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2ー1

 ピンクのカーテンが揺れていた。五月の中旬。気温は少し高いけど、入り込んでくる風のおかげで保健室は暑くも寒くもない。

 放課後を迎えた学校に満ちるのは楽しげな空気。だけど保健室だけは少し違う。朝も昼も放課後も、この場所だけは本来どこにでもあるべきはずの空気が存在していない。この場を支配する独特の空気は保健室という概念から作り出されているのだろうか。それとも。


「────」


 ソファの背に身体を預けて小さく息を吐く。そのまま瞼を閉じれば暗闇が視界を支配した。たったそれだけのことじゃ世界は拒めない。運動場から聞こえてくる声も、遠くで聞こえる楽器の音も消えはしない。でも別に、今はそれが耳障りじゃない。この場所が現世から切り離されているように思えるから。たとえそれが私の気のせいなんだとしても、そう思えるから私はここに居られる。

 かちり、こちり、かちり、こちり。時計の針が進む音がやけにはっきりと耳に届いていた。その音に重なるように、誰かの足音が近づいてきている。廊下を歩くその音には聞き覚えがあった。足音が止まる。ゆっくりと瞼を開ける。小さな息遣いが聞こえて、一人の少女が保健室に足を踏み入れた。


「失礼します」


 凛とした声が響く。この部屋の主人に向けて投げられたその言葉は、けれど誰にも受け止められぬまま消えてしまった。一歩分。丹吉瀬さんが保健室に踏み込んだのはたったそれだけ。そこで止まったままの彼女はお目当ての人間がいないとわかると小さく肩を落とす。あまりにもわかりやすい反応だったせいだ。思わず笑みがこぼれそうになって、すんでのところでそれを飲み込んだ。

 丹吉瀬さんは私を気にする様子も見せず、手にしていたプリントに目を落とす。いつも通り保健委員の用事でやって来たのだろう。それ以外の理由で彼女がここに訪れたのを私はまだ見たことがない。何か言い訳がないと会いたい人に会いに行くことができない、話したい人と話せない──その歯痒さは、まあ、わからなくもない。


「ねえ」


 と、丹吉瀬さんが唐突に顔を上げた。吊り上がった目が私に向けられる。睨まれているようにも思えるそれは、きっと本人にそのつもりはないのだろう。怒っているわけではなさそうだった。


「綺施池先生は?」

「……職員室。多分すぐに帰ってくると思うけど」

「そっか。なら悪いけど、少し待たせてもらうね」


 どうぞ、と答えれば丹吉瀬さんはようやくきちんと保健室に足を踏み入れた。部屋の中央あたりに置かれたテーブルの前で立ち止まった彼女は肩にかけていた通学鞄を床に下ろす。丁寧に下されたにもかかわらず、それはどさりと重たい音を立てた。

 丹吉瀬さんは私に背を向けてテーブルにもたれかかる。表情の見えない彼女の頭はくーちゃんのデスクに。主人不在のデスクの上には開かれたままのパソコン、飲みかけのコーヒーが入っているであろうマグカップ、それから小さな孔雀のフィギュアが置かれている。そんなものを見たって……なんて思わなくはない。でも、私だって今の彼女と同じ状況に置かれたら、きっと、同じことをするだろう。

 穏やかな空気が流れていた。互いに干渉せず、かといって無視をしているわけでもない。廊下を歩く音は聞こえない。誰かが近づいてきている気配はない。ここには今、私と丹吉瀬さんの二人だけ。くーちゃんはまだ、帰ってこない。


「ねえ」


 ほんの出来心だった。悪いことをしてやろうと思ったわけじゃない。傷つけるつもりだってなかった。そう言い訳をしたとて許されるわけじゃないのに。

 それでも私は、一線を超えてしまった。

 黙っていられなかったことだけは確かだ。その理由はわからないけど……本当に、わからない?

 漆黒の瞳がこちらに向けられる。きっと彼女の心は何の準備もできていない。無防備なままで、私が何を言うかなんて見当もついていなくて。

 その心を、私は。


「君、女の子が好き(お仲間)でしょ」


 時計の針が動いた音が部屋に響く。それだけ。その音を最後に何もかもが動きを止めた。風はなく、外の声も聞こえず、自分の心臓さえ役割を放棄する。世界中の時間が止まってしまったような錯覚に陥ったのは、ほんの一瞬のことだった。


「────」


 きつい印象を与える目が大きく見開かれている。艶のある黒の瞳は小さく震えていて、私を見ているようで見ていない。わずかに開かれた口が躊躇いがちに息を吸い込んだ。


「な、なに、言って」


 その声にいつもの張りは無かった。内履きと床が擦れる音が数度、鳴る。テーブルから離れて縋る先を失った身体が頼りなく揺れ動いていた。彼女は口を開きかけて、閉じて、そうしてまた開いて──けれど結局、何も言わないまま。

 その心を、私はきっと。


「──っ」


 最後に目にしたのは歪んだ表情。噛み締められた唇。逸らされた瞳。

 ああ、間違えた。

 自分が何をしでかしたのか、その顔を見てようやく気がついて、だけど彼女に声をかけることはできなかった。丹吉瀬さんは床に置いていた鞄を拾い上げると逃げるように保健室を飛び出していく。


「あ──」


 強い足音が廊下に響いて消えていく。音はあっという間に遠ざかってすぐに何も聞こえなくなってしまう。彼女の去った保健室は初夏だと言うのに冷たくて、それは真冬のようだった。

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