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10ー1

 肩に感じたのは心地良い重さ。目だけをそちらに向けてみる。蝶が、私の肩に頭を預けていた。

 いつもと変わらないはずの保健室。

 でも、少しだけ変わってしまった何か。


「暑いよ、蝶」

「別に暑くないでしょ、鈴は」


 拗ねたようなその口ぶりに自然と口元が綻ぶ。昨日の今日、すぐすぐいなくなる訳じゃないんだから。


「大丈夫だよ。まだ、まだだから」

「…………」


 私の言葉に蝶は答えない。ただ黙って私に体重を預けていた。

 視線を前に戻せばくーちゃんがパソコンと睨めっこをしているのが目に入る。ぶつぶつと独り言を漏らしながら仕事を進める彼女の顔は険しい。

 そんなくーちゃんから、今度は壁にかけられたカレンダーへ目を移す。一学期はあと少し。私はあとどのくらい──なんて、沈みかけた思考を引き戻すのは二つの足音。廊下に響くのは楽しげな話し声。音の主たちは迷うことなく保健室へと足を踏み入れた。


「失礼しまーす」


 重なった彼女たちの声が私の首を絞める。ひゅっと短く息が漏れた。ぱっと、肩にかかっていた重さが消える。パソコンと見つめあっていたくーちゃんが、顔を出入り口の方へと向けていた。


「……こんにちは。お二人さん、今日はどうしたの。怪我でもしちゃった?」


 笑みを浮かべて立ち上がるくーちゃん。その笑みも声色もいつもと同じ。何も変わらない。でも重い、いつもとは違って。まるで相手に圧力をかけようとしているみたい。先生がそんなことして良いのって言いたかったけど、でもその特別扱いが、今は。

 蝶の友人たちはそれに気がついているのかいないのか、いやぁ、なんて軽い声を出す。


「怪我したわけじゃないんだけどさ、実は伊好先生に頼まれたんですよ」

「伊好先生に?」


 首を傾げるくーちゃんに二人は力強く頷く。焦茶色の瞳たちがこちらを向いた。そこにはやっぱり敵意も悪意もなくて、でも、私はその目が怖くて仕方がない。それが記憶の中のあいつらと同じ目なのか、違う目なのかもわからないのに。


「ほら、蝶が極寂さんと仲良いじゃんか。いっちゃん先生もそれ知ってたみたいでさ、あたしたちに声かけてきたんだよ。あなたたちも極寂さんのこと気にかけてあげてくれないかしら、的な感じで」

「伊好先生、極寂さんのことめっちゃ気にしてたよね。じゃあ自分が話しかけなよ、って気持ちもまああるけどさ。けどあの人的には同年代の友達を極寂さんに作ってほしいっぽくて、ちょうどいいことにあたしたちも極寂さんと仲良くしたかったし、いいよって返事したんだよ。ってことで、あたしたちは合法的にここに来る権利を手に入れたのでした!」


 笑みが浮かべられる。二人の顔に浮かべられたその笑顔はひどく眩しい。その笑みを向けられて、本当ならありがたいと思わなきゃいけないんだろう。けど人の心を温めるはずのその笑顔が、なんでだろ、私の心をどんどん冷たくしていくんだ。


「この前はあんまり話せなかったからさ。今日はもうちょっとくらいは話したいなー」

「てかあたしたち自己紹介もしてなくね? 極寂さん、あたしらの名前知ってる? あたしは──」


 話し声が耳を通り過ぎていく。聞かなきゃいけないはずなのに。

 焦茶色の瞳たちが私を見ている。やめて、私を見ないでほしい。彼女たちは私をどう認識してるんだろう。この二人の目に、私はちゃんと人間として映ってるのかな。


「あ、そういえば蝶はどうやって極寂さんと仲良くなったの? やっぱ保健委員だったから?」


 へ、と。動揺したような声がすぐ隣から聞こえた。


「そういうわけじゃ、その、私は、ただ……」

「それ、あたしも気になってた。二人はどうやって仲良くなったんだろ、って。ね、極寂さんはなんで蝶と友達になったの?」


 すぐ近くで、声が聞こえた。

 彼女たちの姿が目の前に。

 遠慮のない視線が私に向けられている。

 自然な笑みが彼女たちの口に浮かべられている。

 嘘も隠し事も、多分、どこにもない──それが怖かった。嘘や隠し事がありながら接されることだって怖い。表では良い顔をしておいて、裏では何を言われているかわからないから。

 でもそれはまだいい。

 全てが本物であることの方がずっと怖い。だってわかってしまう。彼女たちが私をどういうふうに見ているのか、どういうふうに思うのかが。


「クラスの人たちとも話さないって聞いてるけど。なんで蝶はいいの?」

「ね。クラスの人たちだって蝶とそんな変わんないよ、あたしらもね。みんな普通だよ。だから大丈夫だって──」


 は、と。

 こぼれた笑みは、他人が出した音のように聞こえた。焦茶色の瞳たちをまっすぐに見つめ返す。口の端が不自然に吊り上がる感覚。震える唇は私が何かを考える前に言葉を紡いでいた。


「ねえ、普通って、なに。あなたたちの言うその普通って、なに?」

「っ、え。いや、その、変な意味じゃなくてさ」

「みんな普通、知ってるよそんなの。みんな普通に私自身には興味ないし、みんな普通に私の噂や話題が物珍しかったし、みんな普通に、私が違う存在だと思ってるもんね?」


 大きく見開かれた瞳たちが震えていた。自分たちがどうして言い返されているのかがわからない、とでも言いたげに。二人は何かを言おうと口を開きかけたけど、言葉は何も出てこない。

 出てこなくていい。

 お前らの言葉なんて、私はもう、何も聞きたくないんだから。


「ちょっと、みんな──」


 止まりかけた時を動かそうとしたのはくーちゃんだった。くーちゃんの声に蝶の友人たちの身体がぴくりと震える。すぅと小さく息が吸い込まれる音、そうして吐き出されるはずだった言葉は、けれど唐突に鳴り響いた電話の音に遮られる。

 くーちゃんは一瞬躊躇ったけど、すぐに電話へと手を伸ばした。


「はい、保健室、綺施池です」


 保健室に響くのは電話に応えるくーちゃんの声だけ。誰も口を開かない。蝶の友人たちは気まずそうに視線を床に落としていた。蝶は隣で座ったまま動き出そうとしない。私も、何も言えないでソファに座ったままで。

 受話器を置く音に顔を向ける。小さく揺れる灰色の瞳と目が合った。ええと、と言いづらそうにくーちゃんは口を開く。


「ごめん、ちょっと、職員室に呼ばれちゃって」


 この状態の保健室を放置して出て行くことに罪悪感でもあるんだろう。なかなか動き出そうとしないくーちゃんに、私は作り笑いを向ける。


「大丈夫だよ、別に。早く行ってきたら? 遅くなったら怒られちゃうかもよ、くーちゃん」


 でも、なんて言ったくーちゃんに、私は首を横に振った。まだ何かを言いたそうにしていたけど、それでも彼女はデスクに置かれていたファイルを手に取った。そのまま早足で出入り口の方へと向かう。

 保健室を出るその直前、くーちゃんが足を止めた。不安げな目が私たちを順番に見ていく。もう一度だけ作り笑いをくーちゃんへと向けた。

 ごめん、なんて引き攣った声の謝罪が確かに耳に届く。その言葉を最後にくーちゃんは保健室から出て行った。

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