第6話:聖水が腐る
城下町の朝は、いつも通りに始まったはずだった。
だが、井戸の水に触れた瞬間、リリエルは微かな異変を感じ取った。
透明な水面にわずかに濁りが混じり、清浄のはずの聖水の香りが弱くなっている。
「……これは……」
彼女はそっと指先を水面に浸す。冷たさはいつも通りだ。
しかし、微細な魔力の波が指先に伝わる。
数字では測れない異変。世界のバランスが崩れ始めている証拠だ。
街では、小さな動揺が少しずつ広がっていた。
薬草屋の魔力が弱まり、回復力のある薬草の効能がわずかに低下する。
人々は不安げに顔を見合わせ、原因を探そうとするが、答えは見つからない。
「最近、なんだか調子が……」
誰もが呟く。小さな違和感は、日常の中に紛れ込んで、少しずつ世界を蝕んでいた。
城内では、カインが書類を握りしめ、眉をひそめる。
「これが……聖女を追放した結果なのか……?」
心の奥で後悔が膨れ上がる。決して口には出せない言葉。
数字に頼り、正しい判断だと思った決定――
だが、世界はその正しさを証明できず、少しずつ崩れ始めている。
騎士団長レオンハルトは城下町を見下ろし、視線を彷徨わせる。
「何かがおかしい……数字は正常なのに」
数値には現れない狂い。街の空気、子供たちの声、風の匂い――
すべてが微かに変化していることに気づく。
だが、原因は分からない。わからないまま、焦燥だけが胸を締め付ける。
リリエルは井戸の傍らで静かに手を差し伸べる。
微かな魔力の流れを指先で整え、聖水を元の清浄な状態へと戻す。
人々にはその変化は分からない。
しかし、世界は少しずつ、確実に救われていく――
彼女の静かな行動が、誰にも知られずに進行していた。
噴水の水面がゆらりと揺れ、光が踊る。
リリエルは視線を遠くに向け、城下町を一望する。
「まだ、誰も気づかない……でも、私は知っている」
微かな笑みを浮かべ、足取りを軽くして歩き続ける。
この静かな行動が、確実に世界を支えているのだ。




