第1話 普通の高校生はそんなに綺麗に礼をしない
四月の朝。つくばの空は、思っていたよりもずっと広かった。
研究学園都市らしく整った道路。どこか余白の多い街並み。駅前の新しい建物と、その向こうに見えるやわらかな春の光。東京ほどせわしなくなく、けれど田舎というほど閉じてもいない。その中途半端さが、今の僕にはちょうどよかった。
茨城県立筑波青葉高校の正門の前で、僕――神代恒一は小さく息を吐いた。
新しい制服。真新しい通学鞄。まだ履き慣れない革靴。校門の周囲には、親と写真を撮る新入生、緊張した顔でクラス発表の掲示板を探す生徒、友達同士ではしゃぐ子たち。どこを見ても、特別なものは何もない。
それが、少し感動的だった。
普通だ。
本当に、普通の高校の入学式だ。
ここには、僕がどんな家に生まれたかを知る人間はいない。少なくとも、生徒の中にはいないはずだ。僕は今日から、ただの神代恒一として生きる。つくば市の県立高校に通う、ごく普通の一年生として。
――そう。そういうことになっている。
「普通、普通……」
自分に言い聞かせるように、口の中で繰り返す。
宗一郎に叩き込まれた注意事項が、今さらのように頭の中を巡った。
礼をしすぎるな。
丁寧に話しすぎるな。
視線を真っ直ぐ合わせすぎるな。
困っている相手を見かけた瞬間に反射で動くな。
校長や教師に、必要以上にきれいな会釈をするな。
知っている顔がいても、絶対に反応するな。
最後のあたりは、もはや高校生活の注意事項というより潜入任務の心得に近い。
でも仕方がない。僕にとって“普通”は、何もしなくてもできるものじゃない。油断するとすぐに、幼い頃から叩き込まれたものが所作や言葉の端から漏れる。
だからこそ、今日だけは何が何でも完璧に“普通の高校生”でいなければならない。
僕は制服の襟元を軽く整え、歩き出した。
その瞬間だった。
「神代くん」
校門の脇から、やや上擦った声が飛んできた。
僕は足を止めた。止めてしまった。反射的に、背筋までほんの少し伸びかける。危ない。今のは危なかった。
声のした方を見る。
そこにいたのは、この高校の校長と理事長だった。
新入生を迎える立場の人間が校門前にいること自体は、別におかしくない。入学式なのだから、それ自体は自然だ。自然、なのだが。
二人とも、明らかに僕を見ていた。
それも、“新入生のひとり”を見る目ではない。
校長は一瞬で姿勢を正し、理事長は半歩だけ前に出た。空気が変わる。ほんのわずか、ほんの数秒なのに、それだけで分かってしまう種類の変化だった。
やめてほしい。開幕一分でやめてほしい。
「神代、くん。本校へのご入学、まことに――」
理事長が口を開く。
その先を言わせてはいけない、と僕の全身が警鐘を鳴らした。
「本日はよろしくお願いします、校長先生、理事長先生」
僕は笑顔を作り、理事長の言葉を軽く被せるように先に頭を下げた。普通の高校生らしい、少しだけぎこちない角度。たぶん、ぎこちなく見えたはずだ。見えていてくれ。
理事長の口が一瞬止まる。校長のこめかみに、うっすらと汗がにじんだ。
「え、ええ、こちらこそ。神代くん、本校へようこそ」
「実り多い高校生活を送って、いただければ……いや、送ってください」
理事長の言い直しがぎこちなすぎる。
僕は微笑みを崩さないまま、内心で頭を抱えた。
終わった。もう終わったかもしれない。今のやり取りだけで、近くにいた新入生たちが何人かこちらを見ているのが分かる。そりゃそうだ。入学式の朝、校長と理事長にこんな態度を取られる新入生が普通なはずがない。
「神代くんって、校長先生と知り合い?」
「いや、でも今の……」
ひそひそ声が聞こえる。
最悪だ。
校長は明らかに何か言いたそうだったが、僕が軽く首を振ると、すぐに口をつぐんだ。さすがにそこは察してくれたらしい。遅いけど。
「では、失礼します」
僕は再び軽く一礼し、その場を離れようとした。
その時、視界の端に金色が入った。
少し離れた場所に、一人の少女が立っていた。
朝の光を受けた髪は、ただ明るいだけではなく、どこか冷ややかな輝きを帯びている。整いすぎるほど整った横顔。青い瞳。高校の制服を着ているのに、その場の空気から半歩だけ外れたような立ち方。
金髪の美少女、という単純な言葉では片づけられない何かがあった。
彼女は、今のやり取りを最初から最後まで見ていた。
そして、周囲の新入生たちとは違う目をしていた。
戸惑いでも、好奇心でもない。もっと静かで鋭い観察の目だ。
ああ、と思う。
嫌な予感がする。
彼女はたぶん、ただ「校長たちが丁寧だった」とは受け取っていない。
あれが単なる歓迎ではなく、“扱いを間違えられない相手への緊張”だったことまで、たぶん見ている。
少女は僕と目が合うと、ほんの少しだけ目を細めた。
「……変な人」
小さくそう言った気がした。
聞き間違いであってほしかったが、たぶん違う。
「恒一くん」
今度は背後から、聞き慣れた声がした。
振り向くまでもない。
「おはよう、朱音」
「おはよう」
柊原朱音は、今日が入学式だというのにやけに余裕のある顔で微笑んでいた。同じ制服姿なのに、もう何日もこの学校に通っているみたいに自然だ。長い黒髪を軽くまとめ、清楚で柔らかい雰囲気をまといながら、彼女は当然のように僕のすぐ隣へ来る。
「だから言ったでしょ。最初が一番危ないって」
「本当にその通りだったよ」
「校長先生、危うく頭下げるところだったね」
「笑い事じゃない」
「わたしはちょっと面白かったけど」
「面白がらないで」
朱音はくすくす笑う。
周囲から見れば、仲のいい幼馴染が朝から一緒に話しているようにしか見えないだろう。実際、そう見せるために彼女もここにいるのだ。……本人の任務の半分は、それで合っている。
残り半分は、どう考えても僕の監視兼護衛だが。
「ちゃんと普通の高校生っぽくできてる?」
「できてたら今のは起きてないと思う」
「ひどいなあ。恒一くん、頑張ってたのに」
「努力はしてる」
「うん、知ってる」
朱音が楽しそうに言う。
「でも、頑張るほどちょっと変になるんだよね」
「それを今言う?」
「今だから言うの」
僕が反論しかけたところで、校門前にまた小さなどよめきが起きた。クラス発表の掲示板へ向かう流れが強くなったらしい。新入生たちが一斉に校舎の方へ動き始める。
「行こうか」
「うん」
朱音と並んで歩き出す。
普通の高校生。普通の高校生だ。幼馴染と一緒にクラス表を見に行くのだって、高校生らしい行動のはずだ。たぶん。少なくとも、校長と理事長に過剰に歓迎されるよりはよほど普通だ。
掲示板の前は、それなりの人だかりになっていた。
背伸びして見る者、友達と騒ぐ者、名前を見つけて歓声を上げる者。僕は人混みの中へ入りながら、できるだけ自然に視線を動かす。
ここでも気を抜いてはいけない。
ぶつからないように歩く。人の邪魔をしない。必要以上に目立たない。普通に、普通に――
「あっ」
隣から小さな声が上がった。
振り向くと、掲示板へ近づこうとしていた女子生徒が足をもつれさせかけていた。人の流れに押されたのだろう。
その瞬間、僕は考えるより先に手を伸ばしていた。
「大丈夫?」
「あ、はい、すみません……」
支えた手をすぐ離す。離しながら、しまった、と思う。反射で動いた。完全に反射だった。
しかも、つい人の流れの外側へ彼女を誘導してしまった。危ない位置から自然に逃がすような動きまで、無意識でやっている。
普通の高校生は、こんな手際よく動かない。たぶん。
「……」
すぐそばで、妙に静かな視線を感じた。
例の金髪の少女が、また見ていた。
さっきよりも近い。青い瞳が、露骨に僕の動きを追っている。
彼女は掲示板を一瞥したあと、僕の真横に立った。
「一年A組」
「え?」
「あなたもでしょう」
いきなりだった。
僕は一瞬反応に困り、それでも掲示板に目を戻す。確かに、一年A組の欄に僕の名前があった。
神代恒一。
そして、そのすぐ近くに――
エヴァ・ファン・オルデンブルク。
たぶん、この子だ。
「同じクラスみたいだ」
「そうみたいですわね」
彼女はそっけなく答えた。
「エヴァ・ファン・オルデンブルク」
「神代恒一」
「知っていますわ」
「え」
「さっき校長先生と理事長先生が、ずいぶん丁寧でしたもの」
直球だった。
僕の口元が引きつりそうになるのを、どうにか抑える。
「……礼儀正しい学校なんじゃないかな」
「校長先生が新入生にあんな顔をする学校が礼儀正しいで済むなら、日本はもっと平和ですわ」
「辛辣だね」
「事実ですもの」
彼女――エヴァは、そこで初めてほんの少しだけ顎を上げた。
「あなた、何を隠していますの?」
「初対面でそれを聞く?」
「初対面で校長先生たちをあそこまで緊張させる人間の方が問題では?」
言い返せない。
というか、この子、やっぱり見えている。さっきのやり取りの意味を、ただの違和感ではなく、きちんと“何かがおかしい”として把握している。
まずい。本格的にまずい。
「恒一くん」
その瞬間、朱音がするりと僕とエヴァの間へ入った。笑顔は柔らかい。柔らかいのだが、なぜだろう。温度が少し下がった気がする。
「同じクラスなんだ。よろしくね、わたし柊原朱音」
「……エヴァです」
「うん、知ってる。さっき見たから」
「そうですか」
「恒一くん、ちょっと人見知りなんだよね」
「朱音」
「え、違った?」
「違う方向で違う」
朱音はまったく気にせず、楽しそうに続ける。
「でも、慣れると喋るから安心して」
「安心材料になっている気がしませんわ」
「そうかな?」
「ええ」
エヴァと朱音が、にこやかに見つめ合う。
怖い。
周囲から見たら、美少女ふたりの穏やかな初対面に見えるかもしれない。だが僕には分かる。これは静かに探り合っている空気だ。
しかも、その探り合いの中心にいるのは、たぶん僕である。
「とにかく、教室へ行こう」
僕は半ば逃げるように言った。
「遅れるとまずいし」
「そうですわね」
「うん、行こっか」
ふたりが同時に答える。
息が合っているようで、全然合っていない。
僕は掲示板から離れ、A組の教室がある校舎へ向かった。左右から視線を感じる。片方は露骨に観察してくる隣席予定の留学生。もう片方は事情を全部知っている幼馴染兼護衛。
静かな青春の始まりとは、たぶんこういうものではない。
昇降口で上履きに履き替える時ですら、僕は少しだけ戸惑った。自分の下駄箱に靴をしまうという行為が、妙に新鮮なのだ。今までの学校生活にそれがなかったわけではないが、“誰の特別扱いもない場所でやる”のはやはり感覚が違う。
「そんなに珍しいですの?」
エヴァが横から言った。
「え?」
「上履きに履き替えるだけで、妙に感慨深そうでした」
「気のせいじゃないかな」
「気のせいにしては、目が輝いていましたわ」
「観察しすぎだよ」
「あなたの方が分かりやすすぎるんですの」
容赦がない。
朱音がふっと笑う。
「恒一くん、こういうのちょっと好きなんだよね」
「何を知ったように」
「知ってるもん。新しい教室とか、新しい筆箱とか、そういう“普通の学生っぽいもの”に憧れてたでしょ」
「今、ここで言う必要ある?」
「あるよ。だってかわいいし」
「やめて」
「断る」
昇降口の時点で疲れてきた。
A組の教室は二階の端だった。廊下の窓から春の光が差し込み、ワックスの匂いが少しだけ強い。教室の中には、もう何人かの新入生がいて、席を確認したり、友達同士で話したりしていた。
僕は入口でひと呼吸置く。
ここからだ。本当にここからが始まりなのだ。
ただの高校一年生、神代恒一として教室へ入る。そう決めて一歩踏み出した瞬間、すれ違った男子生徒に軽く会釈をされて、僕は反射的にかなり綺麗な角度で礼を返してしまった。
しまった。
相手が一瞬だけ面食らった顔をする。
「あ、どうも……?」
「……どうも」
違う。今のは違う。普通の高校生の“どうも”ではない。完全に“こちらこそ”の発音だった。
教室の空気が、ほんの少しだけ止まる。
終わった。今度こそ終わった。
「普通の高校生は」
横で、エヴァが呆れたように囁く。
「そんなに綺麗に礼をしませんわ」
「言わないでくれる?」
「事実確認です」
「確認しなくていいよ」
「しておいた方が、あなたのためです」
痛いところしか刺してこない。
席順を確認すると、僕の席は窓側から二列目の後方だった。そして、その隣の席に、エヴァの名前がある。嫌な予感は的中した。
「隣、ですわね」
「そうみたいだね」
エヴァは表情一つ変えず、自分の席に鞄を置いた。その動きまで妙に完成されている。彼女だって、どう見ても普通の留学生ではない。なのに、刺されているのはなぜか僕だけだ。
「おー、ここA組で合ってる?」
明るい声とともに、一人の女子が教室へ飛び込んできた。肩までの髪を揺らし、緊張より好奇心が勝っているような顔で、きょろきょろと席を見回している。
「あ、やった、あった。柊木乃実、っと」
彼女は自分の席を見つけると、すぐさま近くにいた僕たちの方へにこっと笑った。
「よろしくね! 同じクラスだよね?」
「うん、よろしく」
「……よろしくお願いしますわ」
「わ、すごい綺麗な子いる」
木乃実はエヴァを見て素直に目を丸くし、次に僕の方を見た。
「で、そっちの男子はなんか育ちよさそう」
「初対面でその感想なの?」
「なんかね、立ち方がちょっと」
「言わないで」
「気にしてるの?」
「すごく気にしてる」
木乃実は楽しそうに笑った。
この感じ、助かる。深く踏み込むわけでもなく、ただ面白がる温度のクラスメイトはありがたい。エヴァの刺すような視線とも、朱音の近すぎる距離感とも違う、“普通の同級生”の空気だ。
その普通を守りたくて、僕は少しだけ肩の力を抜いた。
……抜いたつもりだった。
「恒一くん」
背後から朱音が顔を出す。
「席、近かったよ」
「それはよかったね」
「よかったよ」
「そんなに真顔で言うこと?」
「だって嬉しいし」
「周りがいるから」
「幼馴染なんだし、別によくない?」
「その“幼馴染”の使い方、万能すぎない?」
「便利だからね」
木乃実がぱちぱちと瞬く。
「え、幼馴染なの?」
「うん」
「朝も一緒にいたよね?」
「いたよ」
「仲よすぎない?」
「昔からだから」
「へえー」
木乃実が面白そうに僕を見る。やめてほしい。その“初日からラブコメの中心にいそうな男子を見る目”はやめてほしい。
しかも、横からエヴァが冷静に追撃してきた。
「距離感がおかしいのは事実ですわね」
「エヴァさんにだけは言われたくないなあ」
朱音が笑顔で返す。
「まだ会ってそんなに経ってないのに、恒一くんのことよく見てるみたいだし」
「観察しているだけです」
「ふうん」
「何か?」
「別に?」
怖い。やっぱり怖い。
教室のざわめきの中で、僕だけがひどく疲弊していた。
つくば市の県立高校に入学した僕は、静かに青春するはずだった。
校門では校長と理事長に危うく正体を露見させられかけ、掲示板前では隣の席になる毒舌留学生に怪しまれ、教室では幼馴染が最初から距離感を壊しに来ている。
開始一時間も経っていない。
なのに、もう十分すぎるほど分かってしまった。
たぶん僕の高校生活は、最初から少しも静かではない。
そして、その確信を補強するように、隣の席に座ったエヴァが、教科書の入った机を整えながら小さく言った。
「あなた、本当に面白い方ですのね」
「褒められてる気がしない」
「褒めてはいませんもの」
即答だった。
前言撤回。少しも静かではないどころか、かなり面倒だ。
けれど――。
まだ名前も知らないクラスメイトたちの声、春の光が差す教室、やけに騒がしい隣席と幼馴染。その全部が妙に新鮮で、胸の奥のどこかが少しだけ高鳴っているのも、たしかだった。
入学式は、まだ始まったばかりだ。




