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9ー1

 今日は、ソファには座らなかった。

 放課後になって数分。蝶はまだやって来ない。用事があるのなら連絡すればいい。わかっているのに私の手は携帯を取り出せないままで。

 テーブルにもたれかかったまま、壁にかけられた時計を見つめ続ける。針が進む速度は変わらない。一定のリズムでカチリコチリと時を刻んでいく。時間は止まってくれない。遅くなることも、過去へと戻ることもない。それは、絶対。


「こんにちは──って、鈴? 何してんの?」


 待ち望んでいた声が耳に届く。そのくせ、なんで来ちゃったの、なんてことも思ってる。

 それでも出入り口に目を向けた。わずかに首を傾げて私を見つめる蝶と目が合う。今日も何も変わらない。変わらないはずだ、きっと、変えない限り。


「ソファに座ってないの珍しいね、何かあった?」

「あー、うん、ちょっとね。ねえ、蝶、今日さ……付き合ってほしいことがあるんだけど」


 そう口にして、足元に下ろしていた鞄を肩にかける。いいけど、と蝶が頷いたのを確認して歩き出した。

 くーちゃんに別れの挨拶をして保健室を出る。人通りの多い廊下を歩いて真っ直ぐに昇降口へ。


「どっか行くの?」

「うん、見せたいものがあるから」

「なに、私の誕生日ならまだ先、っていうか今年はもう終わったよ」

「別に誕生日プレゼントじゃないんだけど。っていうか、むしろ」


 むしろ、なんだろ。

 学校を出ていつもの道を歩く。通学路から外れて住宅街へ。人気がなくなっていく。誰もいない道を進めば、あっという間にあの山へと辿り着いた。


「山? こんなところに何があるの?」

「いいから」


 自分が何をしようとしてるのか、わかってる。背負わなくていいことを背負わせようとしてる。見せなくていいものを見せようとしてる。

 そんなのわかってるよ。

 けど、引き返せなかった。引き返さなかった。だってなにも言わずにお別れとか、絶対違うじゃん。


「────」


 心臓が強く私の胸を叩く。やめておけと非難するように。

 震え出しそうになった身体を押さえつける。鞄の持ち手を強く握りしめた。

 ああ、蝉の声がやけに煩い。

 草木をかき分けて進み続ける。視界が開けて、あの建物が目に入った。

 足を止める。小さく息を吐き出してみたけど胸に溜まった罪悪感は消えてくれない。

 後ろを振り返る。蝶はきょろきょろと辺りを見渡していた。


「こんなところがあったんだ。……あれって展望台、みたいな?」

「……さあ。けど、誰もここには来ないみたい。多分山の持ち主が建てたんだろうけどさ」


 へえと頷く蝶に多分だけどねと言葉を返す。

 彼女から顔を逸らして建物の方を向いた。コンクリートでできたそれが、今の私の目には牢獄のように映る。囚われているのは私の身体なのか、それとも心なのか、それ以外なのか。


「ねえ、蝶」


 声が震える。でも蝶は気がつかなかったらしい。なに? といつもと変わらぬ調子で訊ねてきた。


「先に謝っとく。ごめん」

「へ? なに、あ、ちょっと、鈴!」


 まだ何も理解していないのであろう蝶を置いて歩き出す。すぐに足音が追いかけてきた。


「待ってよ。謝るって何? 鈴、別に何もしてないでしょ」

「先にって言ったでしょ」

「そっか、先に……ってことは、もしかして、私、殺される、とか?」


 いやに真面目な声色で返されて思わず笑みがこぼれた。私の笑い声に蝶が少しだけ安心したのが背中越しに伝わってきた。だけど。


「そんなんじゃないよ。ないけど、うん、でも」


 建物の入り口で足を止める。蝶の方へと振り返る。漆黒の瞳が私を見ていた。真っ直ぐに。言葉を待つように。


「でも、そのくらいの覚悟はして」

「……鈴?」


 建物の内部へと足を踏み入れる。昨日の今日だというのに、これでもかというほどの腐敗臭が中には満ちていた。


「っ、なに、この臭い」


 鞄から携帯を取り出す。硬い床を踏む音が響いていた。螺旋階段の裏手に回る。カチリと。音がして、携帯の画面が光を放つ。白い明かりがそれを照らした。薄暗い内部に横たわるそれを。


「──っ、ん、う」


 そっと、蝶へと顔を向ける。病人のような顔色。口元を抑える手は震えている。何かを嚥下する音が耳に届いた。今にも嘔吐してしまいそうな彼女は、けれど何も吐き出さぬまま口から手を離す。震える両手はそのまま彼女自身の胸元へと添えられて、ぐしゃりと、薄いシャツを握りしめた。


「りん、あの、あのさ、これ、にんぎょう、じゃ、ない、んだよね?」

「…………」

「っ──ねえ、鈴。私、私にはこれがさ、鈴に見える。どこからどう見たって、鈴にしか見えない。鈴の、死体にしか──」


 漆黒の瞳の焦点は私の死体に向けられたまま。その目は大きく揺れ動いて、私へと向けられる。問いかけられている。これは何なのか、一体何が起きているのか、と。


「うん。あのさ、私、死んでたみたい。二ヶ月前に」


 言葉は自分でも驚くほど簡単に紡がれた。蝶の頬がぴくぴくと引き攣っている。唇が震えていた。何かを言おうとして蝶は口を開きかけたけど、だけど言葉は何も出て来なかった。

 行こう、なんて声をかけて建物を出る。でも蝶は建物から出て来なくて。出入り口から中を覗けば、立ち尽くしたままの彼女の後ろ姿が目に入る。私の死体を見ているのだろうか。

 しばらくして、彼女がこちらへとやってきた。真っ青な顔のままで。


「話したいこと、あるんだよね。場所変えてもいい?」


 私の言葉に蝶は頷きを返す。身体を震わせたままで。

 ……それがわかっていながら、私は見て見ぬ振りをした。蝶から顔を逸らして建物から離れる。無言のまま山を降りて、住宅地を抜けて、そうして通学路にある公園へ。

 何か言わなきゃ。何度も何度もそう思って、だけど言葉は一つも出て来なかった。

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