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8ー1

 講演会が終わって数日が経った。

 七月を迎え、天気予報で耳にする気温はすっかり夏らしいものへ。とはいえ暑さはそれほど感じられない。病人が訪れることの多い保健室はありがたいことに過ごしやすい温度が保たれているから。

 その恩恵を受けながら、私と蝶は今日もいつものように放課後を過ごすのだった。


「蝶、まだ一年生の一学期の期末考査、だよね?」

「……わ、わかってるよ。っていうか私ができないわけじゃないもん、鈴が頭良すぎるだけでしょ!」

「いや平均点以下がそんなにあるのは流石にまずいでしょ。おっかしーなー、少しだけだけど勉強見てあげたのになー」

「う……い、いや、鈴のおかげでいつもよりは勉強してた。してたよ、本当に」


 ほんとかなぁ、なんて疑いの眼差しを向ける。蝶はこくこくと必死に頷いていた。


「極寂ー、丹吉瀬さんのことあんまいじめないの。それよりも、これ」


 くーちゃんはプリントの束を手に立ち上がる。私たちの前へとやってきた彼女はそれを二つに分けて差し出した。

 なにこれ、なんて受け取って、少しだけ目の前が揺れてしまう。渡されたのは、先日の講演会の感想シートだったから。


「え、なに、くーちゃん」

「気になるかと思ってさ。そういうの本当は見せちゃいけないのはわかってるんだけど、一応匿名だし、二人は誰かに言ったりしないだろうし。チラ見するくらいなら許されるでしょ」


 蝶の顔を見る。彼女は不安げな視線を私に向けていた。


「……ま、読むだけ読んでみようよ」

「う、うん」


 蝶が頷いたのを確認して感想シートに目を落とす。講演会で感じたこと。学校生活で気をつけたいこと。自分にできること。そんな質問たちに対する答えがプリントには記入されていた。


 ──LGBTという言葉を初めて知りました。そんな人たちがいるなんて知りませんでした。十人に一人なら自分の近くにもいるのかもしれません。そのことに今日初めて気がつきました。


 ──クラスにもそういう子がいるのかもしれません。その子が嫌な思いをしたり傷つくことが減らせるように気をつけて発言したり、行動したいと思いました。


 ──差別をしないように気をつけたいです。もし友人がそうだと知っても変わらない関係を築いていけるようにしたいです。


「…………」


 なんで、だろう。書かれている言葉に敵意や悪意なんてない。でもその重さは今手に伝わるプリントの重さに見合わない気がしてしまう。


「なんか」


 プリントを捲る手が重たい。それでもその手を止めずに読み進めていく。みんなの言葉をきちんと受け止めたくて。多分、何かを期待して。だけど私の期待するような何かはどこにもない。何枚捲ったって、何文字読んだって、少しも見つかってくれない。


「みんな、優等生って感じ。そういうこと書くしかないよね、みたいなさ。いや本心なのかもしんないけど。でも、なんていうか」


 他人事。

 自分はそうではないけど、もし他の人がそうだったら気をつけたい。いや、わざわざこんなところに自分が性的少数者に含まれるなんて書く人間はいない。わかってる。

 それでも思ってしまったんだ。

 ──結局は他人事なんだ、って。

 仕方ない。わかってる。講演会を聞いた自分自身は性的少数者には含まれず、そんな人たちとはこれまで無関係に生きてきて、そもそもそういう人がいるなんて少しも思わなくて、もしかしたらこれから関わることはあるかもしれないけどそれも絶対ではない。

 そう考えるのが自然なことくらい、わかってる。

 プリントが擦れる音に顔を上げる。蝶はどこか落ち込んだ様子でプリントの端を弄っていた。


「そ、っか。まあ、こういうもの、なんだよね」


 吐き出された声は弱々しい。口にした言葉は落胆。けれどそれを受け入れきれていない様子で蝶は言葉を続ける。


「別にみんなの感想に文句を言うつもりなんてないよ、ほんとに。こういうのって他人が見るものじゃんか。だからいくら匿名だからって、みんながみんな本心を書くわけじゃない。……ううん、もしかしたら、ここに書いてあることはみんなが心から思ったことなのかもしれない。だけど」


 くしゃりと音を立ててプリントがわずかに歪められた。力の込められた蝶の左手はかすかに震えている。


「なんて言えばいいのかな。怒ってるわけじゃないんだけど、納得できないっていうか。……その、みんなに言って欲しいことがあるわけじゃない。こうしてほしいって、こう思ってほしいって答えが自分の中にあるわけじゃない。なのになんで、みんなの感想を読めば読むほどみんなが遠くなってくんだろ。突き放されてるみたい、自分には関係ないって。でも、じゃあどうすればいいのかって、それもわかんなくて……こんなの、私、わがまますぎるよね」

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