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昼休みが終わる五分前に保健室を出た。寝ないでよ、なんてくーちゃんの声に手を振って。だけど講演会なんて真面目に聞いたところで──そう思いかけて頭を振る。
『講演会のことだってほんとは、ただ、それで何か変わってくれたらいいのにって、それだけなの』
私の本心だって、きっと同じ。誰かの言葉で何かが変わってはくれないか──そんな無責任な期待こそが、きっと。
教室に戻って弁当袋を片付ける。クラスメイトたちはぞろぞろと移動を始めていた。その流れに乗って体育館へと向かう。
人波の先に、見覚えのある後ろ姿が見えた。彼女を挟むのは先日保健室へとやってきた二人。蝶は今日もあの子たちと当たり前に過ごしている。あの日から何一つ変わらないまま。
そう。変わったことなんて何もない。
放課後になれば蝶は保健室にやってくる。私と、そして時折くーちゃんとも言葉を交わす。前と同じように。
くーちゃんは蝶への態度を変えなかったし、蝶もこれまでと変わらない態度でくーちゃんと話していた。
……何も変わらない。
何も変わらないはずなのに、だからこそ怖かった。いつ割れるのかわからない氷の上に立ってるみたいで。いつか、今が壊れてしまうんじゃないかって。
私はずっと怯えている。今までも、多分これから先も。
体育館に辿り着く。すでにほとんどの生徒たちが並び終わっていた。
ありがたいことに私が座るスペースはきちんと空けられている。親切なクラスメイトたちに顔も向けず、そこに腰を下ろした。
授業開始の鐘の音と共に男性教師が起立を促す。それに従って立ち上がれば、一人の人物が姿を現した。ベリーショットカットにシワのないシャツ、それから黒い長ズボン……ああ、なるほど。
そう思ったところでその人の紹介が始まった。講師の先生は私の予想通りトランスジェンダーの男性らしい。元女性、と言えばわかりやすいのだろうか。産まれた時は女性だったが、その性別に違和感を抱き、手術をし、戸籍変更をし、そうして男性へ──と。
着席、という男性教師の声に従って大人しく腰を下ろす。マイクを渡されたその人がにこやかな笑顔を生徒たちに向ける。張り付けられたような笑みに親近感は湧かなかった。
「えー、みなさん、こんにちは」
始まりはそんな、よくある挨拶。簡単な自己紹介、自身の生い立ち、現在に至った経緯。
それは私にとっては至極どうでもいい話……どうでもいい、か。
「……は」
結局、人は自分とは無関係な人間のことに興味なんて持てない。たとえその人が苦しんでいたとしても、その話はその本人以外にとっては小説や漫画と変わらないんだ。
近くにいる誰かに対しては違うかもしれない。だけど場所でも心でも、自分と距離のある相手のことを真剣に考えられる人なんてそう多くはない。
子供なら尚更。大人だって難しいに決まってる。
そう自分を、現実を嘲笑ってみたって、引き絞られるような胸の痛みは消えない。消えないままで、痛みの主張だけが酷くなっていく。
話題は今回のメインテーマであるLGBTの説明へ。しかし今日の講師がトランスジェンダーに属する人である以上、そのことが中心になるのは避けられそうになかった。
小さくため息がこぼれたのはつまらなかったからじゃない。ただ、やっぱり違うから。
多くの人から見れば、LGBTの違いなど些細なものなんだと、少なくとも私はそう思ってる。だが当事者として言わせて貰えば、LGBとTはやっぱり別物。
前者三つは性的指向、つまりどの性別を好きになるのかという問題。
一方Tは性自認、自分自身の性別についての問題である。
どちらも性に関係があると言われればそれはそうなんだけど、だからといって一まとめにされてしまうのはやっぱりちょっと違うと思う。
「……ま、そんなのはあくまで私の感想でしかないけどさ」
現実的に考えれば、マイノリティはマイノリティ同士で結束していた方が得だろう。ただでさえ多数派から疎まれているのだ。これ以上誰かといがみ合いたくないと考えるのは当然のこと。
けど、そんなのは理想論でしかない。
だってそうだろう。たとえ属性が同じでも一人一人の考えは違う。私と同じように一つにまとめるべきじゃないと考える人、私とは逆にみんなで結束するべきだと考える人、はたまた同性愛者の立場としては両性愛者は受け入れられないと口にする人だっている。
マイノリティ、少数者たちだけのことを考えてもこうなのだ。ここにマジョリティ、多数派のことを加えれば混沌としてくるのも無理はない。
講演会は私を置いてどんどん進んでいく。
LGBTのことを知っているかという問いかけに手を挙げた生徒は少なかった。そんな生徒たちに落胆する様子も見せず、講師は話を続けていく。きっとこんなのは慣れっこなんだろう。自分たちのことを知られていないことも、それに対して理解を得られないことも、興味なんて持たれないことも、疎まれることすらあることだって。
それでも講演会をするのは、きっと何かを変えたいから。
あの人は何かを変えたいから、無駄かもしれないこんなことをしてる。みんなの前で言葉を紡いで、届かないかもしれない何かを届けようとしてる。
……そう思っても、胸はやっぱり痛いまま。
そっと周囲を見渡してみた。真面目にスライドを見つめている子、欠伸をしている子、残念ながらうつらうつらと船を漕いでいる子。この中の何人に今日の話が残るんだろう。この中の誰かに、あの人が届けたいものは届くのだろうか。
視線を講師へと戻した。せめて私だけは受け取るべきなのかもしれないと思って。その義務があるはずだって思い直して。
それでも講師の話は私の心を少しも動かしてはくれない。傷も癒やしも与えない。
ああ、なんで。
悔しいのか悲しいのかわからない。わからないまま、ただ唇を噛み締めて彼の話に耳を傾け続けていた。




