第9話 冗談っぽく人を下げるやつは、だいたい面倒だ
黒崎蓮司という男は、たぶん“露骨じゃない”ことに全力を注いでいる。
露骨なら分かりやすい。分かりやすいものは、嫌われるのも早いし、止められるのも早い。だから、そういう手合いは案外長持ちしない。高校の教室というのは、狭いわりに人の目が多い場所だ。ひとつ明確にやらかせば、「あいつちょっと無理だわ」があっという間に広がる。
けれど、黒崎はそこがうまい。
うまいというか、嫌な方向へ器用だ。
言葉の先端だけ丸めて投げる。
声の調子を少し軽くする。
最後に笑う。
相手が反応しづらいよう、“冗談っぽさ”を薄く塗る。
それでいて、ちゃんと刺すところには刺す。
人として面倒くさい。
たぶん、かなり面倒くさい。
そんなことを、朝のホームルームの時点で僕は考えていた。
理由は単純だ。今日は朝から、黒崎が三田村を標的にしていたからである。
「三田村、それ提出した?」
「え、まだ……」
「まだなんだ」
黒崎が笑う。
「いや、おまえってほんと毎回ちょっと遅いよな」
「ご、ごめん」
「なんで謝るんだよ、別に怒ってねえって」
「いや……」
「ていうか逆にすごくない? あれだけ先生に言われててまだ後回しにできるの、才能じゃん」
笑い声が、近くで少しだけ起きた。
大きくはない。本当に、反射みたいな小さな笑いだ。気まずい時の、あの、空気を固めないための笑い。あれはたいてい、言った側より聞いてしまった側のほうが後味が悪い。
三田村は曖昧に口元を動かした。笑った、のだと思う。たぶんそういうことにしておきたかったんだろう。でも、目が笑っていない。笑っていないどころか、完全に困っている。
それを見て、僕は朝からだいぶ嫌な気分になった。
まだ一限前だぞ。できればもっとこう、人間らしいことで心を削ってほしい。たとえば眠いとか、腹が減ったとか、そういう平和な理由で。
「神代くん」
木乃実が小さく声をかけてきた。
「何」
「顔」
「え」
「出てる」
「何が」
「嫌そうな顔」
「……そんなに?」
「うん」
木乃実は前を向いたまま、小さく言った。
「たぶん、本人より分かりやすい」
「それは嫌だな」
「でも今の、ちょっと嫌でしょ」
「ちょっと、どころではないかな」
「だよねえ」
木乃実の声は軽い。でも軽いなりに、さっきの空気に引っかかっているのは分かった。後ろの佐伯も、何も言わないまま少しだけ顔をしかめている。
ただ、そこで終わるのだ。
嫌だな、で終わる。
感じ悪いな、で止まる。
そこから先へは進まない。
なぜなら、黒崎はまだ“その場で止めるほどひどいこと”をしていないからだ。少なくとも表面上は。
この“表面上は”が厄介なのである。
「あなた、顔に出ていますわよ」
隣から、静かな声がした。
エヴァだ。
彼女は教科書を机の上へ出しながら、まるで天気の話でもするみたいにそう言った。僕の嫌な顔が天気と同列に扱われているのは微妙に癪だが、否定はできない。
「そんなに?」
「ええ」
「木乃実にも言われた」
「当然ですわ」
「当然なんだ」
「自覚がないのですか」
「ないわけじゃないけど、そこまで分かりやすいとは」
「分かりやすすぎます」
エヴァは少しだけ目を細めた。
「あなた、嫌なものを見た時だけ妙に素直ですもの」
「それ、褒めてる?」
「まさか」
「だろうな」
教室の前方では、黒崎がもう別の話題で笑っている。すぐ切り替える。切り替えが早い。さっきの“軽いいじり”は、彼の中では本当に軽口だったのかもしれない。あるいは、軽口の顔をした何かだったのかもしれない。
どちらにしても、受け取る側の三田村は、ちゃんと傷ついていた。
そこが嫌だった。
ホームルームが終わって、一限、二限と授業が進むあいだも、黒崎はそういう小さな棘を何度か三田村へ向けた。
配布物を回す時に、
「三田村、ぼーっとしてるとまた最後になるぞ」
グループ分けの時に、
「いや、おまえ要領悪いから、そっちよりこっちじゃね?」
教師に質問されて答えにつまった時に、
「三田村って反応ワンテンポ遅いよな。電波届いてる?」
言い方が全部、笑いながらなのだ。
笑いながら、人の反応の鈍さや要領の悪さを、ちょっとした持ちネタみたいに扱う。
しかも周りも、最初の一回二回はつられて笑ってしまう。空気って怖い。笑うつもりがなくても、誰かの作った軽さに足を取られる。
でも、その笑いの端っこに、だんだん迷いが混ざってくる。
「ねえ」
二限と三限のあいだの休み時間、木乃実が僕の机に寄りかかった。
「黒崎くんさ」
「うん」
「なんか、ちょっと嫌じゃない?」
「ちょっと、で済んでる?」
「済んでないけど、でもさ」
木乃実は言いづらそうに言葉を選ぶ。
「こういうのって、どこで“それはやめなよ”って言えばいいのか分かんなくない?」
「……」
「いじめってほどでもない、って言われたら、たしかにそうかもってなるし」
「でも、感じ悪い」
佐伯が後ろから入る。
「感じ悪いし、見てて気分よくない」
「そうなんだよね」
木乃実が頷いた。
「でも“今のはさすがに”って止めるには、全部ちょっとずつ軽いんだよ」
「軽いのが重なると普通に嫌なんだけどな」
僕が言うと、木乃実は少しだけ笑った。
「神代くん、顔」
「また?」
「また」
「今日はよく言われるな」
「だって分かりやすすぎるし」
「そうかな」
「そう」
「そうですわ」
エヴァまで会話へ入ってくる。
「あなた、もう少し取り繕うことを覚えた方がいいと思います」
「今その注意?」
「今だからです」
「エヴァさんも、黒崎くんのこと気になる?」
木乃実が聞くと、エヴァは一拍だけ間を置いた。
「気になる、というより」
「うん」
「品がありませんわね」
「おっ」
佐伯が少しだけ目を上げる。
「それ、なんか新しい切り口」
「新しくはありません」
エヴァは淡々としていた。
「冗談の体裁で相手の立場を下げるのは、単純に品がないと言っているだけです」
「……」
「……」
「……」
一瞬、沈黙が落ちた。
木乃実が最初に吹き出した。
「待って、ちょっと好きかもその言い方」
「好きになる要素ありました?」
「あるでしょ。“感じ悪い”より解像度高いもん」
「解像度ってそういう使い方するんだ」
僕が言うと、木乃実は嬉しそうに頷いた。
「するする。エヴァさん、たまに一言だけやたら強い」
「たまに、ではありません」
「毎回だ」
僕が小さく言うと、
「よく分かっているではありませんか」
とエヴァが返した。
「嬉しくない理解だな」
「理解の価値と、うれしいかどうかは別ですもの」
「それ、すごく正しいけど、言われる側はちょっと嫌なやつだ」
「あなたにだけは言われたくありませんわ」
そこへ、朱音が戻ってきた。
保健委員関係の用事があったらしく、さっきまで別の教室へ呼ばれていたのだが、戻ってくるなり黒崎のいる前方を一瞥して、それから僕の顔を見た。
「……ああ」
「何」
「恒一くん、もうだいぶ嫌がってる顔してる」
「そんなに?」
「してるよ」
「今日はみんな容赦ないな」
「だって分かるし」
朱音はあっさり言った。
「黒崎くんでしょ?」
「分かるんだ」
「分かるよ。ああいうの、昔から苦手じゃん」
「昔から、ね」
木乃実が面白がるように繰り返した。
「朱音さん、ほんと神代くんのことよく分かってる」
「分かるよ」
朱音は悪びれもせず言う。
「だって長いし」
「その“長い”で全部押し切るの、最近よく見るな」
僕が言うと、朱音はにこっとした。
「便利だからね」
「開き直るなよ」
「でも本当のことだし」
そう、本当なのだ。
本当だから困る。
朱音は黒崎の方をもう一度見た。ほんの一瞬。笑ってはいない。けれど、怒っているようにも見えない。ただ、覚えた、という顔だった。
ああ、と思う。
この人、もう完全に危険人物認定したな。
恐ろしいのは、本人にその自覚がたぶん薄いことだ。朱音の中ではきっと、“危険人物かどうかを見極めるのは当然のこと”くらいの感覚なのだろう。普通の女子高生の顔で、物騒なことを当然のようにやる。そこがいちばん怖い。
四限が終わり、昼休みになった。
昼食の時間というのは、良くも悪くも人間関係が表に出る。だから今の教室の空気を観察するにはうってつけなのだが、正直、今日はそんな冷静なことを言っていられる気分ではなかった。
黒崎は今日も、自分の周囲に小さな輪を作っていた。
三田村も、その近くにいた。自分から寄っていったというより、同じ列、同じ机の流れの延長でそこにいる感じだ。離れる理由もないし、かといって積極的に混ざりたいわけでもない。そういう、いちばん逃げにくい位置。
「三田村、それおまえやっといてよ」
黒崎が何気ない顔で言った。
「え?」
「係の紙。あとで職員室に出すやつ」
「いや、でも」
「俺さ、次の授業始まる前に先生んとこ行かなきゃなんだよね」
「そうなの?」
「そう。だからついでに頼むわ」
黒崎は笑っている。
「三田村、こういう細かいの得意そうだし」
得意そう、という言い方は便利だ。
押しつけを好意的な評価に見せられる。
三田村は困った顔をした。したけれど、断れない。断る理由も、うまく言葉にならない。こういう時に「嫌だ」と言えないやつを狙っているのだとしたら、黒崎はやっぱり相当面倒だ。
「それ、黒崎くんの係でしょ」
木乃実がぽつりと言った。
全員の視線が、少しだけそちらへ向く。
「え?」
黒崎は笑顔を崩さない。
「いや、そうだけど。ちょっと頼んだだけじゃん」
「頼むの早くない?」
「別に強制してないって」
「……」
「な、三田村?」
「え、あ……」
三田村は視線を泳がせる。
「べ、別に、できるけど」
「ほら」
黒崎が肩をすくめる。
「本人がいいって言ってるし」
「それは……」
木乃実が言いよどむ。
そう、それだ。
こうなると止めづらいのだ。
本人が表向き“いい”と言ってしまったら、周囲はそれ以上踏み込みにくい。言わされたとか、断りづらいとか、そういう空気まで言語化して割って入るのは、相当エネルギーがいる。
そして高校の教室というのは、良くも悪くも、そこまでのエネルギーを毎回出せる場所ではない。
僕はそれが、たまらなく嫌だった。
まだ何もしていない。
でも、だいぶ不快だ。
エヴァが小さく言う。
「ほら」
「ほら、って何」
「また、放っておけない顔をしていますわ」
「……」
「違いますの?」
「違わないかもしれない」
「でしょうね」
「嬉しそうに言うな」
「嬉しそうに見えますの?」
「少しだけ」
「気のせいです」
気のせいかどうかはともかく、エヴァの目は静かだった。
“やっぱりそうするのね”とまでは言っていない。まだそこまで行っていない。けれど、“いずれそうなる”と分かって見ている目だった。
朱音の方はもっと露骨だった。
何も言わない。
でも、止める気もない。
それは冷たいからじゃない。たぶん逆だ。朱音は、僕がこういう時どうする人間か知っている。知っているから、今は先に手を出さない。僕がどうするかを見ている。
長い付き合いというのは、厄介なものだ。
木乃実はまだ何か言いたそうだった。でも、三田村本人が「大丈夫」と言ってしまった以上、そこで押し切るだけの言葉が出てこない。佐伯も同じ顔をしていた。
みんな、分かっている。
でも、分かっているだけだ。
それがたぶん、いちばん厄介だった。
昼休みの終わり際、三田村は結局、黒崎に渡された紙を持って教室を出ていった。
黒崎はもう別の話題で笑っていた。
それが余計に腹立たしい。
「……神代くん」
木乃実が小さく呼ぶ。
「何」
「今、だいぶスイッチ入りかけてるよね」
「そんなに分かる?」
「分かるって」
「今日はそればっかりだな」
「だって分かるんだもん」
僕は少しだけ息を吐いた。
まだ何もしていない。
でも、放置できない方へ、確実に気持ちは傾いている。
冗談っぽく人を下げるやつは、だいたい面倒だ。
そして、そういう面倒は放っておくとだいたい大きくなる。
それを知ってしまった以上、たぶん僕は、もう昨日までみたいには見ていられない。




