6ー6
指の位置をきちんと確認して、また、紙を切っていく。動かし始めたハサミの音に重なるのは騒がしい足音。一人分よりも多いその音は躊躇うことなく保健室へと飛び込んできた。
「あ、蝶。やーっと見つけた!」
出入り口に立つのは見覚えのある二人の少女。──教室の出入り口、楽しげに男の子の話をしていたあの子たちだ。
「ここんとこ放課後になったらすーぐ居なくなるんだもん。保健委員の仕事だろうとは思ってたけど、やっぱりここに居た」
「え、ああ、ごめん。何か用だった?」
「そういうわけじゃないけどさ、あたしらだって寂しいわけよ。委員会の仕事が忙しいのはわかるけどたまには一緒に帰りたいじゃん、って──」
こちらへと歩いて来ていた二人が立ち止まる。焦茶色の瞳が私を見た。ああ、と納得したような声が彼女達の口から漏らされる。橙色に染められた唇が弧を描いた。馬鹿みたいに明るくて、でも、私に優しくない笑顔が浮かべられた。
「ね、蝶。この子、例の子でしょ」
ひゅっ、と。息が掠れるような音を立てたのは誰の喉だったんだろう。
「──ちょっと、例のって、どういう意味」
蝶にしては厳しい声だと思った。だからもしかしたら、その声は蝶のものじゃなかったのかもしれない。
「え? どういうってさ、ほら、あんまクラスに馴染めてないんでしょ? 浮いてるって噂あったじゃんか。……あ、だからか」
「あーね、そういうこと。大変だねぇ蝶も。先生に頼まれたんだ」
何を、なんて揺れる声が聞こえた。どこを見ればいいのかわからない。私に向けられる無遠慮な瞳。掃除されたばかりの床。開け放たれたままの出入り口。外。外に逃げればいいのかな。でも逃げられない。
一歩、踏み出したのは蝶の友人達。やめて。来ないで。
「お世話だよ。頼まれたんでしょ、先生に」
「っ、お世話って、そんな言い方──そもそも私は別に、先生に頼まれたから鈴と一緒にいるわけじゃ」
「はいはい。蝶ってばほんと真面目なんだから。ねぇ」
誰に話しかけてるんだろう。理解できないまま、揺れ動く瞳が彼女達に焦点を合わせ始める。浮かべられた笑みに悪意はない。だからこそ、その笑顔が怖い。いっそ、悪意があってくれた方が。
「毎日保健室に居るんでしょ、退屈じゃない?」
「ね、言い方さぁ」
「違うってば、変な意味じゃなくて。いや、教室に居づらいのはわかるんだけどさ。だってほら、あれでしょ。極寂さん、女が好きなんでしょ?」
「は──」
やめて。声は出ない。唇は動かない。頭に浮かぶのはなんで、だけ。なんでそんな顔でそんなこと言うの。なんでそんな楽しそうなの。なんで、悪気なんて一つもない声で喋ってるの。
「ね、あれってマジなの? あたしさ、周りにそういう人がいなかったから気になってたんだよね」
「あー、それはわかるかも。話聞いてみたいよね」
「でしょでしょ」
私を置いてけぼりのまま、彼女たちは言葉を発し続ける。けど何一つそれを聞き取れない。頭の中を駆け巡るのはやっぱり、なんで、という言葉だけ。ねえ、なんで。なんで私は、こんなにも怖がってるんだろう。
「もう、無視されると悲しいんだけど。てか蝶とは仲良くしてるんでしょ? ならあたしたちとも仲良くしてよ」
「あんたが怖いんじゃないの? 言い方悪すぎるし。あ、それともさ」
ぐ、と。心臓が直接掴まれるような感覚。細い指がずぶりと沈み込む。そんなもの嘘だ。あり得ない。だけどそうなってると思ってしまう。何も痛くないのに全部が痛い。滲む視界の中でもわかった。彼女たちは私のことなんてろくに見ていない。見てないから、そんなことをつい口にしたんだろう。
「もしかして極寂さん、蝶のことが好きだったりして」
「──っ、違う! 私は──!」
その時ようやく、彼女たちの顔がはっきりと見えた。長いロングヘアの子がきょとんとした顔をして私を見ている。こんなのは予想外だなんて顔をして。髪を二つ結びにした子は興味深そうに私を見ている。今から私が何を言うのか期待するように。
わからない。わからなかった。どうすればわかってもらえるのかとか、なんでわかってほしいなんて思ってるのかとか、何一つわからない。わからないまま言葉を続けようとしたところで。
「違うよ、二人とも」
その弱々しい声に、何も言えなくなった。二人の顔が動く。それに倣うように私もまた顔を動かした。ただでさえ白い肌が今は病的に白い。生きていないんじゃないかって思ってしまうほど。黒い瞳は大きく揺れ動いている。その表面にはうっすらと涙の膜が張られているようだった。
「違うから、やめて」
それが彼女にできる最大限の抵抗だと、誰に言われずともわかった。わかってしまった。普通に属することを選んだ彼女にできる、普通から外れないためにできる最大限の行動なんだって。だけど、その声は。
「もう、冗談じゃんか。蝶ってばほんと真面目なんだから」
「あはは、ま、それが蝶の良いところでしょ」
その声は、きっと届いてなんかいない。ロングヘアの彼女と二つ結びの彼女がまた、私へと目を向けた。その視線を受け止められなくて、私の瞳は彼女たちの姿をぼやけさせる。ああ、また何か言われる。やだ、いやだ、もう──だけど彼女たちが言葉を紡ぐことはなかった。
保健室に響いたのはひどく乱暴な音。思わず肩が震えてしまったのは私だけじゃない。空気が揺れている。驚きからはっきりした視界、くーちゃんが立ってた。表情はわからない。髪の毛がその顔を隠してしまっていたから。
机に手を当てて立つ彼女は、ふぅと小さく息を吐く。顔が上げられる。髪の毛のカーテンが開かれる。現れたのはにっこりと、いやに整った笑みだった。
「こーら、二人とも用事がないなら早く帰った帰った! 丹吉瀬さんと極寂さんにはちょっとお手伝いをしてもらってるの。あんまりちょっかいかけないであげてよね、二人が帰るのが遅くなっちゃうじゃない。だから、ほら、今日はもう帰りなさい」
えーと抗議の声を上げた二人に、くーちゃんはもう一度、帰りなさいと告げる。柔らかいのに拒否することを許さないような声で。
蝶の友人たちは顔を見合わせると、仕方ない、と頷いて保健室を出て行った。じゃあね、なんて手を振って。
楽しげな談笑の声と少し騒がしい足音が遠ざかっていく。開け放たれたドアの向こう、どうしてか、外の世界が私を手招きしているような気がした。こっちにおいでと。お前を噛み砕いてあげよう、って──ぱちん、と。鳴らされた音で意識を引き戻される。くーちゃんが、両手を合わせて私たちを見ていた。




