11ー1
弁当袋を片手に廊下を進む。昼休みの楽しげな空気から逃れていつもの場所へと向かうために。そこだって、騒がしくないわけじゃない。今日も保健委員や怪我人なんかがやって来るはずだから。
扉の手前で一瞬だけ足を止める。小さく息を吐いて、保健室へと足を踏み入れた。
「くーちゃん」
声をかければ、くーちゃんはパソコンから顔を上げてくれる。その瞳はやっぱり昨日の両親のものとよく似ていた。
おかえり、なんてもうすっかり聴き慣れてしまった挨拶が返される。
今日も全部、いつも通り。
それに安堵しつつテーブルに弁当袋を置く。椅子に座ったところで、出入り口からは聞き覚えのある声が聞こえた。
「こんにちは」
「う、え? 蝶、どったの──」
どうしたの、ではない。蝶は弁当袋を片手にこちらへとやってきていた。考えずともわかることだ。何を馬鹿なことを聞いてるんだろう、私は。
「……あの二人に何か言われた?」
「そんなんじゃないよ、別に。たまには鈴とご飯が食べたかっただけ。ほら、私あんまり昼休みには来なかったじゃん」
早く食べよ、と明るく言って蝶はお弁当袋の口を開き始めた。漆黒の瞳には陽の光が差し込んでいるのに、その目は曇った夜の空みたい。やっぱり何かあったんじゃないか、そう思って口を開こうとして。
「失礼します」
だけどその声に脳が動きを止めて、視線が机の上へと落ちていく。まるで逃げてるみたい。逃げる理由なんてないはずなのに。前は声を聞くだけで嬉しかったはずなのに、今は、なんで。
「あら、伊好先生。珍しいですね、保健室にいらっしゃるなんて」
「ええ、すみません。少し確認したいことがあったものですから」
弁当の用意をして昼食を口に運ぶ。そこに自分の思考は一つも存在しない。ロボットが命令された通りに動いているみたいだ。
そう。ロボットなんだから、何も聞こえなくて当然だし、何も考えていなくて当然。だから、お願い、私を見ないで。私に声をかけないで。
どうか、私をもう、放っておいて。
「すみません、ありがとうございました。……それで、えっと、極寂さん」
口に含んでいたトマトがぷちりと弾けた。何かのスイッチになったのか、一気に周囲の音が耳に入り込み始める。ああ、煩い。なんでこんなに煩いんだろう。何の音なんだよこれ、どくどくどくどく、耳障りで堪らない。
「その、この前のこと、少しは考えてもらえたかしら。ほら、あれからちょっと、時間が経ったでしょう? もしかしたら気持ちが変わってるかもって、思ったんだけれど」
ごくりと、飲み込んだ音がいやに大きく部屋に響いたような気がした。身体が全ての働きを放棄したがっている。
何か言わなきゃ。
でも何も言えない。焦るばっかりで言葉が何にも見つからない。
早く、早くしなきゃ。
瞳が勝手に動いてる、自分の弁当箱、ペン立て、真っ白なテーブルクロス、でもだめだ、何も見つからない。
「っと、もうこんな時間。ごめんなさい極寂さん、私の方から聞いておいてあれだけれど、また話しましょう。綺施池先生もすみません、お時間を取ってしまって」
「……いえいえー! たった数分ですよ? むしろ物足りませんって。それよりほら、その様子じゃお約束か何かあるんでしょう?」
「え、ええ、委員会のことで少し。そういうわけなのですみません、失礼しますね」
それじゃあ、と。その声はきっと私にかけられたものだったんだろう。心臓がまだ煩い。もうその煩い音がちっとも嬉しくなくて、それが何だか、なんか、泣いちゃいそうだ。
動かせない箸を箸箱に片付ける。たまには残したって許して欲しい。いつも頑張って食べてるんだから。
「鈴、伊好先生と何かあったの?」
「え、ああ、うん、そういうわけじゃないんだけどさ」
「いーや、嘘だね。だって鈴、伊好先生が入ってきた途端に凍りついてたもん。おまけにまともに言葉、返さなかったじゃん。そういやこの前のことって何? もしかしなくてもそれが原因?」
「……それは」
食べ残した弁当を片付ける。袋の口を閉めて、その手はそのまま弁当袋を握りしめた。
「……その、子供に会わないかって、伊好先生の」
「は? なんで?」
「私が子供がきら──苦手だって話をしたら、伊好先生、それは子供に慣れてないからだろうって思ったみたいで。だから」
はぁ? と。
蝶の口から吐き出された声は、全てを無理矢理ねじ伏せるようなものだった。顔を向ければ蝶は眉間に皺を寄せている。ここまではっきりと怒りを表に出しているのを見るのは初めてかもしれない。
「会う必要なんてないでしょ、絶対」
「それはそう、なんだけど、でも」
「でもも何も鈴は会いたくないんでしょ」
「それは、うん、だけどさ」
どうにもはっきりと拒絶の意思が示せないのだ。相手がこっちを気にしてくれてることがわかるせいなんだとは思う。ぱくぱくと昼食を食べ進めながら、蝶はきっぱりと首を横に振った。
「嫌なものは嫌でいいんじゃないの。鈴が会いたいなら止めないけどそうじゃないんでしょ?」
「うん、まあ」
「なら断るべきだと思う」
はっきりとしたその言葉に少しだけ気圧されて、私はくーちゃんへと視線を向ける。頬杖をついたくーちゃんと目が合う。彼女はうんうんと蝶に同意するように頷いていた。
「……断って、いいのかな」
「いいに決まってるでしょう。無理に我慢して丸く収めようとする必要なんてないわよ。コミュニケーションって我慢して受けれいるだけじゃないのよ。そういうの、大人になるとかなってるとか言わないんだから。時には断ることだって、相手と過ごすためには必要なことじゃない? 何にせよ、極寂が後悔しない選択をするのが一番だけどね。拒否や拒絶は、それ自体は悪じゃないわけだし」
やり方が問題になることはあるけどね、なんて言って、くーちゃんはマグカップに手を伸ばす。水のようにコーヒーを飲むくーちゃんから目を逸らして机に視線を落とした。
「悪じゃないって、相手が嫌な思いをしても?」
「ん、嫌な気持ちにさせることが悪いことかどうかって難しくないかしら。そもそもそれを言うなら、拒否や拒絶をしないことで自分が嫌な思いをすることもあるでしょう?」
「それは、まあ」
「悪とか善とかの話じゃないって言えばいいのかしら。何が最善かはその時々で違うし、人間は正解を選び続けることができる生き物じゃない。そもそも人間関係に絶対的な正解なんてないもの、テストじゃないんだからさ。正解があるとすれば、それはお互いの気持ちを相手が受け止められる形で伝えることじゃない? ま、それも結局わたしの考えでしかないけどさ」
まだ顔を上げられない私に、極寂、と声がかけられる。仕方ないなぁ、なんて言いたげな声が。それで、ようやく顔を上げられる。
くーちゃんは真剣な瞳で私を見つめていた。
「断るのは悪いことじゃない。誰にだってできることとできないことがある。やりたいことがあれば、やりたくないこともある。それをちゃんと伝えるのは大事なことでしょ」
「……うん」
「もし伊好先生がしつこいようならわたしの方から色々言うこともできるしさ。けどまずは自分で断りなさい。じゃなきゃ、誠実じゃないでしょ」
ね、と。くーちゃんが私に向けた笑みは背中を押すようなものだった。だから。
「うん、そうする。ありがとう、くーちゃん。それから、蝶も」
しっかりと頷いた。くーちゃんは満足そうに笑って、よろしい、なんて口にする。その言い方が少しだけおかしくて思わず笑みがこぼれた。
そっか。ちゃんと言ってもいいんだ。受け入れられないって、それはできないって、それは嫌だって。
これまではそう思うばかりで、結局口にできなくて、態度に出すばかりだった気がする。
けどそれってくーちゃんの言うとおり、誠実じゃない。何よりそれじゃあ相手には伝わらない。わかってもらいたいなら、届くように言葉を紡がなきゃいけない。届けようとしなくちゃいけない。
私はきっと、ずっと、その努力を放棄していたんだろう。
……なら、頑張れば届くんだろうか。届けたいと心から願って言葉を紡げば、それは相手に、誰かにちゃんと届くんだろうか──って、考えて、両親の顔が思い浮かんだ。
だったら、きっと、大丈夫。受け取ってもらえるかはわからなくても、そのための一歩を踏みだすことならもう、できるはずだから。




