6ー5
「こんにちは」
昼休みと変わらない挨拶の声に顔を上げる。蝶だ。いらっしゃいというくーちゃんの言葉に蝶は少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべた。隠しきれない喜びが今は憎い。蝶は私の隣に座る。漆黒の瞳は、迷わず私の方へと向けられた。
「鈴、顔色悪いけど大丈夫? 何かあった?」
「……別に、何も無いよ」
「ふぅん、そう。ならいいけど」
深く追求することもなく蝶は私から目を逸らす。その瞳がぼんやりと宙を見始めた。真似をして、私も視線を彷徨わせてみる。視界の端でくーちゃんが立ち上がった。
「お二人さん、ちょっといい?」
くーちゃんに焦点を合わせる。立ち上がった彼女は自身のデスクに置かれていた紙の束をテーブルへと運んだ。ぼんやりとその様子を眺めていると、ちょいちょい、と手招きされる。横に座った蝶へと顔を向ければ、彼女も私の方に目を向けていた。頷いて立ち上がる。テーブルの上、重ねられた紙には大きなイラストが描かれていた。
「これ、切り取ってくれる? 掲示物に使うから」
「別にいいけど、報酬は?」
「普段保健室に居座らせてあげてるんだからいいでしょーって言いたいところだけど、ま、お菓子くらいならあげるわよ。ってことでよろしくね」
ほいと差し出されたのはハサミ。私たちが受け取ったのを確認してくーちゃんは自分のデスクへと戻る。そのまま彼女はパソコンに向かってお仕事を始めてしまった。
「お菓子、期待してるからね」
はいはいとくーちゃんが頷いたのを確認して、紙へと手を伸ばす。印刷されているのは大きな歯ブラシを持ったうさぎであった。
時計の針が進む音が部屋に響いていた。他に聞こえるのはハサミが紙を切っていく音。くーちゃんがパソコンのキーを叩く音。それだけ。窓の外、運動場の方からは今日も賑やかな声が聞こえて来ている。だから本当はそれだけ、じゃない。でもその音と保健室には何の関連性もない。繋がりなんてない。だから気にならなかった。どんなにその声が騒がしくたって。
淡々と作業が進んでいく。ふと顔を上げる。蝶は眉間に皺を寄せて、あんまり可愛くないワニのイラストをじっと見つめていた。それがなんだかおかしくて、口元が自然と綻ぶ。彼女から紙に視線を戻そうと──戻そうとしたところで、ハサミが紙ではない何かを切った。
「──」
切った。切ったと思った。左手。親指。その先端から赤が──ない。滑らかな皮膚に傷口は見当たらず、そもそもあるべきはずの痛みさえも感じられない。
「あ、れ」
かた、と。右手から落ちたハサミがテーブルとぶつかる。それを拾い直すこともせず、左手の親指に触れた。両方の手を何度も見た。だけど何もない。手は綺麗で、ハサミにも紙にも血なんて付いてなくって。
「ん、極寂? 切った?」
パソコンから顔を上げたくーちゃんと目が合う。え、と蝶が焦ったような声を漏らした。
「ちょ、大丈夫、鈴?」
「え、あ、ああ、違う違う。大丈夫だよ。切ったと思ったんだけど気のせいだったみたい」
「そっか、ならよかった。でも気をつけてよね、鈴。ハサミで指切るのって結構痛いんだから」
わかってますー、と口を尖らせて言葉を返す。蝶はそれで安心してくれたのか作業へと戻った。
くーちゃんは未だ心配そうな目で私を見ている。大丈夫、と手を見せて頷く。曖昧な表情でそう、と呟いて、くーちゃんもお仕事へと戻っていった。
そう。きっと気のせいだろう。気のせいに決まっている。頭の中でその言葉を繰り返しながらハサミを手に取った。紙に刃を添わせて、それを落とそうとして、止める。ほんとに気のせい、なのかな──でも、わざわざ確かめる勇気は私にはなかった。




