2ー2
「あぁ──やっちゃった……」
踏み込むつもりなんてなかった。本当に。傷つけるつもりなんてなかったのに。
身体から力が抜けて、そのままソファに倒れ込む。置かれていたクッションに手を伸ばしてそれを胸に抱きしめた。どうにもならない声が口から出そうになって、クッションに顔を埋めることでそれを堪える。それでも耐えきれなくて目を閉じた。
浮かび上がるのはついさっきの光景。わかってる。私にそのつもりはなかった。でも、傷つけた。丹吉瀬さんは傷ついた。冷たく凍りついた空気と逃げていく足音。それが何よりの証拠じゃないか。
「……だめだ。あれはだめだよ」
仲良くしかった──そう、仲良くしたかったんだ、私は。なのに、それなのに、彼女にとって一番してほしくないであろう踏み込み方をした。もっと気遣うべきだったのに。もっと気をつけて、言葉を選んで話しかけるべきだったのに。
「最悪だ、私」
真っ暗な闇に心が引き寄せられていく。その流れに身を任せて、このまま意識を手放してしまいたかった。
だけど、世界はそれを許してくれない。
二つの足音が保健室へと近づいてきていた。片方は考えずともわかった。多分くーちゃんだろう。ようやく用事を終えて職員室から帰ってきたらしい。誰かと。……誰と?
「すいません、手伝ってもらっちゃって。重たいでしょう。もうすぐですから」
猫被りモードのくーちゃんの声が廊下に響く。彼女がああいう声を出すのは大抵他の先生方を相手にしている時だった。ああ、頼むから学年主任とかじゃないといいんだけど──。
「いえ、大丈夫ですよ。気にしないでください。お一人でこの量を運ぶのは無理がありますから」
──あ。
聞こえた声に反射的に瞼が開く。急いで身体を起こせば、ちょうど彼女たちが保健室へと入ってきたところだった。
「あら」
鈍色の瞳が細められる。もう見慣れた、少しぎこちない笑みが私へと向けられた。
「こんにちは、極寂さん」
「あ、こ、こんにちは、伊好先生」
慌てて口にしたせいだろう。声が裏返ったのは誰が聞いても明らかだった。くすりと愉快そうな笑みがこぼされる。その音の主は伊好先生ではなく、段ボール箱を抱えてこちらへとやって来るくーちゃんだ。思わず睨んでしまったけれど、彼女は笑みを崩さない。そのまま何を言うこともなく運んできた荷物をソファの横へと下ろした。
「伊好先生、ここに置いてもらっていいですかね。あ、腰、痛めないように気をつけてくださいね」
「だ、大丈夫ですよ。そこまで脆くはありませんから!」
もう、なんてため息を吐きながら伊好先生がこちらに近づいてきた。……私に近づいてきているわけじゃない。わかってる。ただ荷物を置くためだけにこっちに来てるだけだって。なのに。それがわかっているのに私の心臓の鼓動は強く、早くなっていく。ああ、煩い。煩すぎて嫌になる。嫌なはずなのに、でも、それを喜んでいる自分がいた。
よいしょ、なんて声がすぐ真横で聞こえた。思わず顔を伏せる。ほんの少しだけ、柔軟剤の甘い匂いがした。消毒液の匂いに負けそうなほど、かすかに。
「他にはありませんでしたよね?」
「ええ、この二つだけです。すみません手伝ってもらっちゃって」
いえ、と。聞こえた声は少し遠い。恐る恐る顔を上げれば伊好先生はソファから数歩離れたところに。黒いボブヘアが首元で結ばれている。ゴムは百均で売っているような飾り気のないもの。着ているシャツはきちんとアイロンがかけられているのだろう、皺のないそれに感じられるのは清潔感。でも、お世辞にもおしゃれとは言い難い。だけどそういうところ、別に嫌いじゃない。くーちゃんみたいに整った可愛らしさはないけど、この自然さは私にとって好ましいものだった。
あ、と。イタズラを思いついた子供のような声を出したのはくーちゃん。ぱんと手を叩く音に顔を向ければ、彼女の顔には浮かべられていたのは満面の笑み。
「伊好先生、よかったらコーヒー飲んでいきません? 手伝っていただいたお礼もしたいですし。あっ、お菓子もありますよ。どうです、どうです?」
楽しそうに細められた目はどうしてか、伊好先生ではなく私に向けられている。その笑顔は他者を安心させるためのものじゃない。明らかに、面白がっている時のそれだ。いーっと歯を見せて抗議の意を示してみたけどくーちゃんは楽しそうなまま。仕方なく顔を逸らせば、彼女がくすりと笑みをこぼしたのが聞こえた。もう、あんまり揶揄わないでよね。
「ええと、でも」
躊躇いがちな声に目だけを向けてみる。伊好先生は困ったように眉を寄せて頬を掻いていた。ちらと鈍色の瞳がこちらに向けられる。私と目が合うと、先生は一瞬だけ小さく瞳を揺らす。作り出されたのはぎこちない笑顔。それはすぐにくーちゃんへと向けられてしまう。
「その、ご迷惑でしょう? ここは生徒たちのための場所ですから、私みたいな部外者が長居するのは」
「そんなことないですよ! あ、極寂のことなら気にしないでください。空気みたいなもんなんで」
「い、いえ、それは流石に。その、嫌なわけじゃないんです。すみません。本当は早めに仕事を終わらせたくて。だから今日は遠慮しておきます。ごめんなさい、綺施池先生。……極寂さんも」
そう言って、伊好先生は私の方へと顔を向ける。慌てて表情を整えて首を振れば、先生はやっぱり下手な作り笑いを浮かべるのであった。
「それもそっか。残念。じゃあまた今度ゆっくりお茶しましょ、三人で」
三人で、というところをやけにはっきりと言って、くーちゃんは自分のデスクに戻る。伊好先生はそれに続くようにソファから離れようとして、ふと、足を止めた。