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2ー4

 燃えるようなオレンジ色が空に広がっていた。時刻はもうすぐ六時。空気はまだまだ夕方で、夜の気配は薄い。五月は毎年やってくるはずなのに、毎回それが新鮮に感じられる。

 明るさのせいだろう、大通りには人の姿が多い。学校帰りの人、仕事帰りの人、買い物に行く人、遊びに行く人──みんなみんな、私には関係がない。すれ違う誰にも目を向けないまま歩いていく。家に帰るために。そう考えたところで足が動きを止めた。……もう少しだけ遅くなっても良いんじゃないか、って。


「って、だめだめ。言い訳どうすんの、それ」


 首を振って馬鹿な考えを振り払う。そうして再び歩き始めたところで、その声が耳に届いた。


「──ね、──ふふ」


 車が通り過ぎていく音の隙間、反対側の道から確かに。聞き間違えるはずない。心臓が飛び跳ねたような気がした、喜びを表すように。やめてよね、なんて呟いた声に嫌悪や拒絶の色はなかった。顔は勝手に動き出す。そうするべきだと思い込んだ頭のせいで。でも。


「──あ」


 そこで、何も考えられなくなった。足が止まっていた。瞬きさえもできなかった。車が一瞬目の前を隠して、あっという間に走り去っていく。道路の向こうが見えた。そこに、彼女がいた。


「は──」


 心臓が不規則な動きをし始める。うまく呼吸ができない。馬鹿みたい。馬鹿じゃないの。なんで、なんでこんなこと、わかってたじゃん、わかってたはずなのに──逸らせない。その顔から目が逸らせない。浮かべられているのは一度も見たことのない笑顔。一度も向けられたことのない笑顔。それを受け取れるのはこの世できっと二人だけ。その一人が、今、ここに。


「──えへへへ」


 甘ったれた高い笑い声に拳を握りしめる。そうしていないと壊れてしまいそうだった。殺されそうだった。その幸せに、幼い子供と手を繋いで歩くなんて当たり前の日常に。


「っ、は、は──」


 心臓は今にも止まってしまいそう。いっそ止まってしまえばいい。視界が大きく揺れていた。彼女たちの姿が遠ざかっていく。大丈夫。ほら、もう見えなくなる。見えなく、なったから。


「は、あ──」


 それで、やっと息ができた。頭が回らない。何かを考えているはずなのに言葉は何も出てこない。酸素が足りてないせいだ。そうに決まってる。ああ、足が動き出した。身体が勝手に動いてる。私のものじゃないみたい。どこに連れて行かれるんだろう。そう疑問を抱いてみたけど、そんなの考えるまでもなかった。だって今の私に行けるところなんて、今の私が居ていい場所なんて一つしかない。

 大通りの隙間、細い道に入っていく。壁に囲まれたそこに明かりはない。影の落ちたその道の先には黒い山が見えていた。


「──っ、くそ、くそ、くそ」 


 目の前が歪む。噛み締めた唇が痛い。でもその痛みを、怒りをぶつける相手なんていない。だって誰も悪くないから。

 悪いわけ、ないじゃんか。伊好先生はただ日常を過ごしていただけ。自分の子供と街を歩いていただけ。それは普通のことで、当たり前で、そうじゃなきゃいけなくて、だから悪くなんてなくて、悪いのは、結局私だけで──。

 建物が減っていく。その分感じる冷たさが増していく。荒れ果てた空き地たちが増えていく。崩れ落ちた空き家がたまに目に入る。小石の擦れる音だけが響いていた。人の姿はない。気配もない。お化けなら居そうだけど、居てもらっても困る。


「なんで」


 なんで。ただの嫉妬だったらよかった。嫉妬はある。でも違う。そうじゃない。あれを見て私はどう思った。言葉にしてみろよ。


「お、っ」


 おぞましい、なんて──言っちゃいけない。それは間違ってる。こんなの間違ってる。こんなこと、私、私は──ああ、どうしようもなく、気持ちが、悪い。

 黒い山に呑まれていく。高く伸びた雑草たちは小腸のひだを思わせる。目印もない道を進めば突如視界が開けた。足を止める。腰のあたりまで伸びた雑草たちが身体を撫でた。鼻に届くのは青臭さ。周囲を囲むのは空まで届きそうなほど伸びた名前も知らない木たち。街から切り離されたこの場所にある人工物は一つだけ。

 灰色の建物が、消化され損なった異物のように取り残されていた。

 小さく息を吐いてそれに近づいていく。遠い屋上に一瞬目を向けて、すぐに逸らした。一つしかない出入り口、その横の外壁にはちぎれた紙が。何が書かれていたのかもはや知る術もないそれを無視して中へと入る。

 薄暗い内部に満ちているのは冷たさ。中央には上階へと続く螺旋階段がある。壊れたプラスチックチェーンを足で避けてその階段に腰を下ろした。


「……ああ、また来ちゃった」


 真っ直ぐに家に帰りたくない時、いつだってここに来てしまう。あの日からずっとそう。だってここには誰もいないから。誰も、来ないから。

 通学鞄を肩から下ろす。胸に溜まっていた何かと共に息を吐き出せば、その音はいやに大きく響いた。でもすぐにコンクリートの壁に吸収されて消えてしまう。


「なんでかな、ほんと」


 誰に訊ねるでもなく呟いて膝を抱えた。何がそんなに怖かったんだろう。何がそんなに気持ち悪かったんだろう。考えてみようとしてみたけど、頭はうまく動いてくれない。確かなのは、さっきの光景は私にとって受け入れ難いものだった、ということだけ。


「なんで、私はあれが幸せだと思えないんだろ」


 気持ち悪いとか、思ってしまうんだろうか。

 みんなが望むであろう幸せを欲しいと思えない。みんなが祝福する幸せを理解できない。みんなの常識に、当たり前に、いつまで経っても馴染めない。この世界は私にとって、ずっと居心地が悪い。

 どうして──なんて疑問に思うことも、もうない。だって理由は簡単だから。

 みんなは異性が好き。でも私は同性が好き。

 みんなは子供が好き。でも私は子供が苦手、ううん、嫌い。

 ほんの少しのズレなんだと思う。例えば周囲から異性が好きな前提で話しかけられる。例えばテレビやネットでは異性同士の恋愛ドラマばかりが流れている。例えば、そのドラマではやっぱり子供が産まれる。例えば、例えば、例えば──。


「……っ」


 苦しくて掴んだシャツの胸元、ぐしゃりと皺が寄る。汗ばんだ手のひらに布が張り付いてきもちわるい。

 全部。そう全部、些細なことなんだ。他の人から見たら気にしすぎだって言われるようなこと。

 でもそのズレがあるせいで、そのズレを自分の中でうまく飲み込めないから、私はいつまで経ってもこの世界で息ができない。大きくなったら変わるって、そう思ってたのに。


「どうしたら、いいんだろ」


 問いかけは無意味。だって答えは単純明快。

 受け入れる。

 みんなの当たり前を受け入れて、気にしないようにして、そうすればこの世界で普通に過ごせる。誰も傷つけずに。……私は、傷ついたままかもしれないけど。


「……やだなぁ」


 わかってるのに、口から出るのはそれを拒絶する言葉。だってそうじゃん。何で私だけ黙ってなくちゃいけないの。なんで私だけ、一人で──閉じた瞼の裏に、あの子の顔が思い浮かぶ。そっと目を開ければすぐにその姿は消え去ってしまった。


「丹吉瀬さんは……平気、なんだろうな」


 私と同じはずの彼女は、でも、私とは違う。クラスの人と話してるのを見かけたことがある。楽しそうに。普通に。だから、他の人にはできるんだ。他の人は平気なんだ。……だったらやっぱり私が、私だけがおかしくて間違っているんだろう。今までも、そして、これからも。

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