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1ー3

 居間は食欲をそそる香りに支配されていた。くぅとお腹が小さな音を立てる。ダイニングテーブルの上には夕食が。先ほどまでソファに座っていた父もテーブルの方へと移動していた。


「さ、早く食べましょ。お母さんお腹ぺこぺこ」

「お父さんもだよ。ほら、鈴も早く座った座った」

「うん」


 いただきますと口にして箸を手に取る。今日のメニューはピーマンとツナの和え物、味噌汁、焼き魚だ。隣同士に座る両親はお互いの今日の出来事を話し合っていた。


「それでね、お隣の娘さんったら北海道に行っちゃったんですって。最近の人は凄いわよねぇ。マッチングアプリ? だったかしら。携帯で知らない人と出会ってそのまま結婚しちゃうなんて」


 母が口にしたのは最近結婚したらしいお隣のお姉さんについてだった。

 結婚。私には一生関係のない話。

 美味しいはずのご飯から味が抜けていく。それでも箸は止められない。できることは心の中で違うことだけ。こちらに話題が振られませんようにと。少しでも早くこの話が終わりますようにと。……残念ながら、そんな願いは叶わないのだけど。


「怖い時代になったねぇ。手軽に出会ってあっという間に結婚か。考えようによってはお見合いとそう変わらないのかもしれないけれどね。ま、それで本人たちが幸せになれるなら悪いことじゃないか」

「それはそうよね。とはいえお母さん的にはやっぱり自然な出会いの方が安心するけど……ね、鈴はどうなの?」


 ああ、ほら、やっぱり。


「鈴ももう高校生だもの。ほら、そろそろ彼氏とか」


 ぐ、と箸に歯が沈み込む。母はどうなの、と何かを期待するような目を私に向けていた。ほんと、やめてほしい。私がその期待に応えることなんて、一生できないのに。


「ないよ、そんなの」


 笑い飛ばすように言えば、母はあからさまに肩を落とした。


「なんだ、お母さんがっかり」

「ごめんって」

「なんだなんだ、学校にはカッコいい男子はいないのか? お父さんみたいに優しくてイケメンなのは」


 どうやらこの話題はまだ続くらしい。思わず眉を寄せた私を見て母は父の肩を軽く叩く。けどそれは私の内心を理解しての行動じゃない。


「もうお父さんったら、自己評価が高すぎるわよ。それにほら、きっとあれよ、やっぱり鈴にはまだ少し早いのよ。青春はこれからだもの、気長に待ちましょ」

「いやいや、三年なんてあっという間だぞ! 鈴、少しでも気になる男子はいないのか。同級生じゃなくてもお父さん気にしないぞ。年上でも年下でも、鈴が選んだ人なら誰でも……は流石に無理だが、基本的には歓迎するさ。あ、何かあったら言いなさいよ。お父さん、なんでも相談に乗るから」

「お父さん、いい加減しつこいわよ。鈴だって年頃なんだから好きな人がいたって自分でなんとかするわよ、ねえ?」


 作り笑いを浮かべたままでうんと頷く。茶碗に残っているご飯は最後の一口になっていた。それを口に運んで、ろくに咀嚼せず飲み込む。異物が喉を通り過ぎようとして、その途中で止まってしまう。ああ、気持ちが悪い。不快感と違和感。それを、お茶を一気に飲み干すことで押し流した。


「ん、美味しかった、ごちそうさま」


 母の顔も見ずに椅子から立ち上がる。今はただ少しでも早くこの場所から離れたかった。


「あら、もういいの?」

「うん、お腹いっぱい。ごちそうさま」


 笑顔を向ければ、両親はそれで納得したらしい。彼らはそれ以上何を言うこともなく別の話をし始めた。二人の声を聞き流しながら居間を出る。真っ暗な階段を上がっていく。踏み出す一歩が重いのはどうしてなんだろう。

 ──やっぱり鈴にはまだ少し早いのよ。

 そんな母の言葉が頭の中で響いていた。もしかしたらその通りなんじゃないか。私はただみんなより成長が遅いだけなんじゃないか。全部気のせいなんじゃ──でも、違う。

 自室のドアを乱暴に閉めた。その音で全部弾き飛ばしてしまいたかった。

 私は二人の期待には応えられない。私が好きなのは男性(異性)じゃない、女性(同性)なんだ。それは思い込みじゃなくて事実。だからそう伝えればいい。

 なのに、言えない。

 もう今更なのに、自分の中で答えが出ているはずなのに、それでも言えない。悪いことだなんて思ってない。後ろめたいことじゃないってわかってる。絶対に間違いなんかじゃないって思ってるのに。気の迷いなんかじゃないって、変わらないって、わかってるのに──。

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