第12話 静かな青春は、静かなままでは守れない
小さな出来事ほど、終わったあとが長い。
大きな事件なら分かりやすい。誰かが怒って、誰かが泣いて、先生が来て、話し合いになって、何かしらの形で“出来事でした”と線が引かれる。終わったかどうかも見えやすいし、少なくとも教室の空気の中で曖昧に溶けたりはしない。
でも、小さいことは違う。
それは本当に小さい。
声を荒げたわけでもない。
殴ったわけでもない。
物が壊れたわけでもない。
先生が飛んできたわけでもない。
ただ、黒崎が三田村へ雑用を押しつけかけて。
僕がそれを止めて。
表面上は、それで終わった。
終わった、はずだった。
なのに教室には、まだその残り香みたいなものが少しだけ残っている。
帰り支度をする音。机を引く音。廊下から聞こえる運動部の声。そういう普通の放課後の中に、さっきのやり取りだけが妙に細い棘みたいに刺さったまま抜けていない。
誰もその話を大きく蒸し返したりはしない。しないのだが、だからこそ余計に残る。
「神代くん」
声をかけてきたのは三田村だった。
僕は少しだけ意外に思ってそちらを見る。彼はさっきまで、完全に“こういう時に前へ出るのは苦手です”という顔をしていた。いや、今もその顔をしている。しているのだが、それでも自分からこっちへ来たらしい。
「あ」
と僕は言った。
良くない。自分でも思う。こういう時の第一声に“あ”はないだろう。感情の整理が下手な人間みたいだ。いや、下手なのだが。
三田村は少しだけ気まずそうに笑った。
「その……さっき」
「うん」
「ありがとう」
「……」
「いや、別に、大げさなことじゃないんだけど」
彼は視線を少し泳がせる。
「でも、助かった」
そう言われて、僕は逆に困った。
感謝されることが嫌なわけではない。むしろ、そこだけ切り取ればありがたいはずだ。でも僕の中では、あれはもっと曖昧なものだった。親切というほど綺麗でもないし、正義感というには身勝手で、ただ見ていて嫌だったから止めただけのことだ。
だから“ありがとう”という真っ直ぐな言葉を置かれると、こっちの方が少しだけ居心地が悪くなる。
「いや」
僕は曖昧に頭をかいた。
「そんな、礼を言われるほどのことじゃないよ」
「でも」
「本当に」
「……」
三田村は少しだけ迷って、それから小さく頷いた。
「うん。でも、ありがとう」
そこで会話は切れた。
切れた、というより、たぶんそれ以上広がらなかった。三田村はまだ僕と気軽に話せるわけじゃない。僕だってそうだ。助けたからって、そこで急に距離が縮まるほど高校の教室は単純じゃない。
感謝はある。
でも、まだ少し距離もある。
それが妙に生々しくて、僕はそのことに変な納得をした。
木乃実が少し離れたところでそのやり取りを見ていて、僕と目が合うなり歩いてきた。
「やっぱり神代くんって、放っておけない人だよね」
「急にまとめに入るな」
「いや、だって今日の感想としてはそれがいちばんしっくりくるし」
木乃実は机の端に手をついて言う。
「別に正義の味方っぽくしたいわけじゃないんだろうな、っていうのも分かる」
「そこまで分かる?」
「分かるよ。正義の味方やりたい人、あんな静かに言わないもん」
「それ褒めてる?」
「かなり褒めてる」
「今日はどのくらい?」
「九割くらい」
「だいぶ高いな」
「でも残り一割はやっぱり変」
「その一割しぶといな」
佐伯も近くで笑っていた。
「いやでも、ほんとそうだわ」
「何が」
「神代って、普段ちょっと変なのに、ああいう時だけ急に筋通すよな」
「普段もちょっとくらい通してるつもりなんだけど」
「通してるよ。通してるけど、普段はもっとこう……」
佐伯は言葉を探して、
「面倒くさい方向に丁寧」
と言った。
「ひどくない?」
「褒めてる」
「最近それ多いな」
「便利だから」
木乃実が言う。
「しかも神代くん、褒められてるかどうか毎回ちゃんと確認するし」
「そこ確認しないと危ないだろ」
「何が?」
「僕の精神状態が」
「知らないよそんなの」
「知ってくれよ」
こういうやり取りが普通にできるようになったのは、たぶん昨日や一昨日より少しだけ進歩している証拠なんだろう。
でも、その少し先で、黒崎がこっちを見ているのもちゃんと分かった。
彼はもう笑っていなかった。
別に露骨に睨んでいるわけじゃない。そんな分かりやすい真似はしない。してしまったら自分が不利になることを、あの手の人間はよく知っている。
ただ、見ている。
さっきまでと違う意味で、ちゃんと僕を見ている。
――ああ、気に食わないんだろうな。
そう思った。
そしてそれは、たぶん思い込みじゃない。
「神代ってさ」
黒崎が、自分の近くにいた男子へ小さく声をかけたのが聞こえた。
その先ははっきり聞こえなかった。
でも僕の名前がそこに乗った時点で、十分だった。
教室の空気は、目に見えないところで少しずつ線を引く。
さっきの一件で、僕と黒崎の間にはたぶん、もうはっきり一本線が引かれた。
表向きは平静。
でも、向こうは僕を意識し始めている。
そこへエヴァが近づいてきた。
彼女は相変わらず、何でもない顔をしている。何でもない顔をしているのに、何でもないタイミングでは来ない。そこがこの人の厄介なところであり、たぶん僕が少し安心してしまうところでもある。
「ほら」
開口一番、それだった。
「結局そうなったでしょう」
「そうなった、って」
「あなたが動いて、教室の空気が少し変わった、という話です」
「うん」
「目立ちたくなかったのでしょう?」
「うん」
「なのに、動いた」
「……うん」
「ほら」
勝ち誇るな。
勝ち誇っているわけではないのかもしれないが、少なくとも“言った通りでしょう”という顔はしている。しているし、実際言った通りでもある。
「嬉しそうだな」
僕が言うと、エヴァは眉をひそめた。
「なぜそうなりますの」
「だって、予想が当たった時の顔してる」
「予想が当たって嬉しいのではありません」
「じゃあ何」
「……面倒な方だな、と思っているだけです」
「言い方」
「でも違いませんでしょう」
「違わないけど」
「なら結構です」
その“結構です”は、いつもより少しだけ弱かった。
僕は少しだけ視線を逸らして、窓の外を見る。夕方になりかけの光が校舎の壁へ斜めに当たっている。部活の掛け声が遠くから聞こえる。まるで何事もなかったみたいな、普通の放課後の音だ。
「……目立ちたくなかったのに」
思わず、そう漏れた。
独り言のつもりだった。少なくとも、会話にする気はなかった。
でもエヴァは聞き逃さない。
「静かであることと」
彼女は言った。
「黙っていることは違いますわ」
「……」
「あなたが欲しいのは、たぶん前者でしょう」
「そんな分かりやすい?」
「ええ」
エヴァは迷わなかった。
「少なくとも、今日のあなたは“黙るべきでした”と後悔している顔ではありません」
「それは」
「目立ってしまったことに疲れている顔です」
「……」
「けれど、止めたことそのものを悔やんではいない」
「……」
「違いますの?」
違わなかった。
僕は目立ちたくなかった。できるなら今も目立ちたくない。黒崎に意識されたのは間違いなく面倒だし、クラスの中で“ああいう時に動くやつ”として認識されるのも、本来なら避けたかった。
でも、止めたこと自体を後悔しているかと聞かれると、たぶんしていない。
それが妙に悔しい。
悔しいけれど、たぶん本音だ。
「……ずるいな」
僕は小さく言う。
「何がですの」
「そこまできれいに言語化されると、反論しづらい」
「あなたが分かりやすいだけです」
「最近そればっかりだな」
「事実ですから」
そこへ、今度は本当に軽い足取りで朱音が来た。
「恒一くん」
「何」
「今、ちょっとだけかっこよかった」
「タイミングを選べ」
「でもほんとだし」
「そういうの今いらない」
「えー」
朱音は不満そうな声を出したが、顔は笑っていた。
「だって、好きなところが出てたし」
「……」
僕は一瞬だけ言葉を失った。
「今なんて?」
「好きなところ?」
朱音はまるで“今日暑いね”くらいの自然さで言う。
「恒一くん、ああいうとこあるじゃん。普段はいろいろ考えるくせに、ほんとに嫌なことは結局見過ごせないとこ」
「いや、それは」
「好きだよ」
爆弾、という言い方がいちばんしっくりきた。
軽い顔で落とすな。せめて投げる前に合図がほしい。いや、合図があっても避けられる自信はないけれど。
僕が固まっている横で、エヴァの気配がほんの少しだけ変わった。
大きな変化じゃない。ほんのわずかだ。けれど、さっきまでの淡々とした温度とは少し違う。引っかかった、という感じに近い。何が、と聞かれれば答えづらい。でも、たしかに何かが引っかかった顔だった。
それを誤魔化すように、僕はわざとらしく咳払いをした。
「朱音」
「なに?」
「そういうの、人前で言うな」
「今、人前っていうほど人いないよ」
「エヴァがいるだろ」
「エヴァさんなら別に」
「別に、ではありませんわ」
エヴァが静かに言った。
「わたくしは、そういう話題に自然に巻き込まれない権利があると思います」
「巻き込んでないよ?」
朱音はきょとんとする。
「恒一くんに言っただけだし」
「その“だけ”で済まない空気だったでしょう」
「そう?」
「そうです」
「ふうん」
朱音は少しだけ首をかしげ、それから僕を見る。
「じゃあ今の、撤回した方がいい?」
「……」
「しない方がいい?」
「それを僕に聞くなよ」
「だって本人だし」
「本人でも困る」
「でも嘘じゃないよ」
「そういう問題じゃないんだって」
木乃実が少し離れたところで、こっちを見て笑いを堪えている。
佐伯は完全に“巻き込まれない位置”へ下がっていた。賢い。あいつはたぶん、今この瞬間だけは関わらない方がいいと判断したのだろう。正しい。ものすごく正しい。
「……まあ」
エヴァが少しだけ息を吐いた。
「そういうところも含めて、騒がしいのがあなたの周囲ですものね」
「達観するなよ」
「達観ではありません」
「じゃあ何」
「諦めです」
「そこまで言われること?」
「ええ、かなり」
「容赦ないなあ」
「最近始まったことではありませんわ」
朱音はそれを聞いて、なぜか少し嬉しそうにした。
「エヴァさんって、ほんとちゃんと見てるよね」
「あなたにだけは言われたくありません」
「うん、それは分かる」
「分かるなら言わないでくださいません?」
「それは無理かな」
「どうして」
「面白いから」
「……あなたたち」
エヴァは本気で少しだけ呆れたように言った。
「相性がいいのか悪いのか、どちらですの」
「両方じゃない?」
朱音が笑う。
「ね、恒一くん」
「僕に振るな」
「でもそうでしょ?」
「……否定はしづらい」
「ほら」
「その“ほら”の使い方、最近どっちにも増えたよな」
「うつったのかも」
朱音が言う。
「誰に」
「誰だろうね」
「怖いこと言うなよ」
その時、教室の出口の方で黒崎の声が聞こえた。
小さい声だった。
でも名前だけは、妙にはっきり耳に引っかかった。
「神代ってさ、何なんだろうな」
誰に向けた言葉かまでは分からなかった。たぶん近くにいた男子の誰かだろう。返事もよく聞こえない。けれど、その一言だけで十分だった。
ああ、やっぱりな、と思う。
表向きはもう終わっている。
でも向こうの中では、終わっていない。
“神代恒一”という存在が、黒崎の中でちゃんと引っかかりとして残った。
それが分かるだけで、次に来るものの予感としては充分すぎた。
僕は小さく息を吐く。
普通の高校生活には、騒がしさもある。笑いもある。ちょっとした勘違いも、変な会話も、妙に近い幼馴染も、毒舌なのによく見ている隣席もある。
そういうものは、たしかに面倒だ。
面倒だけど、嫌いじゃない。
でも、平穏を守りたいなら、ただ静かにしているだけでは駄目な時もある。
黙っていれば波風が立たない、というのは、たぶん半分しか本当じゃない。
黙っていることで、誰かがそのまま押しつぶされるなら、それはもう静かな青春じゃなくて、単に見て見ぬふりをしているだけだ。
それを認めたくはなかった。
認めたくはなかったけれど、たぶんもう分かってしまった。
「帰ろうか」
僕が言うと、
「うん」
朱音が答えた。
「ええ」
エヴァも頷く。
僕たちはまた、いつものようでいて、昨日までより少し違う空気の中を歩き出した。
静かな青春は、静かなままでは守れない。
そんな面倒なことを、入学してまだ間もない高校一年生が理解し始めている時点で、たぶんもうだいぶ普通ではないのだろう。




