、時に助け合い、時に殺し合った。私と娘だけが変わらない。

 どれだけ同じ日々を過ごしたのだろう。花はいつまでも枯れなかった。季節はいつも秋だった。それでようやく、私は自分が何故幸せなのか気づいた。


 私が願ったから娘が現れたのではなく、花が願ったから私が現れたのかもしれない。

 私こそ、秋の野の風に揺れる花が短い一生のうちに垣間見た、幸福な夢の欠片だったのかもしれない。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして、空鳥光実と申します。 はじめてこの話を読ませていただきました。 いい話ですね。 娘さんはかわいそうだったけどお母さんが立ち直れてよかったです。 私はまだ中1なのでこんないい…
[一言] 読ませていただきました。 圧倒的に美しく、勢いのある文章。 お話が盛り上がってくるにつれ、焦燥感を増してくる文章に引き込まれて夢中で読みました。 ホラーというかなんと言うべきか。 ともかく背…
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