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9ー3

 足を止めて顔を上げる。見慣れた自宅の窓からは今日もきちんと明かりが漏れていた。両親はいつもと変わらず私の帰りを待っている。亡霊になった私の帰りを。

 玄関を開ければ居間の方から楽しげな話し声が聞こえてきた。それを聞き流しながら洗面所へ向かう。手を洗う水は冷たくも温かくもない。この二ヶ月間ずっとそうだったのに、今更その事実が私の胸に突き刺さる。

 飲み込めない事実。飲み込みたくない真実。そんなものが喉に突っかかったままで、私はいつも通りを続ける。

 自室は闇に染まっていた。電気もつけないまま鞄を放り投げる。部屋を出ようとしたところで、置かれた姿見に目が吸い寄せられた。そこにはきちんと私の姿が映し出されている。


「……死んでるとか、嘘でしょ」


 そっと手を伸ばせば、姿見の中の私と手が合う。目は合わない、ううん、合わせられない。認めてしまうことになる気がして。

 ……でも、見せてしまった。蝶に。見えていた。蝶にも。だから嘘なんかじゃない。紛れもない現実だ。逃げられない現実なんだ。


「鈴ー、帰ったのー?」


 階下からの母の声にうん、と大きく返事をする。

 そっと、姿見に映る私と目を合わせた。紛れもない自分自身。そのはずなのに、鏡の向こうの彼女はまるで他人のように私を見つめている。虚な瞳。淀んだ瞳。冷たい視線が向けられている。その目は誰かの目によく似ていた。


「……あいつらと、同じじゃん」


 私自身を決して認めようとはしなかったあいつらと、同じ視線が私自身から向けられていた。心臓が大きく震える。見ないふりをして立ち去りたかった。けどできなかった。自分が他の人と同じように自分を異物だと認識してたこと。他の誰よりも、自分が、自分こそがその自分自身を間違ってると思ってたこと──それを、今更自覚したことが何より痛かった。


「っ、そんな目で見ないでよ」


 震える声が誰に向けたものなのかもわからない。逃げられなかった。逃げ場なんてないと、私はその意味をこれまで理解できていなかった。

 そう。どこに逃げたって変わらない。たとえ誰もいない場所に行ったって、自分が自分を否定していたのなら、自分が自分を許せないんだったら意味がないんだ。

 だって私は私と居る限りその視線を向けられ続ける。お前は人とは違うと、お前は間違ってるんだって。

 鏡の中の瞳が歪む。覇気のない赤茶色の瞳が苦しみを訴えていた。

 こんな自分、大嫌い。こんな自分を許せない。

 じゃあさ、なんでそんな顔してるんだろ、私は。

 目を逸らしそうになる。それでもその瞳を見つめ続けた。知りたかった、答えが。今更無意味だって笑われたって、それでも知りたかったんだ。


「……私はやっぱり、変われない」


 苦しかった。ずっと見ないふりしていた事実を口に出すことが。そんなわけないと誤魔化し続けていた気持ちを認めてしまうことが。

 それでも唇は動き出す。


「変わらない、変わりたくないよ、私。自分が自分のこと間違ってるって思ったって、普通じゃないって思ったって、気持ち悪いって、思ったとしても。それでも私は、変わりたくないよ──」


 この言葉は決別なのだろうか。それとも歩み寄りなんだろうか。


「だって私は、普通に成って生きることを少しも望んでない。そうなることで楽になれるんだとしても、その方が良いんだとしても、それでも私はそうなりたくない。変わりたくない」


 それが最善じゃなくたって。それが正解じゃなくたって。

 鏡の中の自分はやっぱり辛そうだ。怖いなあ、その目を見続けるのが。わからないよ、どうするのがいいのか。

 ……これが未練、なのかな。自分を認められないこととか、辛いままで消えることとか。そういうのを、私は未練と呼ぶのだろうか。


「──認めてもらえたら、認められるのかな」


 自室を出る。なあなあで生きることも堂々と生きることも選べないけど、もし誰かにそのままでいいと認めてもらえたのなら……そしたら少しくらい、何かを変えてから消えられるのだろうか。私は私のままでいいと、胸を張れるようになれるのかな。

 居間に入る。ちょうど夕食を並べ終えたらしい両親が椅子に座ろうとしているところだった。


「あ、おかえりなさい。お腹空いてるでしょ、早く食べましょう。ほらほら、座って座って」


 うんと頷いて自分の席に座る。ご飯、かき玉汁、青椒肉絲、きっとどれも美味しいに違いない。それでも食欲は湧かない。匂いもしない。お前はもう消えるだけなんだと何もかもが突きつけてくる。

 いただきますと口にして箸を手に取った。でも、茶碗に手を伸ばせない。頭の中が騒がしかった。本気? なんて言葉が繰り返されていたから。

 肯定を望むの、無責任に? 望み通りに得られるかもわからないのに、っていうかそんなの我儘じゃない?


「鈴、どうかしたのか。あ、もしかして青椒肉絲の気分じゃなかったか? すまんすまん、父さんどうしても食べたくってさ」

「え、うん、それはいいよ、別に」

「なんだか顔色が悪い気もするけど……もしかして体調でも悪かった? 無理しなくて良いのよ、鈴」

「……そういうわけじゃなくて」


 カチャリと箸が擦れる音。知らず知らずのうちに握りしめてしまっていたようだ。

 ……やっぱりやめようかな。だってそんなことして、傷つくのは自分じゃん。でも、でも、でも。


「鈴?」


 訝しげな父の声に何も返せない。でも、でも、それでも──私は、欲しいんだ。この世界に居てもいいって許しが。私のままで居てもいいって保証が。ほら、約束したじゃんか。未練を見つけるって。それを解消してから死ぬって。だから。


「──あのさ」


 息を吸う。言葉は、すぐに。


「私、私は、女の人が好き」

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