13ー2
最期の一日が幕を開けた。
いつもと変わらない日常が進んでいく。教室は今日も賑やか、私一人だけがその空気に馴染めないままで。午後の避難訓練の話題も聞こえていたけど、彼らのそれと私が迎えるそれはそれぞれ無関係な出来事のようにも思えた。みんなにとってはただ授業が潰れるだけのもの。だから誰も特段気にしていない。ラッキー、くらいにしか考えていないようだった。
午前中の授業は長くも短くも感じられなかった。
四時間目が終わると教室は始業前の時間よりも騒がしくなる。それでもやっぱり、その騒がしさは私を受け入れてはいない。油は油のまま。水には馴染めない。
鞄から弁当袋を取り出して教室を出た。すれ違うクラスメイトがこそこそと何かを話しているのが耳に届く。大方、この前の蝶のクラスでの一件についてだろう。
結局、最期まで私は見せ物でしかないようだ──いや、見せ物であることを選んだのは私自身だ。クラスに馴染む努力をせず、自分とは違う誰かとわかり合おうとせず、それどころか関わろうともしない。距離が開くのは当然だろう。
それが嫌だ、と。思わないわけじゃない。
当たり前じゃん。私はただの人間で、誰かの噂の種なんかじゃない。普通に生きて、普通にみんなと仲良くして、青春っぽいものなんか送っちゃったりして。そんな、もう叶わないもしもに未練くらいある。
でもこの最期を選んだのは自分。だから、やり切ってやる。お望み通り、最高のエンタメを見せつけてあげるから。
──ただ、見ていて。何も変わらなくてもいいから、目は逸らさないで。
「くーちゃん」
いつも通りに声をかけて保健室に足を踏み入れる。くーちゃんは私と目が合うと、おかえり、なんてもうすっかり当たり前になってしまった挨拶をしてくれた。
テーブルに弁当を広げる。空腹感はなかったけれど、絶対に食べ切りたかった。最後の晩餐が母の手料理だなんて贅沢もそうそうないとわかってるから。
昼食を口に運ぶ度、胸に何かが溜まっていくような感覚に襲われる。それが身体を圧迫して目の前が滲む。
今じゃない。今じゃないから。
そう言い聞かせて箸を噛み締めたところで、かたり、と。物音に顔を上げれば、正面にはくーちゃんが座っていた。頬杖をついて私を見つめるくーちゃんはいつもよりも落ち着いた雰囲気を纏っている。
「……なに」
そんな彼女から目を逸らして訊ねる。くーちゃんの目を見続けることが私にはできなかった。
返されたのは別に、なんてそっけない返事だけ。でもその声は別に、なんて声じゃない。
仕方ないから箸を置いて、そっと彼女に目を向ける。
ほらやっぱり。別に、なんて顔してないじゃんか。
私と目が合うと、くーちゃんはため息を吐いて口を開いた。
「……見たよ、わたしも」
「そう」
「でも、まだ信じられない。信じたくない。だってここでずっと一緒に過ごしてきたじゃんか」
「……うん」
逸らしたかった。今目の前にいるくーちゃんは養護教諭じゃなくて、ただの綺施池紅雀だ。そんなのきっと、私以外にはわからないかもしれない。でもそれがわかってしまうほどの時間を私は彼女と過ごしてきたんだろう。入学してからたった数ヶ月だっていうのに。
「だから、本当は、本当はさ、やめてほしい。飛び降りるつもりなんでしょ? 冗談じゃない、やめてよね。なんだってあんたが飛び降りるのを見なきゃいけないのよ。そんなの見たいわけないじゃない、そんなことしてほしいわけないじゃない、死んでるからって、それでも怖いもんは怖いでしょうが──」
「うん。だから飛ぶよ、私は」
真っ直ぐに、揺れ動くその瞳を見つめ返した。
「見たくない。それはきっとくーちゃん以外の誰だってそう。でもさ、見たくないものってそれだけ衝撃的ってことでしょ。なら絶対忘れらんないよ、みんな」
「……傷つくのは極寂だけじゃない。見た人みんな傷つくの、わかってる?」
思わず笑みを漏らした。くーちゃんはやっぱり先生だ。
「笑い事じゃ」
「わかってるよ。でも、やる。私はやるよ。……ね、くーちゃん。私さ、本当はみんなを傷つけたいんだよ」
そう。本当は、屋上で叫ぶことに意味があるんじゃない。みんなの前で屋上から飛び降りることに意味がある。
「無関係な人の方が多いってわかってる。それでも私はこの世界が許せない。こんな世界、大嫌いなんだよ」
所詮自分はみんなとは違う。みんなの当たり前を理解できない。理解したくもない。それでも当たり前はやっぱりそこら中にあって、そいつらはその凶暴性に無自覚なまま存在し続けるんだ。それを、どうして許せるだろうか。
「だから、これは最期のわがまま。私はみんなを傷つけたい。私が傷つけられたように、みんなを。たとえそれがどれほど悪いことで、許されないことだとしても」
「……傷つけられたからって傷つけてもいいわけじゃないのよ」
「うん、知ってる。だから私はきっと地獄に堕ちる。死んで終わりだなんて思ってない。死んでるから何をしても関係ないなんて思ってない。……逆なんだよ。死んでるからこそ、何かを残したくて堪らないんだ。少なくとも私は、だけどさ」
それは紛れもない本心。誰だってそうでしょう。何も残せないまま死ぬなんて嫌だって。生きていたって知ってほしいって。
その普通を、手放させないでよ。それだけはみんなと一緒なんだって信じたいから。
「……止めてもやるんでしょ、あんたは」
仕方ないなぁ、なんて。くーちゃんは、しょうがない妹を見るみたいな目をして笑った。
「うん、やるよ。だからさ、くーちゃん、ちゃんと見届けてよね」
ぐ、とくーちゃんの眉が寄せられる。けれどその顔はすぐに見えなくなってしまった。俯いたくーちゃんは馬鹿みたいに大きなため息を吐き出す。
「っ、馬鹿、馬鹿極寂」
「……ねえ、くーちゃん」
なに、と顔を上げないままくーちゃんは返事をする。今の彼女はどっちのくーちゃんなんだろう。どっちでも、くーちゃんであることには変わりない。
「私はさ、くーちゃんが居てくれて良かったって思ってる。この学校の保健室の先生がくーちゃんだったから何とかやってこれたっていうか。だから、ありがとう」
「──っ、だけど、だけどさぁ!」
勢いよく上げられたその顔は、どうしようなく歪んでいた。
「だったらあんたが死ぬことはなかったじゃんか。もし本当にわたしが何かできてたんなら、あんたが死ぬことはなかったはずでしょう──!?」
「……それを言われると何も言い返せないや。うん、ごめんね、くーちゃん」
「馬鹿、馬鹿極寂、ほんっとうに馬鹿なんだから──」
馬鹿馬鹿と繰り返しながらくーちゃんはテーブルに置かれたティッシュへと手を伸ばす。鼻を啜りながらも涙を拭いながらも馬鹿の雨が止むことはなかった。
「ごめん、くーちゃん。でも、ありがとう」
私の声が聞こえているのかいないのか、くーちゃんはまだ馬鹿だ馬鹿だと繰り返し続けていた。
お仲間、じゃない。だけどくーちゃんはずっと私の味方だった。居場所だった。
恋じゃない、って、言い切っておく。憧れでもないってことにしておく。
私は、くーちゃんが好きだ。
その好きに嘘偽りはない。意味もない。だからこそ、何より手放し難い。
この空間が。くーちゃんと過ごす時間が。
それでも終わりはやってくる。とっくにやって来ていた終わりが、ようやく正しく現実になるのだ。
拒む権利は私にはない。誰にもないんだ。
私は、今じゃないを変えられるんだろうか。
変えて、正しい現実に戻せるんだろうか。




