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10ー5

 帰宅する足取りがいつも以上に重たい。

 昨晩のことを思い出すたび、足が止まりそうだった。結局ろくに話もしないまま寝て起きて学校に行っていたから、家の空気は昨日の夜のままなんだよう。

 それを変える方法が、私にはわからなかった。わからないまま玄関のドアを開ける。


「……ただいま」


 無言の帰宅を選べずに呟いた。俯いたままで。誰にも聞こえないはずのそれを、だけど両親は聞き逃さなかった。

 おかえり、と。重なった二つの声に顔を上げる。居間からは父がわずかに顔を覗かせていた。


「鈴、その、ちょっとこっちに来なさい。話したいことがあるから」


 そう言って父は手招きをする。その顔をまともに見ることもできないまま、私は大人しく居間へと向かうことにした。今にも飛び出してしまいそうな心臓をシャツの上から押さえつけながら。


「……それで、なに」


 両親と向かい合って座る食卓。いつもと同じ場所のはずなのにいつもとは違う感覚。

 なんか、面接とか、取り調べってこんな感じなのかな。

 こほんという父の咳払いに視線だけを上げる。顔を見合わせる両親が見えた。二人は小さく頷くと私の方を向く。私と同じ赤茶色の瞳と、眼鏡に遮られた薄茶色の瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。


「その、だな」


 何かを言いかけた父は、しかしうまく言葉を紡げない様子。もごもごと口を動かしている。それでも何かしらの覚悟でも決めたのか、小さく息を吸ってその口が開かれた。

 耳を、塞ぎたかった。まだ何も聞いてないのに。押さえつけた心臓がもう限界を訴えていた。腹の底から何かが駆け上がってくる。それは言葉になって私の口から飛び出そうとして。


「っ、ご──」


 けれど、その言葉が形を成すことはなかった。


「鈴、すまなかった!」

「ごめ──へ?」


 そんなの、予想もしてなかった。受け取る準備もないまま与えられた謝罪に頭が止まる。両親の頭は、机にぶつかる手前まで下げられていた。


「え、え、な、なんで?」


 二人は頭を下げたまま、動こうとしない。静かになった部屋に響くのは時計の針が進む音だけ。誰も何も言わない。私も、何を言えばいいのかわからなかった。

 どのくらい、経ったのだろう。

 父がゆっくりと頭を上げる。それに合わせて母も顔を上げて私を見つめた。


「昨日は本当にすまなかった、鈴。父さんたち、その、自分たちに都合の良いことばかり言ってしまったんだろうなと思って」

「……鈴の言う通りね。お母さんたち、鈴が結局は男の人を好きになるはずだって思い込んで喋ってたんだと思う。それが正しいことだって思ってたわけじゃないけれど、でも、そうなるのが当たり前だとは思ってたんだと思う。……正しいと当たり前の違いがなかなか伝わらないかもしれないし、お母さんたちもちゃんとはわかっていないけれど」

「それ、は」


 シャツを握りしめる手から力が抜けた。まだ何も終わってはいないのに、頭がついていけていないせいだろう。気がつけば、胸の痛みがほんの少しだけ落ち着いていた。


「あの後な、色々話してたんだ。一日不安だっただろ、鈴。昨日もだけど今日も、本当にすまなかった。それだけじゃなくて、父さんたちはまだ鈴のことをちゃんと理解できてはいないんだ。だからそれも、すまない」

「お、お父さんたちが謝ることじゃないでしょ。その、私が考えなしだっただけだし。っていうかそもそも受け入れてもらえるとか、そんなこと思ってたわけじゃ、ない、から。だからその、ごめん、言う必要ないこと言っちゃって」

「いいえ、鈴、それは違う」


 厳しい声だった。珍しかった。きっぱりとした否定の言葉に顔を向ければ、母は真剣な眼差しを私に向けていた。


「言う必要がなかったなんてお母さんたちは思ってない。だってもし鈴が言ってくれなかったら、お母さんたちは鈴のことを傷つけ続けたでしょう。これまでと同じように。何も考えないままお母さんたちの考える当たり前を押し付け続けてたと思うの。だから、言う必要がなかったなんて思わないでほしい」


 それに、と母は言葉を続ける。


「自分たちの当たり前が他の人にとってはそうじゃないって、真剣に考えることもしなかったでしょうね。あの講演会の内容も深く理解しようともしないで、ただの話題のタネで終わらせちゃってたと思う。……実際そうしてたし、お母さんは。それじゃあ何も意味がないのにね」

「意味ないって、それは、でも普通の人はそうだよ。みんなそうだと思う。大体の人はその、自分にとっての当たり前しか信じられないから、私もだけどさ。だから別に謝る必要なんてないし、気にする必要だって、だって、私がおかしいだけで、私が普通じゃなかっただけのことなんだから──」


 視界が揺れ動いていた。父の顔も母の顔も見られなくて、瞳はスカートを握りしめる両手へ。心臓はまた、痛み始めていた。


「鈴。お父さんたちは鈴のことをおかしいなんて思っていないよ。普通じゃないなんて、そんな風には考えてないんだよ」

「っ、だったらなんで昨日あんなこと、否定するようなことばっかり言ったの。それって結局そう思ってたからじゃないの?」


 歯が唇に沈み込む。痛みはない。それが余計にイライラする。もうやめたかった。もういいって一言叫べばそれで終わる。分かり合えるだなんて思ってない。認めてもらえるなんて思ってない。だからこれ以上、私を否定しないでよ。


「……ごめん。でも、違うんだ。確かにお父さんたちは鈴が同性を好きだって言った時、真っ先にそれが間違いであるようなことを言ってしまったと思う。うん。それは、良くなかった。結局根底に異性を好きになるのが当たり前だって考えがあったからなのは間違いない。それでも、それでもおかしいだなんて思ってないよ。多数派じゃないかもしれないけど、異常だとは思ってない。すごく簡単に言ってしまえばね、考えていなかったんだよ。自分たちが信じてる当たり前以外に存在しているはずのもののことを」

「……考える機会が得られてラッキーだった、とか思ってる?」


 なんで私はこんなことしか言えないんだろう。それでも気になって仕方なくて、ここまで来てしまったんだからもう全部言ってしまえばいいとも思ってしまってる。そんな私の投げやりな質問を、父はまさか、と笑い飛ばした。


「それは鈴に対して失礼だろ。鈴は誰かが成長するための道具なんかじゃない。鈴の言葉や考えを知って、それで誰かがまた別の考えを持つことはある。違う何かを選ぶことも、きっとね。だけどそのために鈴が存在してるわけじゃない。お父さんたちはね、今回鈴のおかげで気がついたことがある。それはありがたいことだし、感謝もしてる。だけどそれだけじゃいけないし、それだけじゃない。お父さんたちは鈴がこれからどうしていきたいのか、これまでどんなことを考えていたのか、お父さんたちにできることはないのか、そういうことを知りたいと思ってるんだ。それを知りたいのは自分たちが成長したいからじゃない。ただ、鈴のことを知りたいだけなんだよ」

「そんなこと知って、何になるの」

「何にもならないかもしれない」


 なんて、はっきりと口にしたのは母だった。思わず顔を上げれば、母は困ったような笑みを浮かべていた。


「それでも、知ることは無駄なことじゃない。お母さんたちにとっても鈴にとっても必要なことだと思ってる。だって知らないままじゃ何もできないけど、知ることができたのなら、何かを変えられるんじゃないかしら」

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