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1ー2

 時間はあっという間に過ぎていく。他愛のない話を途切れ途切れにしているうちに時刻は約束の五時に。

 もう少し。

 その言葉を飲み込んで、くーちゃんに別れを告げた。返ってきたのはまた明日、なんてお決まりの挨拶。それを素直に受け止めて、保健室を後にした。

 未だ学校に残る生徒たちの姿が、目に入ってはすぐに出ていく。部活動、課外授業、ただの暇つぶし──皆それぞれの日常を謳歌しているのだろう。

 でもそんなの、私には何も関係ない。誰も私とは関係がない。

 小さく息を吐いて首を振る。スニーカーに履き替えて外に出れば、涼しげな風が身体を撫でていった。

 五月になったばかりの夕方。太陽はまだ、沈まない。

 人通りはそれなり。車はいくつも通り過ぎていく。だけど私はひとりぼっち。間違った表現ではないと思う。だって今、誰かがそばにいるわけじゃない。一緒に帰る友達なんていないし、すれ違うのは見知らぬ他人ばかりなのだから。

 ──わあ、と。

 唐突に、賑やかな声が耳に飛び込んだ。反射的に目を向ける。小さな公園があった。


「────」


 喉が引き攣る。空気が擦れる音が小さく口から漏れた。その反応を咎める声が即座に頭の中で響く。

 やめて。言わないで。

 楽しそうな声が街に響いていた。公園を駆け回るのは幼稚園児や小学生たち。走り回る彼らの姿はきっと、とても微笑ましいものなのだろう──なのに、どうして。どうして私は。


「っ、は──」


 煩い。心臓が煩い。そんなに強く胸を叩かないで。鼓動に急かされて足を動かす。公園から離れるように、違う、家に帰るためだ。ほのかな甘味が舌先に触れる。頬の内側がじんわりと痛んでいた。気が付かないうちに口の中を噛んでしまっていたらしい。ああ、煩い。息の音が煩い。落ち着いて。落ち着け。煩い。頭の中で声がする。誰かが何かを喚いている。間違ってる。やめて。間違ってる、って──わかってる。

 私が、間違ってるって。

 足が止まる。もう子供達の声は聞こえなかった。

 そう、間違っている。公園で遊んでいた彼らは、子供たちは何も悪くない。ならば愛おしいと思うべきなのだろう。可愛いと、微笑ましいと思わなければならない。知ってる。それが当たり前、この社会の決まり、みんなに求められる普通。

 なのに──私には、それができない。そうしなきゃいけないのに。みんなはそうすることができるのに。私はいつまで経ってもそれができない。それを、しようともしていない。


「…………」


 ゆっくりと足を進める。間違っているという言葉が身体に重くのしかかっていた。それを振り払う術を私は知らない。もしかしたら、成長すれば、大人になればみんなと同じようになれるのかもしれない。求められる当たり前に応えることができるようになるのかもしれない。

 もしそうなのだとしても、それは今私が間違っているということを肯定する材料にしかならないような気がした。


「……あ」


 気がつけば家はもう目の前。何を考えていたとしても、私の足は私をきちんと家に連れて帰ってくれるらしい。その親切を心の中で睨みつけながら顔を上げる。二階建ての我が家が与えてくるのはほんの少しの威圧感。息苦しさを感じながら玄関の鍵を開ける。その原因が何なのか、目を向けないまま。


「ただいま」


 おかえり、と。帰宅の挨拶を受け止める声が二つ、居間の方から聞こえてきた。両親はすでに帰宅していたらしい。

 それを受け流して洗面所へ。薄暗い中、冷たい水で手を洗う。ふと、視線を上げる。鏡に映る自分と目が合った。赤茶色の瞳はぼんやりとして覇気がない。目の下の皮膚はうっすらと青みがかっている。高い位置で結んだサイドテールは活発そうな印象を与えてくるはずなのに、表情のせいで全てが台無しだ。

 ……これが、学校生活を楽しんでいる高校生の顔だろうか。いや、そもそも安心できるはずの家に帰ってきた子供らしくない。

 蛇口を閉めて小さく息を吐く。濡れたままの手で軽く頬を叩いた。少しの冷たさと痛みで何かが変わることを期待して。だけど、残念、鏡に映る私は相変わらずで。


「って、だめだめ。笑顔、笑顔」


 そう、笑わなくちゃ。

 頬に当てた手を動かして無理矢理に口の端を持ち上げた。鏡の私がぎこちない笑みを浮かべる。今にも泣きそうな瞳をして。

 ああ、だめだ。

 そう直感して自分から目を逸らす。見ていられなかった。こんな顔も、そんな目も。


(りん)ー、帰ったんでしょー?」


 時間切れだ。完璧な笑顔が作れる自信なんて、そもそも泣き出さない自信だってないけど仕方がない。わずかに湿っているタオルで手を拭いて洗面所を出る。理由もわからない緊張を抱えたまま、私は居間へと足を踏み入れた。


「ただいま」


 口から出たのは明るい声。それと共に唇が弧を描く。もうすっかり慣れていたからだろう。今は遠い、昔の私を演じることに。

 テレビの前に置かれたソファ、座っていた父が振り返る。よく磨かれた眼鏡のレンズの向こうには茶色の瞳。一瞬、呼吸が止まる。恐怖も緊張もこの場に相応しくないはずなのに。彼は穏やかな笑みを浮かべておかえりと口にすると、またテレビへと視線を戻した。


「お帰りなさい、鈴。ご飯もうすぐだから、鞄置いてらっしゃい。今日の晩ご飯はお魚よ」


 夕食の準備を進めていたらしい母が台所から顔を覗かせた。明るく笑う彼女にうんと頷きを返す。二人に背を向けて居間を出ようとしたところで父の声が耳に入った。母は父の言葉に楽しげに笑みをこぼしている。

 その明るさから逃げるように居間を出た。仲の良い両親。温かな家族。恵まれた環境だ。間違いなんてどこにもない。悪いところなんて一つもない。

 ──なのに。

 薄暗い階段を昇りながらそっと口元に手を当ててみる。そこに笑みはない。両親に向けていた笑顔が作り物だと証明しているみたいだ。

 ──なのに、どうして私は。

 ドアノブが冷えていた。いやに静かに扉が開かれる。自室は夕焼けに染められていた。カーペットが敷かれた床に通学鞄を放り投げる。どさ、と。重たい音はすぐに消えてしまう。落ちた鞄に目が吸い寄せられる。教科書や参考書が詰め込まれたブラウンの通学鞄は今にもはち切れそう。誰かの鞄とそっくりだ。色だけが違っているけど。

 ──どうして私は、家でさえも居心地の悪さを感じているのだろうか。


「鈴ー、ご飯できたわよー」

「っ、はーい!」


 いけない。ぼんやりしてちゃだめだ。今日はまだ終わってない。だからあと数時間は、ちゃんとしていなくちゃ。

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