8ー5
テレビの中、お笑い芸人がつまらないドッキリをしかけていた。
くだらない、なんて、目を逸らしてハンバーグを口に運ぶ。……けど、何度噛んでもろくに味がしない。私のお腹は空腹を訴えてくれない。それを誤魔化すようにコーンスープを喉に流し込んだ。それもやっぱり、味なんてしなかったけれど。
「それでね、トランスジェンダー、だったかしら。その先生も色々と苦労してきたみたいでね。でも初めて知ったわ、トランスジェンダー。ほら、今テレビに出てるあの人、あの人とは違うのかしらね?」
「ふぅん、そんな名前があったのか。いやぁ、お父さんも講演会に行けばよかった。ここんとこ仕事が忙しかったからなぁ。ご飯も一緒に食べられなかったし。ま、お母さんに色々教えてもらえるのは嬉しいからいいんどけどね。あれだろ、同性愛者の人の話とかもあったんだろう?」
そうそう、と頷く母に私の胸元は冷たくなっていく。
知ったようなこと言わないでよ。
胸の奥が黒くて熱くて、堪らない。堪らないはずなのに、なんで身体中が冷たくて痛くて辛いのか。今飲んだコーンスープだって熱いはずなのに、その熱さえも届かなくなっていくんだ。
テレビもご飯も、何一つ誤魔化してなんてくれない。誤魔化すどころか鮮明にしてくるばっかり。
「時代が変わったのねぇ、本当。昔から居たって話だし、確かにテレビにはそういう人が出ることがあったけど……でもやっぱり現実味がないっていうか、ねえ? 十人に一人って言うけれど、本当にいるのかしら」
「うーん、職場では聞いたことないけどね。友達とかでもそんな話出たことないし、みんな普通に結婚してるしなぁ。多めに見積もってその数字なんじゃないのか?」
「やっぱりそうよねぇ。ああでも近くにいたらって考えると難しいわよね色々と。どう声をかけたらいいのかとかお互いにどう思ってるとか。講演会の先生は自然に接してください、って。でも配慮が要る場合もあるでしょうし、何より、その、あまりこういうことを言うのはよくないのかもしれないけれど、もし自分が好意を向けられたら、とか」
「ああ……確かに。同性のことが好きでもいいけど、自分が好意を向けられるってなったら話は変わってくるからなぁ。いやまあ、偏見があるわけじゃないんだけどね」
私を無視して繰り広げられる言葉のやりとりはまるでささくれだった縄。私の身体をきつく縛り上げて、ちくちくとした痛みと息苦しさを与えてくる。
そんな感覚に反抗するように晩御飯を口に運び続ける。……ああ、そう、こんな話題を聞いてるから食欲がないし味もしないんだ、きっと、そうに決まってる──本当に?
「──っ」
二人の会話はまだ、終わらない。無神経で他人事な言葉たちが居間を走り回っている。私にぶつかっては謝ることもなく、そもそもぶつかったことにさえ気がつかないまま居間を駆け回り続ける。
やめて、なんて、言えない。何も言えないまま、気がつけば私は食事を終えていた。
「……ごちそうさま」
決まりきった言葉を残して席を立つ。両親の話題は講演会のことから父の職場の人の話へと移っていた。なんでも近々結婚するのだとか。
ああ──なんて呑気で鈍感なんだろうか。
ねえ、なんでそんなに無神経なの?
そう吐き出してしまいたい衝動を抑え込んで居間を出た。そのまま自室に戻って扉を閉める。だけどなんにも変わらない。この部屋はこの世界と繋がったまま。だからここは私の部屋だけど私の居場所じゃない。
「っ、くそ、くそくそくそ!」
振り上げた手を下ろす先なんて、なかった。蹴られてもいい物なんてここにはなかった。
机の上に置きっぱなしにしていた鍵と携帯を乱雑に掴む。それを短パンのポケットに突っ込んで早足で居間へと戻る。両親はまだ、楽しそうに普通の会話をしていた。
「……ちょっとコンビニ行ってくるね」
「ん、鈴、お父さん着いて行こうか? もう少しで食べ終わるし」
「ううん、大丈夫。遅くなったらごめんね」
そう残して玄関へと向かう。幸い両親は私を引き止めようとはしなかった。気をつけなさいよ、なんて声を聞き流しながら外へと出る。扉の外と扉の内側、その気温差を私は感じない。
風が吹いていた。でもその風にも温度はない。今年の夏の過ごしやすさは異常だ。テレビの天気予報は毎日真夏日を警告しているというのに。
コンビニを通り過ぎて、住宅街から離れて、いつもの道を歩いていく。真っ暗な山は右も左も不確か。こんな夜にここを訪れるのは初めてかもしれない。
それ以前に、ここ最近はあの建物を訪れていなかった。多分、蝶が居てくれたからだと思う。でも今彼女はここには居ない。いや、電話をすれば快く応じてはくれると思う。だけど、なんか、保健室以外で蝶と話をするのは躊躇われた。
勘だけを頼りに山道を進んでいく。足を撫でる草が幽霊の指みたいで気持ち悪い。もし今帰り道がわからなくなったら私も幽霊の仲間入りしちゃうかも。ま、それでもいいけど──。
「……いい、のかな」
目の前が開ける。人工の光は一つもない。黒々とした木々が囲む夜空には小さな星々が瞬いていた。建物の輪郭は闇に溶けて曖昧。
「ん、なに、この臭い……」
ふいに風に乗って運ばれてきたのは不快な臭い。何故かそれが新鮮に感じられる。
そういえばここ最近は鼻があまり利かなかった。臭いの発生源を探してみようかと辺りを見渡したけど、すぐにやめた。だってこんな闇の中でわかるはずもない。そもそも草が伸びすぎて地面さえ見えないんだから。
鼻にまとわりつく臭いを無視して歩き出す。踏み出すたびに足が重くなるのはどうしてだろう。近づくなって、誰かに足を掴まれてるみたい。
でも、私は建物に足を踏み入れた。
ポケットから携帯電話を取り出して画面をつける。白い光が建物の内部を照らした。
小さく息を吐いて階段に足をかける。やっぱり誰かが、私を引っ張っている気がした。行っちゃだめって。
……別に、どこにも行けないのに。
屋上には何も無く、一瞬だけ強い風が吹いたけどすぐに静かになった。
「何しに来たんだろ、私」
なんて、呟いてみたけど答えてくれる人は誰もいない。本当はわかってる。多分、逃げたかったんだと思う。
どこから? この世界から。
……蝶を、置いて?
「──それ、は」
足が動き出す。さっきまで私を引き止めようとしていた何かが今はもう私から手を離していた。
いや、むしろ私の背を押している。
なんでだろ。さっきから心臓が煩くて仕方ないんだよね。早く行けって命令するみたいに。おかしいな、さっきまで行くなって止めてたじゃん。
「意味わかんない、ほんと」
わからなかった。自分が何のためにここに来て、これから何をしたいのかなんて。それでも身体は屋上の端へと吸い寄せられていく。あの日、私が落ちた場所へと。
「────」
黒々とした夜空に輝くのは小さな星々。その景色は蝶の瞳に似ていた。……だから、やめようと思った、こんなこと。やめるべきだって、思いながら視線を落として、目に入ったのは暗闇──でも、その暗闇の中に、何かある。
「何か、落ち、てる?」
心臓が一際大きく跳ねた。答えを得たと言わんばかりに。それが正解だとでも言いたげに。
何それ、意味わかんないんだけど、説明してよ。
ただの臓器だ、答えなど返ってこない。だけどいつまで経っても鳴り止まない心臓の音が、あまりにも早く脈打つその鼓動が、私の足を動かしていた。




