第29話 小さな敵意は、だいたい誰もいないところで形になる
人間というのは、敵を作る時にわざわざ宣言したりはしない。
いや、するやつもいるのかもしれないが、少なくとも黒崎蓮司はそういうタイプではない。あいつはもっと器用だ。笑いながら距離を取るし、軽口の顔で線を引く。そして、その線が引かれたことに相手が気づいた時には、もうだいぶ面倒な位置関係が出来上がっている。
昨日の「神代、ほんと邪魔だな」は、たぶんそういう意味ではかなり分かりやすい部類だった。
分かりやすい、のに。
だからといって今すぐ何かが起きるとも限らない。
そういう“何か起きるとも限らない”時間がいちばん嫌だ。
朝、教室へ入った時、僕はその嫌な感じをちゃんと持ち込んでいた。
「神代くん」
木乃実が、もはや朝の挨拶くらい自然に僕を呼ぶ。
「何」
「今日、警戒心が一段上がってる」
「最近みんな本当に人の顔から情報取りすぎじゃない?」
「神代くんが取りやすいんだって」
木乃実は笑う。
「でも今日は分かりやすいよ。なんか“静かに来るなら静かに受けて立つ”みたいな顔してる」
「そんな物騒な顔してない」
「してるって」
佐伯が後ろから言う。
「昨日のあれ聞いてたら、そりゃそうもなるだろ」
「聞いてたのか」
「聞こえる位置だったし」
「……」
「神代」
「何」
「昨日の、やっぱだいぶ本音だったよな」
「本音だろうね」
「だよなあ」
佐伯がため息をつく。
「黒崎、最近ちょっと分かりやすくなってきた」
それは本当にそうだった。
前はもっと、空気に紛れた。
最近は少し雑だ。
雑になっているということは、たぶん向こうも余裕が減っている。
減っているからこそ、次はもう少しだけ分かりやすい形になる気がしていた。
「おはようございます」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「おはよう」
「今日は完全に“待っている”顔ですわね」
「待ってる?」
「ええ」
エヴァは平然としていた。
「来るなら来なさい、の方です」
「そんなに?」
「かなり」
「そこまで言われると、自分で自分が少し怖いな」
「そういう時だけは、少し怖いかもしれませんわね」
「少しだけなんだ」
「ええ。普段はただ面倒です」
「ひどいな」
「事実ですもの」
「最近その言葉、みんな好きだな」
「便利なのでしょうね」
「君まで言うのか」
朱音はいつもより少し早く来た。
来て、僕の席の近くで止まる。
そして珍しく、茶化す前に本題を言った。
「今日、たぶん単独で来るよ」
「誰が」
「黒崎くん」
「単独で?」
「うん」
朱音は小さく頷く。
「教室の中で空気作るやり方、昨日ちょっとやりにくくなったから」
「……」
「次は人が少ないとこで何か言うか、何かやるか」
「嫌な予測だな」
「予測っていうか」
朱音は僕を見る。
「わりと見えてる」
「そこまで?」
「そこまで」
その言葉が妙に残った。
単独で来る。
たしかに、ありそうだと思った。
教室の中では木乃実も佐伯も反応するようになった。三田村も少しずつ言葉を出す。先生の前での立ち回りも、昨日は完全にはうまく通らなかった。
なら次は、もっと人が少なくて、もっと言い逃れしやすい場所。
廊下とか。
階段の踊り場とか。
放課後の教室とか。
そういうところだ。
午前中は妙に平和だった。
妙に、というのが重要である。
黒崎は今日は本当に静かだった。三田村への軽口も少ない。僕に向けた言葉もない。教師の前でもいつも通り感じがいいし、クラスの何人かと普通に笑っている。
つまり、不自然なくらい平和だ。
「逆に気持ち悪いな」
僕が小さく呟くと、
「ええ」
とエヴァがすぐ返した。
「かなり」
「即答するな」
「あなたも同じことを思ったのでしょう?」
「思った」
「でしょうね」
「そこ、ほんと毎回早いな」
「あなたが分かりやすすぎるのです」
「それ、もう挨拶みたいになってきたな」
昼休みになっても、やはり何も起きない。
三田村は今日はむしろ慎重すぎるくらい慎重だった。資料も筆箱も、机の上へ出したあとに二回くらい確認している。気持ちは分かる。分かるが、そうさせてしまっている時点で、もう教室の空気はだいぶ良くない。
「ねえ」
木乃実が小声で言う。
「何」
「今日、逆に何もなさすぎない?」
「うん」
「やっぱそうだよね」
「うん」
木乃実はちらっと黒崎の方を見る。
「昨日のあとで急に静かだと、逆にこわい」
「それは分かる」
佐伯も頷く。
「こういう時の“何もない”って、何もないわけじゃないんだよな」
「最近みんな学習しすぎじゃない?」
僕が言うと、
「神代くんの周りにいると、嫌でもするよ」
と木乃実が返した。
「それ、僕が悪いみたいだな」
「半分くらいは」
「半分もあるの?」
「でも残り半分は黒崎くん」
「それは妥当かもしれない」
そして放課後。
木乃実は今日は部活見学。
佐伯も途中で体育館へ行った。
朱音は保健委員の用事で職員室。
エヴァは図書委員の当番で、少しだけ遅れるらしい。
結果、僕が教室を出た時点で、廊下は妙に静かだった。
ああ、と僕は思った。
なるほど。
こういう日か。
階段の手前で、案の定黒崎がいた。
待っていた、というほど露骨ではない。
でも、“たまたま今ここにいます”の顔としてはだいぶ不自然だった。
「神代」
軽い声。
けれど教室の中で聞く時より、一段だけ低い。
「何」
「ちょっといい?」
「内容による」
「警戒しすぎだろ」
「そうかもな」
「最近ほんとそういう返し増えたよな」
「おまえのせいかもしれない」
「ひど」
黒崎は笑った。
笑ってから、階段の踊り場の方へ少し顎をしゃくる。
「そこで話そうぜ」
「ここじゃだめか」
「別にいいけど」
黒崎は肩をすくめる。
「聞かれて困ることでもあんの?」
「それ、おまえが言うのか」
「何だよその言い方」
「……いや」
結局、僕は踊り場の方へ数歩だけ動いた。
完全に二人きりになる位置ではない。廊下の気配がまだ少し残る場所。そこまで行ってから立ち止まる。
「で」
僕が言う。
「何の話」
「別に大したことじゃない」
黒崎は壁に軽く肩を預けた。
「たださ、おまえ最近ちょっとやりすぎじゃね?」
「何が」
「いちいち」
黒崎は笑った。
「空気止める感じ」
「……」
「正論っぽいこと言ってさ、周り巻き込んで」
「そう見えてるのか」
「見えてるよ」
「へえ」
「へえ、じゃなくて」
黒崎は視線を細める。
「おまえ、自分で思ってるより目立ってるって」
「目立ちたくてやってるわけじゃない」
「知ってる」
「知ってるなら、そこで終わりだろ」
「終わんねえよ」
黒崎は笑顔のまま言う。
「こっちはこっちでやりづらくなるし」
「……」
「三田村みたいなのにいちいち構うやつがいると、全体が変な空気になる」
「それ、本音?」
「さあ」
「本音だな」
「決めつけんなよ」
「おまえもよくやるだろ」
黒崎は一瞬だけ黙った。
たぶん、僕が前より切り返すようになったのが少し気に食わないのだろう。前の僕なら、ここでもう少し曖昧に受けていたかもしれない。でも最近は、そこを流すと余計面倒になる気がしている。
「神代」
黒崎は声を少しだけ低くした。
「おまえさ」
「何」
「三田村のこと、どこまで面倒見る気?」
「……」
「助けたいなら、最後まで見ろよ」
「またそれか」
「だってそうだろ」
黒崎は肩をすくめる。
「中途半端に首突っ込んで、空気だけ悪くして、でも責任は持ちませんって一番だるいじゃん」
「責任、ね」
「何だよ」
「その言葉、好きだなって」
「は?」
「最近ずっと、そこへ寄せようとしてる」
「……」
「助けるなら全部やれ、って形に」
「違う」
「違わないだろ」
僕は静かに言った。
「おまえ、自分が押しつけた時は“本人がいいって言った”で逃げる」
「……」
「でもこっちには“助けるなら最後までやれ”って言う」
「それは」
「都合よすぎるだろ」
黒崎の目が、今度ははっきり冷えた。
笑っていない。
しかもその冷たさを、今回は少し隠しきれていない。
「あのさ」
黒崎が言う。
「おまえ、ほんと嫌なやつになってきたな」
「そうかもな」
「前はもっと普通だったのに」
「前のおまえが好きだったのか?」
「そういう意味じゃねえよ」
「だろうな」
僕は一拍置いた。
「でも最近、おまえの方も前より分かりやすい」
「……」
「教室の中で空気作るのがやりにくくなったから、今度は人が少ないとこで言いに来た」
「何それ」
「違う?」
「……」
「違うなら、そこで否定すればいい」
黒崎は否定しなかった。
否定できない、の方が近かったかもしれない。
その沈黙があった時点で、僕の中ではもうだいぶ答えに近い。
「……神代くん」
そこで声がした。
階段の上の方から、朱音が立っていた。
保健委員の用事、終わるの早かったのか。
いや、たぶん違う。
こいつはこいつで、何かを察して来たのだろう。
「何してるの?」
声は軽い。
でも、立ち方が軽くない。
黒崎が少しだけ舌打ちしそうな顔をしたのを、僕は見逃さなかった。
「別に」
黒崎が笑う。
「神代とちょっと話してただけ」
「へえ」
朱音はゆっくり階段を下りてくる。
「それ、教室じゃだめだったの?」
「……」
「だめっていうか」
黒崎が肩をすくめる。
「たまたまここだっただけ」
「ふうん」
朱音は僕の少し前で止まった。
「恒一くん」
「何」
「それ、本当?」
「半分くらいは」
「半分」
「うん」
「じゃあ残り半分は?」
「向こうに聞いてくれ」
黒崎はそこで、もう一度だけ笑顔を作った。
「……ほんと面倒くせえな、おまえら」
「そうだね」
朱音は笑う。
「でも、わたしたぶん黒崎くんよりそっち側だよ」
「聞いてねえし」
「聞いてなくても言うの」
「最悪」
「ありがとう」
「褒めてねえよ」
その時、さらに廊下の向こうからエヴァの姿が見えた。
図書委員の仕事を終えたらしい。こっちの空気を見て、一瞬で状況を理解した顔をするのが腹立たしいくらい正確だ。
「……やはり、単独で来ましたのね」
エヴァが言う。
「予言みたいに言うな」
僕が返すと、
「予言ではありません」
とエヴァは言った。
「観察結果です」
「便利だな」
「あなた方が乱用しているだけです」
黒崎は、さすがにこれ以上続ける気をなくしたらしい。
「もういいわ」
と吐き捨てるように言って、壁から身体を離す。
「神代」
「何」
「その感じでずっといけると思うなよ」
「……」
「正義感って、たいてい途中で面倒になるから」
それは今までで一番、ほとんど脅しに近かった。
近かった、けれど。
たぶん黒崎は、そこをはっきり越えない。
越えないまま、匂いだけ残す。
だから厄介だ。
「じゃあな」
黒崎はそう言って、そのまま階段を下りていった。
残った空気は、妙に静かだった。
「……単独で来ると思った」
朱音が言う。
「当たったな」
「嬉しくないけど」
「だろうな」
僕は少しだけ息を吐く。
エヴァが一歩近づいてくる。
「どうでしたの」
「何が」
「内容です」
「だいたい予想通り」
僕は正直に答えた。
「助けるなら最後まで見ろ、みたいなこと言われた」
「ええ」
エヴァは頷く。
「やはり、そこへ寄せてきましたのね」
「分かるんだ」
「前からそういう方向でしたもの」
「でも今回は、だいぶ直接だった」
「でしょうね」
エヴァは僕を見る。
「つまり次は、もう少し具体的に“神代恒一が関わると面倒になる”を作りに来ます」
「嫌な確定表現だな」
「事実でしょう」
「最近ほんとその言い方好きだな」
「便利なのでしょう?」
朱音が少しだけ笑った。
「今の、恒一くん前よりちゃんと返してたね」
「そうか?」
「うん」
「でもちょっと危なかった」
「何が」
「引き受ける話にされかけてた」
「……」
「そこで“それは違う”って戻せたの、前より大きい」
「……」
「朱音」
「なに?」
「そこ、褒めてる?」
「かなり」
「そうか」
「でも」
朱音は少しだけ目を細めた。
「たぶん次は、もうこっちの返し方まで見てくるよ」
「そこまで?」
「うん」
「……」
「だから」
「だから?」
「次は、こっちもちゃんと準備しよう」
「……」
僕は小さく頷いた。
「そうだな」
小さな敵意は、だいたい誰もいないところで形になる。
そして形になったものは、もう“空気の問題”だけでは済まない。
黒崎は今日、はっきり僕へ来た。
まだ事件ではない。
でも、もう前みたいな前哨戦でもない。
ここから先は、たぶんもう少しだけ具体的になる。
そう思った時点で、次の章はもう始まりかけているのだろう。




