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8ー6

「っ、は、は──」


 駆け出して、すぐに息が乱れ始める。耳障りなその音は笑い声に似ていた。足を滑らせそうになっても、それでも私は止まれない。

 なんで。

 わからないけど、わからないのに早く早くと頭の中が騒がしい。そのくせここにいちゃだめとかもう帰るべきだなんて声も煩くて、お願いだからどっちかにしてよ、もう。

 そう訴えたって、考えはまとまらないまま。


「っ──!」


 建物から出て一度立ち止まる。意味もなく周囲を見渡した。足が震えてまともに立っていられない。けどしゃがむこともできない。

 だから、結局生まれたての子鹿みたいにぷるぷる震えながら立ち尽くす。大きく息を吸えば、肺に取り込まれたのは吐き気を刺激するような臭い。

 ああ、気持ち悪い。

 一歩、踏み出す。建物の裏手に向かうために。……裏手、何があったっけ、とか、わざとらしい疑問が頭に浮かんだ。答えを考えそうになる頭を必死に引き止める。

 ああ、そうか、引き留めていたのは私自身だ。

 私を引き留めたのも私を手放したのも、全部全部──黒い塊が、落ちていた。


「────」


 声にならない声が口から漏れる。引き攣った喉は意味のある音を出してはくれない。地面に転がるそれの正体なんてわからない、だって見てないもの。だからわからないはず。それなのに確信があった。叫び出したかった。いっそ叫んで狂ってしまえたならどれほど良かっただろうか。

 言葉も音も一つも口からこぼれないまま黒い塊へと近づいていく。

 ──嘘だ。こんなの嘘だ。認めたくない。夢でしょこれ、夢に決まってる。だっていうのに、意識は途切れない。何度瞬きをしても景色は切り替わらない。


「──あ」


 足が止まった。黒い塊のすぐ前で足が止まった。震える手で携帯をかざす。

 真白な光が、それを照らした。


「っ、う──」


 両手で口を塞ぐ。そうしてないと吐いてしまいそうだった。

 落ちた携帯が下からそれを照らす。シャツやスカートから覗く手足がわずかに膨れ上がっている。本来ならば白いはずの肌がくすんだ茶色に変色していた。

 結い上げられた長い髪には何か、虫みたいなものが絡み付いている。もうそこで終わらせてしまいたかった。終わって欲しかった。でも、見た。その顔を。


「──冗談、きついって、こんなの」


 倒れ伏した遺体。見るも無惨な死体。その顔は、どこからどう見ても私そのもので。


「う、っ」


 飲み込んだ胃液が喉や胃を傷つける。感じるのはちくちくとした痛みと相変わらずの気持ち悪さ。

 浮かぶ感情は……わからない。躊躇いはあった、それに手を伸ばすことに。

 伸ばしかけて一瞬だけ手を止めて、でもまた手を伸ばしてシャツの襟首を掴む。不快な感触が手の上を這う。振り払いたい衝動を堪えて、死体を引きずることにした。

 ず、ず、と。

 音が聞こえていた。地面とそれが擦れる音。耳障りな羽音。怯えたみたいな息の音。

 濃厚な腐敗臭が脳を鈍らせていく。ぼんやりとした頭のまま、私はそれを建物の中へと運んだ。

 手を離したのは螺旋階段の裏手。鈍い音を立てて、頭とコンクリートの床がぶつかった。

 なんでこんなことしてるんだろ、私。早く通報するべきだ。だってそうじゃん、こんなのおかしい。おかしいのに。


「──死んでたの、私?」


 声に出した途端、湧き上がってきたのは恐怖だった。

 間違いだって、違うって、拒絶したくてもこれまでの現実が許さないんだ。

 食欲がなかった。匂いがしなかった。味がしなかった。気温がわからなかった。

 そうして、切ったはずの指が切れていなかった。


「どうしろって言うの、これ」


 説明してほしい。だけどそれをしてくれるのは今目の前に倒れている私自身だけ。私の、死体だけ。


「どうしろって言うの、こんなの──今更、どうにもしようがないじゃんか!」


 叫んだ声はコンクリートの壁に吸収されていく。受け止めてくれる人なんてここにはいない。

 じゃあ、どこなら。

 視線が吸い寄せられたのは手にした携帯電話。文明の力。その向こう側になら誰かが居ると思った。居てほしいと思った。近くじゃなくたって良い、今この現状を説明してくれるんだったら、誰だって構わない。


「…………」


 光る画面。そこに映るのは一つのサイト。掲示板と呼ばれる場所。様々な人が言葉を残してるところ。

 私が検索したワードを拾い上げてくれた携帯は、私をそこへと導いた。心霊現象、オカルト、そういう馬鹿げた話題で盛り上がり続けている場所へと。

 検索ページで見かけた一文を探す。多くの人が書き込んでいた。掲示板の内容は自殺した人のその後について。


「……あった、これだ」


 その人の発言は嘘か真か。


 ──自殺者の多くは身体が死んだ後もその魂が現世に残り続けることがあります。これは身体が死んだ際に魂が死に損なうことで起きる現象であり、つまりは魂もこの世との繋がりが切れれば……端的に言えば死ぬことができれば……成仏することができます。


「……うん。今の私の状態、と、一致はしてる、はず」


 ──ではどうすれば魂が死ねるのか。未練を解消する? いいえ、残念ながらその必要はありません。簡単です。もう一度同じ方法で死ねばいい。身体が死んだのと同じ場所、同じ方法で魂も死ぬ必要があるのです。


 読み終えて、螺旋階段の上を見上げる。

 もう一度、死ぬ。もう一度あの場所から飛び降りれば、私は死ねる。消える。……でも、それは。


「…………」


 やろうと思えば今すぐにでもできることだ。それなのに、私の足は屋上には向かなかった。

 死体が見つからないことを祈りながら建物を出て山を降りる。死ぬことを先延ばしにした理由なんてわからない。

 もう死んでるんだ、私は。なら今過ごしているこの時間は余分なものだ。本当ならあり得ないものなんだ。だから、持ってちゃいけない、この時間を。手放さなきゃいけない、もう続くことのない人生を。

 それでも、それは今じゃないって思ったんだ。だって。


「ああ──蝶に、なんて言えばいいんだろ」


 だって今私がいなくなったら、蝶はひとりぼっちになっちゃいそうだから。

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