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11ー2

 放課後、授業という重りが外された生徒たちの足は軽やかだ。そんな彼らとは対照的に、私の気持ちには重りが縛りつけられている。昼休みから、ずっと。

 大丈夫、大丈夫と何度も小さく深呼吸を繰り返した。だけど心臓は落ち着いてくれない。暑くなんてないのに、額には汗が滲んでいる。

 一際大きくため息を吐き出して、顔を上げた。

 伊好先生が教室の扉をくぐったのが目に入る。彼女は私の方に目を向けることもなく、掃除の準備を始めた。

 鞄を肩にかけて席を離れる。持ち手を握りしめる手に自然と力がこもった。

 立ち止まりそうになりながらそれでも足を動かす。一歩踏み出すごとに心音が大きくなっていく。

 でも、私は足を止めなかった。止めて、逃げ出すことをしなかった。

 教卓の前で立ち止まる。日誌に目を落としていた伊好先生が顔を上げる。鈍色の瞳と目が合う、合ってしまう。息を吸い込んだ音が、いやにはっきりと耳に届いた。


「伊好先生、お話ししたいことがあって、あの、今から少しお時間をいただいてもいいですか」

「え、ええ、それは構わないけれど」

「ありがとうございます。その、教室だと話しづらいので移動してもいいですか」


 伊好先生が頷いたのを確認して歩き出す。無言のまま教室を出て廊下へ。

 人がいるところは嫌だった。周りに見られている中で話すのは、少し、怖かった。

 生徒が少ない場所を目指して渡り廊下を渡る。結局、選んだのは階段の踊り場。下に降りればすぐに保健室に逃げられる。別に、逃げるつもりで選んだわけじゃないんだけど。

 生徒たちの声は遠く、私たち以外には誰の姿もない。遮るものが特にあるわけじゃなかったけど、それでも今この場所は、なんだか学校から切り離されているように感じられた。


「それで、極寂さん、話したいことってなにかしら」


 硬い笑顔が私に向けられていた。鈍色の瞳を真っ直ぐに見つめる。伊好先生は戸惑ったようにその目を揺れ動かした。


「昼休みの話、ですけど」


 そう切り出した私に、彼女の表情がわずかに和らぐ。些細で確かなその変化は、私の胸にちくりと棘を刺した。小さな痛みを堪えて言葉を続ける。伊好先生が望んでいるのとは、きっと、異なっているであろう言葉を。


「私は伊好先生のお子さんには会いません、絶対に」


 え、と。

 和らいでいた伊好先生の表情が少しだけ強張る。痛みが増す。それでも目を逸らさない。私は、私の言葉が伊好先生にちゃんと届いて欲しいと思っているから。


「私は今のままでいいって思ってるんです。子供嫌いのままで。そのままで。だからお子さんに会う必要はないし、会いたいとも思ってません」

「で、でもずっとそのままってわけにはいかないでしょう?」

「どうしてですか?」

「どうして、って……だってそのままじゃ、極寂さんが辛いだけでしょう? これからみんな大人になっていく。周りは結婚したり子供ができたり、何より社会に出ればそういう人たちに囲まれて仕事をすることにもなるし。そうなってくると、その、周囲と自分を比べちゃうんじゃないかって。今もそうみたいだから。だから、そういう心配があって」


 まあ、至極真っ当な意見だとは思う。けどそれはもういいんだ。いいの、もう。


「心配してくださってありがとうございます。でも、それでも私は……変わらなくていいと思うんです。変わらなくていいって、思いたいんです。もしもいつか変わることがあるんだとしても、それは今じゃない。今じゃないから、だから、そんな先の心配は必要ないんです。それに、もう知ってるから」


 うん、私はちゃんと、自分の答えを見つけてる。

 その正誤も真偽もわからないけど、けど、私の答えはちゃんと手に入れた。


「たとえ周りの意見と自分の考えが合わなくたって、否定されたって、自分が辛くなったって、それだけじゃ別に、私が間違ってるってことにはならない。……自分が辛くなるとか、苦しいとか、楽になりたいとか、これからもあると思います。今も、あります。けどだからって、それを周りに合わせたり、自分を無理に変える理由にはしたくないんです」

「……そ、っか。でも、その、考えるだけ考えておいてほしいの、子供に慣れることを。だって極寂さんがもしこれから先誰かと結婚したりした時に、旦那さんが子供が欲しい人だったりするかもしれないし──」


 その言葉に、私は思わず息を吐き出した。

 ああ、どこまでいってもこの人の頭にはみんなと同じ普通しかないのかな。それでもまだ、まだもう少しだけ──って。


「こ、後悔してほしくないの。子供を産める期間は限られているでしょう? 後悔しない選択をするためには子供に慣れておくことも必要なことだと先生は思ってて──」

「……伊好先生は」


 呆れていると思った。私は今この人に心底呆れているって。でも出てきた声が思っていたよりも弱々しくて驚いてしまう。ああ、呆れてるんじゃない。


「伊好先生は、子供嫌いは悪だって思ってますか?」


 悲しいんだ。わかってもらえないことが。伊好先生の言葉をうまく受け取れないことが。


「そういう、わけじゃ」

「そうですね、そういうわけじゃないんだと思います。でも子供のことを好きでいることが当たり前だとは思ってますよね、きっと。女性は結婚して子供を産むことが幸せだって」


 前時代的だ、と、そんな簡単に蹴飛ばしていいものかどうかも、少し悩んでしまう。あなたの考えは古い、なんて投げ飛ばしてしまうのは、ちょっと違う気もするから。

 鈍色の瞳があちらこちらへと揺れ動いていた。どこを見ればいいのか悩むように。何を言えばいいのか探すように。


「私は、私にとってはそれは幸せなことじゃないんです。結婚して子供を産むことが幸せに繋がる人はいます。ううん、そういう人の方が多いんだと思います。だけど、そうじゃない。みんながみんな、それを幸せだと思ってるわけじゃないんです。その人生だけが正解じゃない。そんな人生を歩むためだけに生きてたわけじゃないんです、私は。だから、無理に矯正しようとしないでください。みんなにとっての幸せを、伊好先生にとっての幸せを、他の誰かに──私に、押し付けないでください」


 言い切って、真っ直ぐに彼女を見つめた。伊好先生は何も言わない。ただ考え込むように視線を床へと落としていた。


「その、わたしは──」

「あれ、伊好先生、極寂?」


 投げかけられた声に顔を向ける。ファイルを抱えたくーちゃんが足を止めて私たちを見ていた。くーちゃんはこのまま階段を降りて保健室へと向かうんだろう。

 ……今はこれ以上、伊好先生に自分の気持ちをぶつけることが間違いだと思った。本当はもう少し、話し合うべきなのかもしれない。話し合いになってるのかもわかんないか、これ。

 けど、でも。


「……すみませんでした、伊好先生。今日は、これで」


 背を向ける。くーちゃんと一緒に保健室に行こうと思って。階段を降りようと思って。そうして踏み出した一歩が、踏み出したには。


「待っ、あ、極寂さん!」


 肩に一瞬だけ何かが触れた。でもそれはすぐに私の身体から離れてしまう。


「──え」


 踏み出した先には、踏むべき床が無かった。

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