10ー4
ぱたぱたと廊下を駆ける音が近づいてきていた。蝶の肩から手を離す。聞きなれた足音が、いつもと違う速度で保健室へと戻ってきた。
「っ、ごめん、遅くなった──って、あの二人は?」
息を切らしながら問いかけてきたくーちゃんに、帰ったよ、と返す。くーちゃんはなんとも言えない表情でそっか、と呟いて自分のデスクへと戻っていく。抱えていたファイルたちをデスクの上に置くと、彼女はマグカップを持ち上げてごくごくとコーヒーを飲み干した。
「はー、それで、どうなったの?」
「めっちゃ遠慮なく聞くじゃん、くーちゃん。珍しいねそういうの」
「……それはそうかもしれないけど、仕方ないでしょ。保健室で起きた出来事はなるべく把握しておく義務がありますから」
どうしようか、と蝶に顔を向ける。蝶はくーちゃんの方を見つめていた。きゅっと強く結ばれた唇はまだ震えている。まだ? ……まさか。
「──言いました」
震える唇が、確かにそう紡いだ。
言いました。
その先に言葉が続く。
「言いました、私が、私も鈴と同じだって、女の人が、好きだって──」
「まって、ちょう、それは」
きっと、この場にいる誰よりも私が一番動揺してた。だってそれを言うなんて思ってなかった。それをくーちゃんに明かすなんて、一ミリも思ってなかった。
心臓の音が鼓膜を震わせる。視線を動かせない。くーちゃんがどんな顔をしてるのか、私は目を向けられない。とてもじゃないけど見られない。
でも、蝶は泣きそうな顔をしながらもくーちゃんの方を見つめ続けていた。
足音が聞こえた。小さくて、丁寧な音。私たちのすぐそばで止まったから、気持ちが定まらないまんまで顔を向けた。けどくーちゃんの顔を見る前に、私たちの肩に腕が回された。
「くー、ちゃん」
ようやく見た彼女の顔には、とびきり優しい微笑み。いつも気さくで、けれど少しだけ遠くて、近所のお姉さんと学校の先生の中間みたいな人。今もその印象は変わらない。それでもその顔があんまりにも大人びていたから、ああやっぱりこの人は大人なんだ、なんて、当たり前のことを考えてしまった。
「そう、言ったの。そっか」
肩に回された腕が強く私たちを抱き寄せた。柔らかな髪の感触が少しくすぐったい。
「隠してたってなーんにも悪くないのに、あの子たちにも、私にも。……うん、でも、頑張ったわね。ううん、ずっと頑張ってたのは知ってる。二人がずーっと頑張ってたことくらい、ちゃんと知ってるわよ」
「っ」
「大丈夫。もしも何かが変わったとしても、保健室はなんにも変わらない、もちろんわたしもね。だから安心していつでも保健室にいらっしゃい。絶対に追い出したりしないから。絶対に、あなたたちの味方でいるから。もちろん、悪いことをしたら叱るけれど……あ、あと授業にはなるべく出なきゃ駄目よ? あんまり休みすぎると留年しちゃうもの」
冗談を言う声までが穏やかすぎるせいだ。目の前がぼやけてよく見えない。必死にこぼれそうなものを引き止めようとするけど、結局涙とか言うのが目から離れてこぼれ落ちていく。よく見えない視界の中、蝶も私と同じように泣いているようだった。
「ここがあなたたちにとって居場所になれるかはわからないけど、それでもそうなりたいって思ってるからさ、わたしは」
「──はは、くーちゃんって、何でもわかるくせに気がつかないこともあるんだね」
なによう、と不満げにくーちゃんは口を尖らせる。
涙が止まらないまま、それでも笑みがこぼれた。
だってそうじゃん。なんでくーちゃんってばそこには気がついてくれないんだろ。ていうか、わざとなのかな。
それでも言葉を口にした。そのくらいしか、今、私はこの人に返せるものを何も持っていない。
「ずっと前から、私にとってはくーちゃんが、くーちゃんと蝶が居る保健室が私の居場所だったんだよ」
「っ、わた、私も! 鈴と綺施池先生が居てくれるなら、そこが、そこが一番私にとっては、そこだけが、息ができる場所だったから──」
そう言って、蝶は子供みたいに泣き出した。くーちゃんは仕方なさげに笑ってその肩をしっかりと抱き寄せる。
そっか……なら、この場所だけは失くしちゃいけないんだ。たとえいつかは離れなくちゃいけないんだとしても、それは今じゃない。
これから私が居なくなるんだとしても、それはまだ今じゃない。
だって蝶には今、ここしかない。ここしかないのに、私がそれを壊しちゃいけない。
だから今じゃない。それを今にする方法が見つからない限り、私はまだ消えるわけにはいかないんだ。




