第27話 先生の前でだけ親切なやつは、だいたい理由がある
人は、優しい場面を一度見ると、その人のことを少しだけ信じる。
これはたぶん悪いことじゃない。
むしろ健全だと思う。最初から全員を疑ってかかる教室なんて、息苦しいだけだ。誰かが落とした消しゴムを拾ったとか、プリントを回したとか、分からないところを教えたとか、そういう小さな親切を見て「この人はわりとちゃんとしてるのかも」と思うのは、集団で暮らす上ではわりと自然な反応だろう。
問題は、その“自然な反応”を、わざと使うやつがいることだ。
そして黒崎蓮司は、たぶんそこを使う。
朝から、何となく嫌な予感はしていた。
最近ずっとそうだ。何も起きていないのに、何か起きる前の空気だけは分かる。便利なのか不幸なのかよく分からない感覚である。できればもっと別のことに使いたかった。たとえば小テストの出題傾向を事前に察するとか、そういう平和な方向へ。
「神代くん」
木乃実が振り返った。
「何」
「今日もまた、静かに面倒なこと考えてる顔してる」
「その評価、もう少し丸くならない?」
「無理」
木乃実は即答した。
「最近の神代くん、ほんとそういう顔増えたし」
「嬉しくないな」
「でも必要なんでしょ?」
「……」
「図星」
「そこを毎回勝ち誇るのやめてくれ」
「だって当たるんだもん」
「その当たるがいちばん嫌なんだよ」
後ろで佐伯が小さく笑った。
「いやでも分かるわ」
「何が」
「今日、なんかありそうって顔」
「最近みんな予知能力みたいになってない?」
「神代の顔から読み取ってるだけだろ」
「それがいちばん嫌なんだって」
席に着く。
少し離れた席から、エヴァがいつものようにこちらを見ていた。見ていた、というか、たぶんすでに何かしら僕の機嫌か思考の向きを読んでいる顔だ。最近それが分かるようになってきた自分もまた、あまり健康的ではない気がする。
「おはようございます」
エヴァが言う。
「おはよう」
「今日は昨日よりも少しだけ、順番を追う顔をしていますわね」
「それもう表情の説明じゃなくて人格診断に近くない?」
「あなたが分かりやすすぎるのです」
「最近ほんとそればっかりだな」
「事実ですもの」
「便利な言葉だ」
「あなた方が乱用しているだけです」
朱音は今日も少し遅れて来た。
来るなり、まず僕を見る。
次に三田村を見る。
最後に黒崎を見る。
もう完全に朝の巡回ルートである。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、黒崎くん機嫌いいね」
「分かるのか」
「うん」
朱音はさらっと言う。
「先生の前でいい顔する準備してる時の顔」
「そんな限定的な分類ある?」
「あるよ?」
「怖いな」
「怖くないよ」
「いや、だいぶ怖い」
その時、教室の前方で小さな物音がした。
何かが落ちた音だ。
見ると、三田村が筆箱をひっくり返していた。消しゴム、シャーペン、替え芯ケース、定規。こまごましたものが机の周りに散っている。
「あ、ごめ」
三田村が慌ててしゃがむ。
それ自体は本当にただの事故だった。
だからこそ、次の展開が余計に嫌だった。
「ほら、やっぱ危なっかしいって」
黒崎が笑いながら席を立つ。
「手伝うよ」
声が、妙に明るい。
そして先生がちょうど入ってきたタイミングで、それをやるのがまた嫌だった。
「お、どうしたの?」
遠山先生が聞く。
「三田村が筆箱やっちゃって」
黒崎が答える。
「今拾ってます」
「あー、そうなんだ。黒崎くん助かるね」
「いや全然」
黒崎は軽く笑う。
「こういうの放っとくと大変じゃないですか」
その一言に、僕は思わず顔を上げた。
なるほどな、と思う。
こういうやり方か。
別に今の“手伝う”自体が嘘ではない。実際に黒崎はしゃがんで、三田村の消しゴムを拾って机の上へ置いていた。親切だ。表面だけ見れば、普通に親切である。
そして先生はその親切を、そのまま親切として受け取る。
当然だ。だってそう見えるようにやっているのだから。
「あ、ありがとう」
三田村が小さく言う。
「いいっていいって」
黒崎は笑う。
「最近おまえ、ちょっと抜けすぎだから気をつけろよ」
「……」
先生の前でそれを言うのか、と思った。
いやらしい。
しかも先生は、そこを強く止めない。
「まあまあ」
遠山先生は苦笑する。
「三田村くんも、ちょっと慌てないようにね」
「……はい」
「黒崎くんも助かったけど、あんまり言いすぎない」
「はーい」
その“はーい”が、あまりにも上手だった。
反省しているように見える。
でもたぶん、していない。
「……今の」
木乃実が小さく言う。
「うん」
僕も小さく返す。
「すごく嫌」
「うん」
「なんかさ」
木乃実は少しだけ顔をしかめた。
「先生から見たら“黒崎くんって面倒見いいね”みたいな場面になるじゃん」
「なるね」
「でもそのあとに、ちゃんと三田村くんだけ下げる一言入れてる」
「うん」
「うわあって感じ」
「語彙が死んでるな」
「死ぬよ、今のは」
木乃実は本気でそう言った。
「だって完全に“親切な人”の顔でやるやつじゃん」
「……」
「しかも先生も、そこはたぶん悪気なく受け取る」
「そこがいちばん面倒なんだよな」
佐伯が後ろから言う。
「先生からしたら、黒崎は“ちゃんと助けた側”に見えてる」
「見えてるね」
「でも、そのあと一個だけ混ぜるんだよな。“おまえまた危なっかしいな”みたいなやつ」
「うん」
「で、その一個だけで三田村がまた少し下になる」
「……」
「嫌だな、ほんと」
エヴァが静かに言った。
「先生の前でだけ親切な人間は、だいたい理由がありますわね」
その言い方が、妙に刺さった。
「エヴァ」
僕が聞く。
「何ですの」
「今の、だいぶ正確だな」
「当然です」
エヴァは平然としている。
「黒崎蓮司は、先生が見ている時の自分を、先生に見せたいように調整している」
「……」
「それ以外に、今の立ち回りへ説明がつきますの?」
「つかない」
「でしょうね」
「でも」
僕は少しだけ考える。
「先生は悪いわけじゃない」
「ええ」
「ただ、見えてるものが違う」
「そうです」
エヴァはすぐに頷いた。
「だから厄介なんです」
「やっぱりそこに戻るのか」
「戻ります」
「本当に一貫してるな」
「あなたにだけは言われたくありません」
その休み時間、三田村はまた僕の席の近くへ来た。
最近の彼は、話しかける時の躊躇が一秒短くなった。大きな変化ではない。でも、そういう小さな変化の方が案外はっきり見える。
「神代くん」
「うん」
「さっき」
「うん」
「俺、別に手伝ってほしいって言ってなかったよな」
「言ってない」
「だよな」
三田村は少しだけ視線を落とす。
「でも先生の前でああなると、なんか俺が“またやった側”みたいになる」
「……」
「いや、筆箱落としたのは俺だけど」
「うん」
「でも、それだけじゃなかったっていうか」
「分かる」
僕はすぐ答えた。
「そこは分かる」
「……」
「今のって、拾ってくれたこと自体は親切でも」
「うん」
「そのあとで“ほらやっぱり危なっかしい”って印象を先生に置いてる」
「……」
「だから、たぶん嫌だったんだろ」
三田村は少しだけ黙ってから、頷いた。
「嫌だった」
「うん」
「でも、うまく言えない」
「今ので充分だよ」
「充分?」
「うん。“何が嫌だったか”を全部きれいに言えなくても、嫌だったって分かるだけでかなり違う」
「……そっか」
「うん」
「……神代くん、最近ちょっと先生みたいだよね」
「やめてくれ」
「なんで?」
「嬉しくない」
「でも、ちょっと分かる」
木乃実が横から言う。
「そこはたぶん褒めてる」
「たぶん、って何だよ」
「割合としては八割くらい」
「まだ二割残ってるのか」
「変なところあるし」
「その二割しぶといな」
その日の午後、僕はひとつ意識して見ていた。
黒崎が先生の前でどんな顔をするか。
そして先生が、その顔をどう受け取るか。
見ていると、分かることがある。
黒崎は先生の前でだけ、声が少し明るい。
姿勢も少しだけ良くなる。
返事がきれいになる。
困っているやつへ一回だけ手を貸す。
でも、その手助けには必ず“一言だけ下げる何か”が混ざる。
しかもその一言は、先生にはちょっとした軽口に見える。
先生も止める。止めるのだが、止め方がやさしい。
やさしくて、少し遅い。
つまり、先生は見ている。
でも、同じものを見ているとは限らない。
そこまで分かった時、僕は少しだけ気が重くなった。
敵ではない。
けれど、頼りきることもできない。
そういう相手が一番難しい。
「顔」
放課後、エヴァがまた言った。
「はいはい、何」
「だいぶ重くなっていますわよ」
「分かる?」
「ええ」
「最近本当にすごいな、それ」
「あなたが本当に分かりやすすぎるのです」
「それ、もう褒め言葉に変換してもいい?」
「絶対にやめてください」
「即答だ」
「当然でしょう」
エヴァは視線を少しだけ和らげた。
「でも、今の顔は分かります」
「何の顔」
「先生まで含めて考え始めた顔です」
「……」
「違いますの?」
「違わない」
「でしょうね」
「そこ、ほんと毎回当てるな」
「当たりやすい人を当てても自慢になりません」
「言い方」
そこへ朱音が来る。
「恒一くん」
「何」
「たぶん次、先生がいる前でももう少し来るよ」
「黒崎が?」
「うん」
「なんでそう思う」
「今日の手応えが悪くなかった顔してたから」
「そこまで分かるのか」
「うん」
朱音は頷く。
「先生の前で“親切な人”やると、けっこう通るって分かった顔」
「……」
「それ、嫌な読みだな」
「嫌だよ」
「でも外してない」
「たぶんね」
教室の出口の近くで、黒崎が誰かと笑っている。
その笑い方を見ながら、僕は少しだけ思う。
先生の前でだけ親切なやつは、だいたい理由がある。
そしてその理由が“先生に良く見られたい”だけならまだましだ。
もっと面倒なのは、“先生の前で作った印象を使って、教室の中で立ち回るため”にやっている時だ。
今の黒崎は、たぶん後者に近い。
だから次は、もう少しだけ厄介になる。
小さな善意の顔をした押しつけが、もう一段進む。
そんな気がした。




