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第8話 教室の隅にある、小さな理不尽

教室というのは、たぶん生き物だ。


 昨日と今日で空気が違うし、朝と昼でも顔が変わる。誰がどこに座って、誰が誰へ話しかけて、誰が笑って、誰が黙るかで、同じ机と椅子の並びがまるで別の場所みたいになる。


 入学してまだ数日だというのに、A組の空気はもうなんとなく形を持ち始めていた。


 木乃実みたいに最初から誰とでも話せるタイプがいて、佐伯みたいに気づくと輪の中心近くへいるやつがいて、僕みたいにその少し外側から入るタイミングを測るやつがいて、エヴァみたいに輪の外にいるようでいて実はちゃんと教室全体を見ているやつがいる。


 そして、黒崎みたいなやつもいる。


 黒崎蓮司。


 入学二日や三日で「こいつ嫌なやつだな」と断定するのは、我ながら人を見る目が辛辣すぎる気もする。もう少しこう、人には段階があるべきだろう。第一印象、保留、様子見、確信、みたいな。そういう手順を踏んでこそ公平というものだ。


 だが、人間というのは悲しいことに、嫌な感じだけは妙に早く伝わる。


 それも、露骨な悪意ではないやつだ。


 露骨なら分かりやすい。分かりやすいものは、だいたい誰かが止める。先生だって注意できるし、クラスメイトだって「あいつはちょっとないよな」と言いやすい。


 問題は、分かりづらいやつである。


 軽口の顔をした見下し。

 冗談の形をした押しつけ。

 親しげな口調に混ぜた線引き。

 強いやつにはいい顔をして、弱そうな相手にだけ少しだけ強く出る、あの“少しだけ”のうまさ。


 黒崎は、その“少しだけ”がうまい。


「神代くん、これ後ろ回してー」


 木乃実に言われて、僕はプリントの束を受け取った。


「はい」

「お、今日の返事ちょっと柔らかい」

「今そこ拾う?」

「拾うよ。だって昨日まで“承知しました”って言いそうだったし」

「言わないよ」

「でも心の中では言ってそう」

「……否定しづらいこと言うなあ」


 木乃実が楽しそうに笑う。佐伯も後ろで肩を揺らしていた。


 こういう、どうでもいいやり取りが増えてきたのは正直ありがたい。ありがたいのだが、その一方で、教室の別の場所にある空気も少しずつ見えるようになってきた。


 人間関係というのは、仲良くなると視野が広がる。


 自分の周囲だけじゃなくて、誰が誰と話していて、誰が誰へ少しだけ遠慮していて、誰の冗談に誰が笑っていないか、そういうものが見え始める。


 見えなくていいものまで、見える。


 前の方で、黒崎が気弱そうな男子――名前はたしか三田村だったか――の提出用紙をひらひらさせていた。


「え、おまえ、ここまだ空欄じゃん」

「いや、あとで書こうと思ってて」

「あとでって、もう回収されるけど?」

「え、マジで」

「いや知らない。俺、先生じゃないし」


 言い方がうまい。


 責めているわけではない。ただ笑っているだけに見える。しかも最後にはちゃんと逃げ道も残している。“俺は先生じゃないし”。便利な台詞だ。便利で、ずるい。


 三田村は慌ててペンを探し、机の中をがさがさやり始めた。黒崎はそれを少し見て、それから隣の男子へ顔を向けて肩をすくめる。いかにも“ちょっと抜けてるよな、あいつ”みたいな空気を作るのが自然すぎる。


 周囲も、そこまで大ごとには受け取らない。


 せいぜい、

「黒崎ってちょっときついよな」

 くらいで終わる。


 実際、それだけならまだ“よくいるやつ”の範囲かもしれない。


 でも、そういうのが続くと、教室の中に見えない線が引かれる。


 こっち側と、あっち側。

 言い返せるやつと、言い返しづらいやつ。

 からかってもいい相手と、触らない方がいい相手。


 そういうのは、たいてい黒板には書かれない。


「あなた、また見ていますわね」


 隣から、静かな声がした。


 エヴァだ。彼女は教科書へ目を落としたまま、でもちゃんと僕の視線の先まで理解している顔をしていた。


「何を」

「嫌なものを見ている時の顔です」

「そんな顔してる?」

「ええ」

「便利だな、その判断」

「便利なのではなく、分かりやすいのです」


 言って、エヴァはようやく僕の方を見る。


「また、放っておけない顔をしていますわね」

「まだ何もしてない」

「していないのではなく」

 彼女は少しだけ声を落とした。

「まだ、“していないだけ”でしょう」

「……」

「違いますの?」

「違う、とは言い切れないけど」

「ほら」

「ほら、じゃないよ」


 エヴァはそれ以上追及しなかった。


 でも、その言い方はもう十分だった。


 この人は、本当に見ている。僕の動きだけじゃなくて、動かない時の方まで。たぶん、僕が我慢しているのか、本当に気にしていないのか、その差まで見ようとしている。


 それは少し怖い。


 少し怖くて、でも少しだけ楽でもある。


「神代くん」


 木乃実が今度は小声で呼んだ。


「何?」

「今、黒崎くん見てたでしょ」

「見てた」

「やっぱちょっと苦手?」

「……ちょっとは」

「だよねえ」

 木乃実は露骨に顔をしかめるわけではなく、でもはっきりそう言った。

「なんかさ、嫌な感じなんだよね」

「嫌な感じ」

「うん。めちゃくちゃ悪いやつってほどじゃないんだけど」

「そこがまた厄介だよな」

 佐伯が会話へ入る。

「先生の前だと普通に感じいいし」

「そうそう」

 木乃実が頷く。

「しかも言い方が、いちいち“冗談じゃん”って逃げられる感じなんだよ」

「分かる」

「でしょ?」

 木乃実が少しだけ声を潜めた。

「でも、だからってわざわざ揉めるほどでもない、みたいな空気あるじゃん」

「……あるね」

「そういうのが一番面倒なんだよなあ」


 まさにそうだった。


 もし黒崎がもっと分かりやすく横暴なら、話は早い。敵なら敵として整理できる。けれど今の黒崎は、教室の中にいる“ちょっと嫌なやつ”でしかない。そういう人間は、どの集団にもいる。だから誰も止めない。止めないし、止める理由も弱い。


 弱いけれど、積もる。


 そういう類いの空気だ。


「で」

 木乃実が僕を見る。

「神代くんは、ああいうの苦手そう」

「そんな分かりやすい?」

「分かりやすい」

 今度は佐伯が即答した。

「神代ってさ、あんまり嫌な顔しないのに、本当に嫌な時だけ急に分かりやすいんだよ」

「それは嬉しくない評価だな」

「でも事実」

「事実は強いんだよなあ……」


 その時、前方で先生が教室へ入ってきた。


 黒崎は一秒で顔を変える。


「先生、おはようございます」

 声まで少し明るい。


 先生の方も、別に不自然とは思っていないのだろう。普通に「はい、おはよう」と返して教壇へ向かう。三田村はまだ書きかけの用紙を押さえていて、黒崎はもう何事もなかったみたいな顔で自分の席へ戻っている。


 見事だった。


 感心したくないのに、少しだけ感心してしまうくらい、見事だった。


「嫌いですわね、あなた」

 エヴァがふいに言った。

「え?」

「今の」

「……うん」

「分かりやすいですわ」

「そんなに?」

「ええ」

 エヴァは淡々と続ける。

「あなた、理不尽そのものより、“見て見ぬふりで成立してしまう理不尽”の方が嫌いでしょう」

「そこまで分かるの」

「何となく」

「その“何となく”でそこまで当てるの、だいぶ怖いな」

「あなたに言われたくありません」


 授業が始まる。


 黒板に文字が書かれ、ノートを開く音がして、教室は一応いつも通りの形へ戻る。だが僕の中には、さっき見た小さなやり取りが妙に残っていた。


 大したことじゃない。たぶん、客観的に見れば本当にそうだ。笑って流せる範囲かもしれないし、本人同士の相性の問題で済まされるかもしれない。


 でも、そういう“済まされる”ものの中に、嫌なものが混ざっている時、人はどうするんだろう。


 普通の高校生活、というやつは、そういうものも込みなのだろうか。


 僕が思っていた“普通”の中には、正直入っていなかった。


 昼休み、放課後、友達、教室、騒がしさ、少しの気まずさ。そういうものは想像していた。

 けれど、誰かが少しだけ損をしていて、それをみんなが“まあいいか”で見逃す空気までは、想像していなかった。


 そして、想像していなかったからこそ、少しだけ腹が立つ。


 それが子供っぽい理想論だとしても、今のところ僕はまだ、その理想を完全には捨てていないらしい。


 授業が終わって、放課後になった。


 教室の中では、また昼とは違う形で小さな輪ができている。部活見学へ行くやつ、まっすぐ帰るやつ、友達を待つやつ。先生がいなくなった教室は、昼休みと同じようで少し違う。昼よりも解放感があって、そのぶん本音も出やすい。


 黒崎はまた、何人かと笑いながら話していた。教師が近くを通ると一歩だけいい子になるあたり、やっぱり器用だ。器用なやつは厄介である。こっちが不器用なだけに余計に厄介だ。


「帰るんですの?」


 エヴァが鞄を持ちながら聞いてきた。


「そのつもり」

「そう」

 彼女は一瞬だけ黙って、それから低い声で言った。

「あなた、結局ああいうのは放っておけないのでしょう?」

「……」

「さっきの黒崎という方のことです」

「分かってるよ」

「なら答えてくださいな」


 僕は少しだけ黙った。


 教室の中はまだざわざわしていて、誰かの笑い声も聞こえる。黒崎もその中に混ざっている。木乃実は少し離れた場所で女子グループと話していた。佐伯は部活見学へ行くかどうか迷っているらしい。朱音は教室の出入口の近くで、何となくこっちを気にしている。


 全部、普通の放課後だ。


 その普通の中に、さっきみたいな小さな嫌なことも混ざっている。


「分からない」

 僕はようやく言った。

「正直、どうするのが正しいのかはまだ分からない」

「でも?」

 エヴァが促す。

「……でも、たぶん嫌いだ」

「何がですの」

「今みたいなの」

 僕は教室の隅を一度だけ見る。

「強いやつには愛想よくして、言い返しづらい相手にだけ軽く当たる感じとか、それを周りも“まあそのくらいなら”で流してる感じとか。そういうの、たぶん嫌いだ」

「たぶん?」

「たぶん」

「ずいぶん曖昧ですわね」

「曖昧だよ」

 僕は少し笑った。

「まだこの学校のこと、よく分かってないから」

「……」

「でも、嫌いだって気持ちだけは、たぶん本物」


 エヴァはしばらく何も言わなかった。


 ただ、まっすぐこちらを見ていた。青い瞳は相変わらず読みづらいのに、ときどき妙に深いところまで見てくる。


 やがて彼女は、ごく小さく頷いた。


「そういうところは、嫌いではありませんわ」


 それだけ言って、少しだけ視線を外す。


 珍しく素直な言い方だった。だからこそ、僕は一瞬返事を忘れた。


「うん。知ってる」


 今度は朱音だった。


 いつの間にかすぐそばまで来ていて、でもさっきまで割り込まなかったのは、たぶんわざとだろう。彼女はそういうところがある。見ている。待っている。見ていて、待っていて、必要な時だけ近づく。


 ある意味では、黒崎よりずっと厄介だ。主に僕にとって。


「知ってるって」

 僕が言うと、朱音は少しだけ笑った。

「恒一くん、そういうの見過ごせないもん」

「決めつけるなよ」

「決めつけじゃないよ」

「じゃあ何」

「長年の観察結果?」

「その言い方、ちょっとエヴァに似てきたな」

「やだ」

 朱音は即座に言った。

「そこは似たくない」

「聞こえてますわよ」

 エヴァが冷たく返す。

「聞こえるように言ったもん」

「性格が悪いですわね」

「エヴァさんに言われたくないかな」

「それは同感だ」

 僕がつい言うと、二人とも同時にこちらを見た。


 しまった、と思った時には遅い。


「恒一くん」

「何」

「今、誰の味方した?」

 朱音が聞く。

「してない」

「しましたわね」

 エヴァが言う。

「いや、これはその」

「その?」

 朱音が詰める。

「こういう時だけ曖昧になるよね」

「いや、曖昧にもなるだろ」

「ならないですわ」

 エヴァが言う。

「少なくとも、あなたはもう少し覚悟を持って会話なさった方がいいと思います」

「昼休みの時も思ったけど、君たまに会話へ戦場のルール求めるよね」

「求めていません」

「求めてるよ」

「求めてるかも」

 朱音が横から頷いた。

「ちょっと分かる」

「あなたは黙っていてくださいません?」

「やだ」

「即答ですのね」

「うん」


 教室の空気は、もうほとんど帰り支度のそれだった。けれど僕の周囲だけ、妙に濃い。


 木乃実がこっちを見て笑っている。佐伯もたぶん察している。周囲からすれば、今日も今日とて“神代の周りは騒がしい”で済む話なのだろう。


 でも僕の中には、さっきまでの小さな不快感がまだ残っていた。


 騒がしさも、笑いも、少しの不器用さも、教室の中にはある。そういうものは、たしかに嫌いじゃない。むしろ、たぶん好きだ。


 だけど同時に、見て見ぬふりをした小さな嫌なものもある。


 それは僕が思っていた“普通の高校生活”の中には入っていなかった。

 入っていなかったし、入っていてほしくもなかった。


 でも、ある。


 ある以上、たぶんそのうち、僕はちゃんと見ることになる。


 それが面倒だというのも分かる。

 見なければ楽だというのも分かる。

 でも、分かっていることと、できることはいつだって別だった。


「帰ろうか」

 僕が言うと、朱音がすぐ頷いた。

「うん」

 エヴァは一拍だけ遅れて、

「ええ」

と返した。


 そして僕たちは、いつものようでいて、少しだけ昨日までとは違う放課後の空気の中を歩き出した。


 次に何かが起きるとしたら、たぶん大きな事件ではない。

 もっと小さい。

 もっと教室の隅の方にある、誰かが見過ごしかける程度のものだ。


 でも、そういう小さなものの方が、たいてい面倒なのだと、僕はもう薄々知り始めていた。

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