6ー8
早くしないと帰ってしまう。もしかしたらもう学校にはいないかもしれない。それでも走った。蝶を探すために。蝶に会うために。会って、ちゃんと話をするために。何度も鼻をすすりながら。
ああ、昇降口までの距離がもどかしい。早くしなきゃと思っているのに思えば思うほど距離も時間も長く感じられる。明日まで待てない。引き伸ばせない。そんなことをしたらもう二度と蝶と話せなくなってしまうような気がするから。
無人の廊下を走り抜けて辿り着いた昇降口、そこには何の音もない。
でも、居た。
靴箱と靴箱の間、影の落ちるその場所に、彼女が。
「っ、蝶!」
飛び出た声は予想外に大きくて、静かだった昇降口の空気を震わせる。びくりと彼女の肩が跳ねた。恐る恐るといった様子で向けられた顔が、私の胸を刺し貫く。
「え、鈴、なんで」
黒い瞳にいつもの輝きはない。その目は私を見ようとしない。蝶はその場から動かない。
そんな彼女の元へと早足で近づいていく。え、え、なんて困惑したような声が耳に届いていた。蝶はもう目の前。不安そうな顔を私から逸らす。その瞳に宿る感情は軽蔑なのだろうか。それとも、怒り? その目を向けられるのが怖い。でもそれは、ここで逃げ出していい理由にはならない。
心臓が一際強く脈打つ。その音が、私の背を押してくれた。
「ごめん!」
「──え。えっ、ちょ、鈴」
戸惑う彼女の声が頭上から聞こえた。ごめん、ともう一度口にしてゆっくりと頭を上げる。
目が、合った。
「ごめん、蝶。私、無神経なこと言った。酷いこと言った。蝶の気持ちも考えないで、しかもよりにもよってくーちゃんの前で」
「それ、は……でも、元はと言えば私が二人をちゃんと注意しなかったからで、だから、鈴は」
言葉が紡ぎ上げられていく。自信なさげに、小さな声で。そっと、そっと、何かを壊さないように。
「ううん、蝶は悪くない。悪いのは私だよ。もう知らないって、もう喋らないって言われても仕方ないくらい」
「そんなことは、言わないよ……」
「……ありがと、蝶。でも思ってることはあるでしょ。私は、蝶が私に言いたいことがあるって思ってる。だから、その、無理にとは言わない。できればでいい。思い込みだったら、ごめん。けど蝶がさっき……ううん、これまでどう思ってたのかとか、そういうの、私に教えて欲しい」
知りたかった。知ったつもりになって踏み躙ってしまった彼女の心を。
それは、なんて、蝶の瞳が揺れ動く。その目をまっすぐに見つめた。逸らすことなく。だって目を逸らしちゃいけない。逸らしちゃったら私は、きっと──その先に続く言葉はわからないのに、それでもだめだって思った。
「……ほんとは」
ぎゅう、と。ぱんぱんに膨らんだ通学鞄が抱きしめられる。
「ほんとは、傷ついた。綺施池先生の前でなんでそんなこと言うのって、なんで私が女の人が好きだってわかっちゃうかもしれないようなこと言うの、って。だって……だっていやだよ、そんなの。……わかってる。綺施池先生がそれで私のこと避けるとかそんなのはないって。でも、さ。違うじゃん。知ってるのと知らないのとじゃ、やっぱり違うじゃんか。それは鈴が一番わかってるでしょ?」
「……うん」
「うまく隠してるとかそういうのだって、そうするしかないじゃんか! だって知られたらどうなるの? なんにも言わないかもね、みんな。でもそうじゃないことだってある、そうじゃないことだってあったでしょ!? 私は、私は、怖いんだよ──」
ああ、蝶って、こんな目するんだ。いつも光を持っていて、暗闇になることなんてないんだって勘違いしてた。
「怖いよ、全部。みんなと違うのが怖い、みんなにどう思われるかわかんないのが怖い、みんなに拒絶されるのが、普通から弾き出されるのが、普通の世界で普通のフリができなくなることが、全部全部怖いんだよ──」
「……ごめん」
「っ、謝らないでよ。だって、だって私はただ怖いからってだけで鈴のこと見捨てたんだよ? 同性が好きなのが悪いことだって思ってるわけじゃない。みんながみんな変な目で見てくるわけじゃない。わかってる。わかってるのに、そう思えない。講演会のことだってほんとは、ただ、それで何か変わってくれたらいいのにって、それだけなの。意味があるとかないとかわかんないよ。でも他の誰かの話を聞いてみんながどう思うんだろうとか、ごめん、何の話してるんだろ私」
「わかるよ。わかるから、大丈夫」
手を伸ばした。影に隠れた蝶の腕を引いて、自分の方へと抱き寄せる。今目の前にいる彼女が、どうしてか、自分自身のようにも思えた。蝶は私じゃないのに。私なんかとは、やっぱり違うのに。
「ごめん、蝶。私は、蝶がみんなに合わせて過ごすのが平気なんだって思ってた。だからずっと、蝶が羨ましかった。……蝶の気持ちなんて知らないで、そんなこと」
「平気じゃない、平気じゃないよ少しも! でもそうするしかできないの。昨日も今日も、明日からだって。これから先も私は、自分と同じ人たちのことを見て見ぬふりして、自分だけが普通に馴染もうとするんだよ。そのくせその普通が息苦しくて、みんなから離れた、自分と同じ人たちを羨むんだよ。ずるいって。なんで平気そうなのって。だけど、その人たちだって平気じゃないかもしれないのに──」
背中に蝶の手が回される。その手は強く私のシャツを握りしめた。蝶の身体は小さく震えている。
……私は、本当に馬鹿だ。平気なんだって、ずるいって。何も知らないくせに、そんなことばかり。
「……私たち、どうするのが正解なんだろうね」
呟いた声に答えはない。でもきっと、みんな言うんだ。大人になれば変わるって。成長すれば生きやすくなるって。
やめてほしい。私たちが辛いのは今なのに。
いつか雨は止む、だから待て。
そんな言葉が何の慰めになるんだろう。そんなのは求めてない。どうしたら私たちの言葉は、心は届くんだろうか。
届いて欲しい誰かの正体さえわからないまま、そんなことを考えていた。




