9ー2
夕方になった公園には子供達の姿が多く見受けられた。走り回る彼らを視界から追い出してベンチに腰を下ろす。少し遅れて、蝶がベンチのそばへと到着した。彼女は一瞬躊躇うように立ち止まったけどすぐに私の横に座る。私に、目を向けないままで。
「……それで、何なの、さっきの。説明してくれるんだよね、鈴」
問いかけに、蝶から目を逸らす。
今の私には、彼女の顔をまともに見る勇気がなかった。酷いことを、したくせに。
「説明も何も、見ての通り私の死体だよ、さっきのは」
「二ヶ月前に死んでるって本当なの? だって鈴には触れるじゃん、ご飯も食べてたよね、何より今ここにちゃんといる。それなのに死んでるって言われたって、いくら死体があるからって、幽霊だなんて、思えるわけないでしょそんなの──!」
「……じゃあ蝶は、あれが偽物だったと思う?」
その瞳を見たのは、ただの反射。彼女に目を向けてから後悔してしまう。ああ、見るんじゃなかったって。涙の膜が張られたまま、それでも私に向けられていた漆黒の瞳を。地面に落ちていた見るも無惨なあの死体を。現実を。何もかもを。
目が合ったのは多分、ほんの一瞬だったんだろう。黒い前髪はさっと彼女の顔を隠してしまった。
「……正真正銘、あれは私の死体だよ。幻覚なんじゃないかって思ったけどちゃんと触れた。蝶にもちゃんと見えた。私の見間違いなんじゃないかって思ったけど、でも、蝶もあれが私だってわかったんだよね。ならもう否定できる材料、ないでしょ」
「あ、あれが本当に鈴の死体かどうかを確かめさせるために私に見せたの?」
勢いよく顔を上げた蝶に違うよ、と首を振る。
じゃあなんで。
そうこぼされた声は今にも泣き出してしまいそうなものだった。
「ごめん。……ごめん。でも、見せなきゃいけないって思った。見せないまま、何も教えないまま死んでいいとは思えなかった」
「──死ぬって、なに」
吊り上がりがちな目が大きく見開かれる。幽霊でも見たみたいな顔してる。実際幽霊なんだけど、なんて、心の中で笑ってみたくても感情は上にも下にも動かない。
「だから、死ぬの。今の私は幽霊だけど、それって精神の方が死ぬのに失敗した状態ってことみたい。もう一度同じ場所で、同じ方法で死ねば私は成仏できる」
「成仏って……消えるって、こと? り、鈴はそれでいいの? 今のままじゃダメなの? だって、だって鈴はちゃんと存在してるじゃん。毎日寝て起きてご飯食べて学校行って保健室で過ごして、それって生きてるのと変わらないじゃん。本当は死んでるんだとしても、普通に、生きてる人と同じことができてるんだよ?」
「同じって、それでも私はもう──」
死んでるんだってば、って。
はっきり言えたらどれだけいいだろうか。心からそう思えたなら、どんなに。
「ねえ鈴、隠そうよ。死体さえ見つからなかったらこのままで居られる。変わらないよ何も。今のままで何も問題ないじゃん。消える必要なんてないじゃん。死ぬって、ねえ、本気? もう一度自分で死ぬの? そんな必要なんてどこにもない、鈴が死ぬ必要なんて、いなくなる必要なんてないじゃんか」
「……必要ないなんてことは、ないよ。死人が生きてるなんて間違ってる」
「っ、間違っててもいい!」
自分でも驚くほど大きな声が出たんだろう。蝶は動揺したようにごめん、と呟いた。
「でも、間違っててもいいからさ、隠そうよ。二ヶ月。二ヶ月も見つからなかったんだよ。誰もあれを、鈴を見つけなかった。ならきっと、これからだって、だから、間違っててもいいから居なくならないでよ──」
蝶の手が私の腕を掴んだ。ぎゅうと力強く。縋るようなその動作に蝶の顔が見られなくなって、でも、目を逸らしたくなかった。だから逸らさなかった。我慢できずに涙がこぼれ出したその瞳から、目を。
「蝶」
私の腕を握る手に力が込められる。その感触は、私が確かにここに居ることを証明してくれているような気がした。
「それは、できない。それはだめなんだよ」
なんでそんな言葉が出たのか、自分でもわからなかった。蝶の提案は魅力的なはずなのに。そっちを選ぶ方がいいはずなのに。
「ダメって、なんで。鈴はもう、生きてたくないの?」
「それは」
普通に考えればそうだ。だってあそこから飛び降りたのは私自身の意思。私は私の意思で自分の人生を終わらせた。だから生きていたくないと考えるのは当たり前のこと。でも。
「生きて、たい。生きてたいよ、まだ、だって」
目の前が滲む。唇を噛み締めたけど何にもならない。涙も言葉も何一つ止まってくれない。
「だって私、死にたくなかった──私は死にたくて死んだんじゃない、飛び降りたんだからって、自分で飛び降りたんでしょ、って。わかってるよ。でも、それでも死にたくなかった! 私は、私はただ、この世界に居たくなかっただけなのに、もう辛いのは嫌だって、一人は嫌だって、それだけだったのに──!」
それでも、時間は戻らない。死んだ人間は生き返らない。奇跡も魔法もこの世のどこかにはあるかもしれない。幽霊が存在していられるんだから、あるんだろう。
……でも、ここに望むそれはない。たとえ存在していたとしても、死んだ人間は生き返っちゃいけない。それだけは、間違ってる。どんな間違いが許容されたとしても、その間違いだけは許されちゃいけない、きっと。
息を吸って、吐いて。涙はまだ止まってくれない。けど、答えは変わらない。変えられない。
「……ねえ、鈴」
うん、と首を傾げる。滲む視界の中、蝶が真っ直ぐに私を見つめているのだけはわかった。
「鈴には、未練はないの? やり残したこととか、まだ消えるわけにはいかない理由とか」
「……どうだろ、わかんないな」
「わからないなら、考えて」
力強い声だった。驚きから何度か瞬きを繰り返す。蝶の顔がはっきりと見えた。強い意志のこもった瞳が私に向けられているのが、はっきりと。
「死にたくなかったって、鈴がそう思ったまま本当に死んじゃうなんて嫌。死んでしまったことが変えられなくても、鈴が成仏することを選ぶんだとしても、それでも鈴が消えるのは今じゃない。今じゃないよ、絶対。だから考えて。やり残したことはないか、後悔は、未練はないか」
ああ、そうか。
今じゃない。
そう思ったのは間違いじゃなかったんだ、きっと。今じゃない。人間は多分、いつ死んだってそう思うに決まってる。だけどもし、今じゃないを今でもいいに変えられるのなら、変えてもいいんだったら。
「許されるのかな、そんなの──」
呟いて、次の瞬間には蝶の腕が私の背に回されていた。
「許されるとか許されないとかはわかんない。でも、死にたくなかったって思ったまま消えて欲しくない。だから、変えようよ。変えられる時間があるんだったら、変えてから死のう。死にたくなかったじゃなくて、別の気持ちに。だから、変わるまでは死なないでよ」
蝶の背に腕を回す。口を開きかけて、でも違うものが目から溢れそうになったから唇を噛み締めた。けど我慢なんて無意味。目の前がまた滲み出す。なんで泣きそうなのかもわからないまま。
「……ありがとう、蝶」
それだけ。それだけ言って、何も言えなくなる。蝶を一人にできないから、なんて言い訳だった。ううん、もちろんそれも本心。だけど本当は、一人になりたくなかったのは私の方だった。一人で暗闇に溶けていく勇気が、あの屋上から飛び降りる勇気が私にはなかったんだ。




