第62話 メモは証拠じゃなくても、無かったことにはされにくい
メモは、証拠にはならない。
少なくとも、それだけで全部を決めるような強さはない。
録音でもないし、動画でもないし、誰かの署名があるわけでもない。ただ自分が、その時そこにいて、何を見て、どう感じたかを後から思い出せるように残しているだけだ。
でも、だからといって意味がないわけでもない。
何も残さなかった記憶は、驚くほど簡単に薄くなる。
何曜日だったか。
何時間目のあとだったか。
誰がいたか。
先に何を言って、そのあと何が起きたか。
そういうものは、二日も経つと曖昧になる。
そして曖昧になった瞬間、嫌な出来事はすぐに“たぶんそんな感じだった”へ落ちていく。
それが今は、いちばん困る。
だから、その日の僕はとうとうノートの端へ簡単なメモを残し始めることにした。
探偵みたいだな、と思う。
思うし、正直ちょっと嫌だ。
でも、嫌だからやらないでは足りない段階に、たぶんもう来ていた。
朝の教室。
木乃実はいつものように早い段階で僕の顔を見て、すぐ言った。
「神代くん」
「何」
「今日、ちょっと静かに決めてる」
「何を」
「たぶん、残す」
「……」
「図星」
「ほんと最近、僕の顔って教科書より読みやすいな」
「神代くん限定でね」
木乃実は頬杖をつく。
「しかも今日は、“これは覚えてるだけじゃ足りないな”って顔」
「……」
「そこまで読むの、だいぶ嫌だな」
「でも当たってる?」
「かなりな」
「ほら」
「そこで満足げになるなよ」
後ろから佐伯も混ざる。
「昨日のやつだろ」
「何が」
「“また置いてかれてる”」
「……」
「木乃実も俺も聞いてた」
「うん」
「で、そういうのって今後もっと増えるかもしれない」
「うん」
「なら、残しといた方がいい」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「最近、おまえまでそういうとこ妙に実務的だなって」
「神代の周りいると嫌でもそうなる」
「嬉しくない成長だな」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「ようやく、そこまで来ましたのね」
「何だよその言い方」
僕が聞くと、エヴァは平然としている。
「今の段階で必要なのは」
「うん」
「証拠集めではなく、忘れないことです」
「……」
「日時」
「うん」
「何が起きたか」
「うん」
「誰がいたか」
「うん」
「そこだけでも残しておけば、“そんなことあったっけ”にはされにくい」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は苦笑した。
「やっぱり君、そこを言葉にするのがうまいなって」
「褒めても何も出ません」
「今のはかなり褒めてる」
「……困りますわね」
「最近それ認めるな」
「認めないと面倒でしょう」
「また人のせいにした」
「事実です」
朱音は、会話の途中で僕の机の横へ来ると、ノートの上をちらっと見た。
「もう書く場所決めてる」
「……」
「何だよ」
「いや」
朱音は少しだけ笑う。
「思ったより早かったなって」
「早い?」
「うん」
「だって、恒一くんこういうの」
「うん」
「“そこまでしたくない”って思うタイプでしょ」
「……」
「図星」
「ほんとに逃げ場ないな」
「でも必要だよ」
朱音は肩をすくめた。
「だって今って、“記憶が重なる”の大事な段階なんだから」
「うん」
「その重なりを、あとでちゃんと揃えられるようにしないと」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は素直に答える。
「おまえも最近ほんとにそこを外さないなって」
「長いからね」
「またそれか」
「便利だよ」
「ほんと万能だな、その言葉」
一時間目のあと、僕はノートの最後のページを一枚使うことに決めた。
タイトルも何もいらない。
ただ、簡単に。
日時
場所
誰がいた
何が起きた
先生が見た範囲
そこまで書く。
そして出来るだけ、その場の感情は削る。
“むかついた”とか“最悪”とか、そういうのはあとからいくらでも増える。今必要なのは、それより前の形だ。
たとえば昨日なら。
三時間目と四時間目のあいだ、英語前、教室内。
僕・木乃実・佐伯・三田村。
三田村がページ遅れる。
黒崎『また置いてかれてる』。
そのあとワークを見せる。
先生はワークを見せるところから反応。
そういう感じだ。
書いてみると、驚くほど味気ない。
でも、味気ない方がいいのかもしれない。
「うわ」
木乃実が横から覗いて言った。
「何」
「ほんとに書いてる」
「書くって言ってないだろ」
「顔に書いてあった」
「便利だな」
「かなりね」
木乃実はノートを見る。
「でも、これくらいの方がいいかも」
「どういう意味」
「神代くんの感情が入ってない」
「……」
「そこ大事じゃない?」
「大事」
僕は頷く。
「最初から“嫌だった”を濃くすると、たぶん重くなりすぎる」
「うん」
「だから今は、先に形だけ」
「……」
「やっぱ神代くん、最近そこすごいね」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「最近そこ割合なし多いな」
「今日は本気でそう思ってるから」
佐伯も後ろからノートを見た。
「いいんじゃね」
「軽いな」
「いや、でも」
佐伯は肩をすくめる。
「こういうのって、あとで言い合いになるとたぶん役に立つ」
「……」
「“いつだっけ”とか“誰いたっけ”で止まらなくなるし」
「……」
「そう」
僕は頷く。
「たぶん今必要なの、そこ」
「証拠じゃないけどな」
「うん」
「でもゼロよりはだいぶいい」
「かなりな」
昼休み、また小さな出来事があった。
提出プリントを回す流れの中で、小坂が束の端を少しずらした。
黒崎がすぐ拾って、笑いながら言う。
「相変わらず危なっかしいな」
その一言は、昨日までの“善人ムーブ”の薄皮の下に、また前の棘が少しだけ戻り始めた感じがした。
しかも声量が絶妙で、近くの僕と木乃実と三田村には聞こえる。先生にはたぶん届かない。
僕はその場では何も言わなかった。
でも、少しあとでノートに短く書いた。
昼休み前、提出プリント。
僕・木乃実・三田村・小坂。
小坂が束をずらす。
黒崎『相変わらず危なっかしいな』。
先生は未確認。
「ほんとに書くんだ」
三田村が、少し驚いたみたいに言った。
「うん」
僕は頷く。
「何か」
「何」
「ちょっとだけ安心する」
「……」
「何だよ」
「いや」
三田村は小さく苦笑した。
「その場で全部どうにかならなくても」
「うん」
「無かったことにはならない感じする」
「……」
その言い方が、妙に胸に残った。
無かったことにはならない。
たしかに、今の僕が欲しいのはそこなのかもしれない。
すぐ勝つことでも、すぐ止めることでもなく。
少なくとも、“気のせいだったのかも”へ戻らないこと。
「それ」
僕は言った。
「かなり大事だな」
「うん」
「何」
「いや」
僕は素直に言う。
「今の言い方、すごく正確だった」
「そうかな」
「そうだよ」
木乃実が言う。
「最近の私たち、たぶんそこを必死でやってるし」
「無かったことにされないように、か」
佐伯が言う。
「うん」
僕は頷いた。
「たぶん、それ」
少し離れたところで、エヴァが静かに言った。
「それで十分ですわ」
「何が」
僕が聞くと、エヴァはノートの方へ少しだけ視線を向けた。
「今の段階の記録です」
「……」
「それは証拠ではありません」
「うん」
「でも、後から“そんなことありました?”へ戻されにくくなる」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「今の、やっぱり欲しかった言葉だなって」
「……」
「何で黙る」
「困るからです」
「最近ほんとそれ認めるな」
「認めないと面倒でしょう」
「また人のせいにした」
朱音は、僕がメモを取るのを見て少しだけ満足そうだった。
「うん」
「何」
「やっぱり、それでいいと思う」
「……」
「何が」
「探偵ごっこじゃなくて」
「うん」
「忘れないためのメモ」
「……」
「そこ、大事」
「うん」
「恒一くん、そうやって自分の嫌さを一回薄くして」
「うん」
「“何が起きたか”だけ残してる」
「……」
「それ、かなり強い」
「強い、か」
「うん」
朱音は頷く。
「だって、あとで自分でもブレにくいじゃん」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は苦笑した。
「おまえも最近、そこほんと外さないなって」
「長いからね」
「またそれか」
「便利だよ」
「ほんと万能だな、その言葉」
メモは証拠じゃなくても、無かったことにはされにくい。
今の僕に必要なのは、たぶんそのくらいの強さだった。




