第10話 隣の席の毒舌美少女は、止めないで見ている
人が何かを気にしている時というのは、たぶん思っているより分かりやすい。
少なくとも僕はそうらしい。
いや、そう“らしい”ではなく、もうほぼ確定だ。木乃実にも佐伯にも言われたし、朱音には昔から見抜かれているし、エヴァにいたっては、たぶん僕が自分で気づくより少し早くそれを言葉にする。
嫌な特技である。
昼休みのあと、五時間目と六時間目を挟んでも、僕の頭のどこかには黒崎と三田村のことが引っかかっていた。
もちろん、授業を聞いていなかったわけではない。そこまで不器用ではない。……いや、不器用かどうかで言えばかなり不器用な部類かもしれないが、少なくとも授業中に黒板と無関係なことばかり考えるほど器用に現実逃避はできない。
ただ、人間というのは便利なもので、表面上はノートを取りながら、裏側では別件をずっと考えていられるのだ。
黒崎のやり方は露骨じゃない。
だから止めづらい。
でも、だからといって嫌なものが嫌じゃなくなるわけでもない。
じゃあ、どの段階なら口を出していいのか。
どこまでなら“教室の空気”で、どこからが“見過ごしちゃいけないもの”なんだろう。
そういうことを考えている時点で、もうだいぶ巻き込まれている気もする。
六時間目の終わり、先生が教室を出ていって、放課後の空気が広がった。
椅子の音。鞄の音。ため息と、ちょっとした笑い声。部活見学へ行くか帰るかで迷っている声。教室の後ろでは木乃実が女子グループと何か話していて、佐伯は「やっぱバスケ見とくかなあ」と友達に言っている。
そういう、どこにでもありそうな放課後の中で、僕だけが少しだけ上の空だった。
「まだ考えていますの?」
隣から声がした。
エヴァだった。
彼女は鞄へ教科書を入れながら、何でもないことみたいにそう言った。何でもないことみたいに言うな、と一瞬だけ思ったが、僕が何を“まだ考えている”のかを彼女が当てている時点で、すでにだいぶ何でもなくない。
「……そんなに分かる?」
「ええ」
エヴァは即答した。
「かなり」
「傷つくなあ」
「それはわたくしの責任ではありませんわ」
「正しいことを言ってるのに、なんでそんなに感じ悪くできるんだろう」
「努力の賜物です」
「努力する方向を間違えてない?」
「あなたに言われたくありません」
それで会話が切れなかったあたり、僕らの距離感はだいぶおかしな方向で安定してきているのかもしれない。
僕は席に座ったまま、机の上に出したままのプリントをなんとなく整えた。整えたところで、頭の中が整うわけでもないのに。
「黒崎のことだよね」
「今さら確認する必要ありますの?」
「一応」
「律儀ですわね」
「それ、褒めてる?」
「どちらかといえば面倒だと言っています」
「最近ちょっと容赦なくない?」
「最近ではなく最初からです」
エヴァはそう言って、自分の机の中へ手を入れたまま、少しだけ声を落とした。
「あなたは、どうせ放っておけないのでしょう」
「……」
「違いますの?」
「違わない、とは思う」
「曖昧ですわね」
「曖昧にもなるだろ」
僕は少しだけ息を吐く。
「嫌だなって思うのと、実際に動くのは別だよ」
「そうですわね」
エヴァはあっさり頷いた。
「そこを一緒にする方が、よほど危ういですもの」
「……」
その言い方が意外で、僕は少しだけ彼女の方を見た。
もっとこう、エヴァは僕に対して「だったらさっさと止めればいいじゃない」と冷たく言うタイプだと思っていたのだ。あるいは逆に、「関わらない方が賢い」と切り捨てるか。そのどちらかだと勝手に思っていた。
でも実際の彼女は、どちらでもなかった。
「止めたいなら止めればいい、って言わないんだ」
僕が口にすると、エヴァはほんの少しだけ眉を上げた。
「どうして、そんな無責任なことを」
「無責任?」
「ええ」
彼女は淡々としていた。
「“嫌いだから動く”と、“動いて後悔しない”は別でしょう」
「……」
「あなたはたぶん、嫌いだという理由だけでも動ける方ですわ」
「買いかぶりじゃない?」
「いいえ」
エヴァは首を振る。
「むしろ、そこは正確に見ています」
「そう言われるとちょっと怖いな」
「自覚なさっていない方が怖いです」
僕は苦笑した。
怖い、と言いながらも、たしかにその通りだと思う部分があった。
僕はたぶん、嫌だと思うとそちらへ引っ張られる。理屈を全部整理してから動けるほど大人ではないし、かといって完全に見ないふりを決め込めるほど器用でもない。
朱音なら、きっともっと単純に言うだろう。
嫌なら止めるべき。
放っておいたらもっと嫌になる。
だったら最初に止めた方がいい。
そういう、直線的で、強くて、迷いの少ない言い方をするはずだ。
でもエヴァは違う。
嫌なら止めればいい、ではなく、止めるならどこまで引き受ける気があるのか考えた方がいい、と言っている。
それは少し冷たいように聞こえる。けれど、本当はかなり現実的だ。
動くということは、その場だけじゃ終わらない。
相手にも、自分にも、そのあとがある。
「あなた、思ってたよりずっと慎重なんだな」
僕がそう言うと、エヴァは少しだけ黙った。
「……どういう意味ですの」
「いや」
僕は言葉を探した。
「最初はもっとこう、全部ばっさり切る人かと思ってた」
「それは失礼ですわね」
「そうかも」
「そうです」
「でも今の話って、切るというより……」
「構造の話ですわ」
エヴァは僕の言葉を引き取る。
「誰かを止めるのは簡単です。難しいのは、そのあとを含めて自分がどこまで関わるかです」
「……」
「たとえば、あなたが黒崎を止める」
「うん」
「その場では気分がいいかもしれない」
「気分がいいためにやるわけじゃない」
「そうでしょうね」
エヴァはあっさり認めた。
「でも、その場で終わらなかったら?」
「終わらないって?」
「相手に目をつけられる。三田村が余計に気まずくなる。周囲が“神代がまた動いた”と面白がる。教師が把握していないところで空気だけ悪くなる」
「……」
「そういう可能性を、あなたは嫌いでも引き受けるんですの?」
引き受ける。
ずいぶん重い言い方だと思った。
でも、たぶんこれが本質なのだ。
止めるか止めないか、ではない。
止めた結果、そこから先へ自分がどこまで付き合う気があるのか。
それを考えろと、エヴァは言っている。
「冷たいな」
僕は正直に言った。
「でも正しい」
「どちらか片方だけではありませんの?」
「両方だろ」
「……」
エヴァは少しだけ視線を逸らした。
「正しければ、冷たくても構わないと思っています」
「それも極端だな」
「あなたに言われたくありませんわ」
その瞬間、後ろからすっと影が差した。
「なんか、ふたりだけで難しい話してない?」
朱音だった。
声は軽い。軽いのだが、タイミングがよすぎる。いや、よすぎるというより、たぶん狙っている。狙ってこの瞬間に入ってきている。相変わらず、幼馴染の直感というか、護衛じみた嗅覚というか、そのへんがやたら鋭い。
「難しい話ってほどじゃない」
僕が言うと、
「え、ほんと?」
朱音は僕とエヴァを交互に見た。
「だって今の空気、“どっちが先に正論を置くか”みたいな顔してたよ」
「どういう観察眼だ」
「幼馴染だから」
「便利だな、その言葉」
「今日は三回目かな」
「数えなくていい」
朱音は僕の机の端に軽く腰を預けるようにして、エヴァへ視線を向けた。
「で、何の話してたの?」
「黒崎くんのこと」
僕が答えると、朱音はすぐに納得した顔をした。
「ああ」
「その“ああ”で全部済ませるのやめてくれる?」
「だって分かるし」
「何が」
「恒一くんが気にしてること」
「……」
「あと、エヴァさんがそれを止めないで見てること」
「止めてはいません」
エヴァが言う。
「ただ、考えるべきことを考えなさいと言っているだけです」
「うん、それは分かる」
朱音は頷く。
「エヴァさんってそういうタイプだもんね」
「どういう意味ですの」
「止めるな、じゃなくて、止めるなら最後まで見なよってタイプ」
「……」
今度はエヴァが少しだけ黙る。
「それの何が悪いんですの?」
「悪くはないよ」
朱音は柔らかく言う。
「わたしと違うなって思っただけ」
「違う?」
「うん。わたしだったら、恒一くんが嫌なら止めるべきって思うから」
「早いな」
僕が言うと、朱音は当たり前みたいにこちらを見た。
「だって嫌なんでしょ?」
「嫌だけど」
「なら止めた方がいい」
「その先のことは?」
「その先?」
朱音は少し首をかしげた。
「その時考えればよくない?」
「……」
「だって、今目の前で嫌なことがあるのに、“この先がどうなるか”を理由に何もしないの、わたしはあんまり好きじゃない」
「それは」
エヴァが言葉を選ぶように言った。
「感情としては分かりますわ。でも、それだけで動くのは危険です」
「危険でも、嫌なものは嫌でしょ?」
「だからこそ、考えるべきだと言っているのです」
「でも考えてるあいだに、相手はまた嫌なことするかもよ?」
「……」
「……」
まずいな、と僕は思った。
別に二人とも喧嘩をしているわけではない。声も荒くないし、言っている内容にもそれぞれ筋はある。あるのだが、筋がある者同士が正面からぶつかると、会話は急に温度を失って緊張する。
しかもその中心にいるのが僕だというのが、いちばんよくない。
「ちょっと待って」
僕は慌てて口を挟んだ。
「なんで僕の話から、君たちの思想対立みたいになってるんだ」
「思想対立ではありませんわ」
エヴァが言う。
「ただ、考え方の差です」
「言い換えただけでは?」
「違います」
「まあ、似たようなものかな」
朱音がさらっと言う。
「エヴァさんは慎重で、わたしはたぶん直感的」
「自覚あるんだ」
「あるよ?」
「そこを迷わず認めるの、ある意味すごいな」
「でも」
朱音は僕を見る。
「結局決めるのは恒一くんでしょ?」
「……それはそう」
「なら、わたしたちがどう思うかは別にしてもいいんじゃない?」
「それを最初に言ってほしかったな」
「今言ったからいいでしょ」
「よくはないけど、助かった」
「じゃあよかった」
横で、エヴァが小さく息を吐いた。
呆れているのか、納得しているのか、その両方なのかは分からない。たぶん全部だ。
「でも」
僕は少し考えてから言った。
「エヴァの言ってることも分かるんだよ」
「……そうですか」
「嫌いだから動く、っていうのは簡単だけど、動いて終わりじゃないし」
「ええ」
「たぶん僕、そこをあんまり考えずに嫌だって方へ引っ張られる時あるから」
「ありますわね」
「断定するなよ」
「事実ですもの」
「でも」
僕は今度は朱音を見る。
「朱音の言うことも分かる」
「うん」
「今目の前で嫌なものがあるのに、その先の面倒だけ考えて何もしないのも、たぶん違う」
「うん」
「だから」
「だから?」
「困ってる」
「正直だね」
朱音が笑う。
「でも、そのくらいでいいんじゃない?」
「そうかな」
「うん。最初から正解分かる方が怖いし」
「それはたしかに」
「わたくしは」
エヴァが静かに言う。
「最初から正解が分かる、とは言っていませんわ」
「うん」
「ただ、動くなら自分が何を引き受けるかくらいは考えておくべきだと言っているだけです」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「その“たぶん”が信用ならないんですの」
「最近よく言われるな、それ」
「実際そうだもの」
「でも」
僕は少し笑った。
「そうやって言ってくれるの、ちょっとありがたいよ」
「……」
「え」
「いえ」
エヴァは一瞬だけ目を逸らした。
「そういうふうに、変なところで真っ直ぐ礼を言うの、ずるいですわね」
「なんで」
「なんでもありません」
「絶対なんでもある顔してるけど」
「気のせいです」
「出た、便利なやつ」
その時、廊下の方から小さな笑い声が聞こえた。
何となく気になって、僕たちはそちらへ目を向ける。
三田村だった。
正確には、三田村と、黒崎と、その周囲の何人か。
教室の出入口の少し外。誰かが部活見学の紙を配っていたらしい。その流れの中で、黒崎が三田村へ何かを言っている。距離があるから全部は聞こえない。でも、三田村の笑い方だけは見えた。
まただ。
笑っている。笑っているように見せている。でも、肩が少しだけ固い。
黒崎が紙を三田村へ押しつけるように持たせる。
三田村は受け取る。
黒崎は軽く笑う。
周りも少し笑う。
音のない場面なのに、内容が分かるのが嫌だった。
「……ほら」
エヴァが言った。
「また、ですわ」
「うん」
僕は小さく答える。
今度は、さっきよりもはっきり嫌だった。
嫌という気持ちが、だんだん形を持ち始めている。まだ行動ではない。まだ言葉にもなっていない。でも、確実に輪郭だけは濃くなっている。
朱音は何も言わなかった。
ただ、僕の横で静かに黒崎を見ていた。その目は、最初から答えを知っているみたいに落ち着いている。
エヴァは逆に、僕を見ていた。
あの人に何をされるかではなく、僕がここで何を選ぶかを見ている目だった。
板挟みだな、と少し思う。
でもたぶん、板挟みという表現は間違っている。
この二人は、僕を引っ張っているわけではない。
ただ別々の場所から、僕がどこへ立つのかを見ている。
それが、板挟みよりも少しだけ厄介だった。
「……さすがに」
僕は小さく言った。
「黙って見てるの、難しくなってきたかも」
誰に言ったのか、自分でも少し曖昧だった。
でも、その言葉だけは、二人ともちゃんと聞いていた。




