6ー2
蝶の方へと身体を向ける。彼女も真っ直ぐに私を見つめ返した。漆黒の瞳は今日も変わらず小さな光を宿している。
……やっぱ、やめようかな。
頬が引き攣っているのが自分でもわかった。だからやめても許されるような気がした。でも許されない。何が。言わないこと? それとも、自分自身? わからないまま口を開く。静かに私を見つめる蝶が、教会の人みたいに思えた。
「噂は聞いてたって、言ったよね。……どのくらい知ってる?」
「えっと、その、鈴が、女の人を好きだってことくらいかな。入ってすぐだったと思う。多分鈴と同じ中学だった子が、話題になると思って言ったんだとは思うんだけど、悪気なく」
「……うん」
ああ、やっぱり眩しい。ねえ、蝶。それってほんとにそう思ってる? 悪気なんてないとか。誰にも悪気なんてないとか。誰も悪くないって、それ、本心?
「──中学の頃の話なんだけどさ」
醜い。醜い私の話を始める。
私には、好きな人がいた。
中学生の私は入学してすぐに、ある先輩に一目惚れをしたのだ。今でもよく覚えてる。丁寧さなんてかけらもない寝癖だらけの髪の毛。ちょっと不恰好な笑顔。普段は眠たそうなのに絵を描く時だけ鋭くなる目。一つ上なのに頼りがいなんて全然なくって。でもそういうの全部、好きだった。
「見てるだけ、だったの?」
「ううん。あの時はなーんにも考えなかったからさ、普通に、ただ好きってだけで話しかけてた。……先輩もさ、慕われるのが嬉しかったんだと思う。だから他の子より可愛がってくれてたって、思ってる。でも」
思い出したくない。忘れてしまいたい。それでもその記憶は何度だって私の首を絞める。私の胸を刺し貫く。もう、許してほしいのに。
「二年生の秋だった。先輩がもう少しで引退するって時に、訊かれたの。……先輩の前で」
──鈴ってさ、先輩のこと好きなの?
多分、あの子は冗談で口にしたんだと思う。私が否定すると思って。そんなわけないじゃん、って、首を振ると思って。けど、私は。
「否定、できなかった。馬鹿みたいでしょ、こんなの。だって一言、違うって言えば良いだけだったんだから。なのにその一言が言えなかった」
そんな簡単なことが、私にはどうしてもできなかった。結局私は凍りついたように立ち尽くしただけ。その反応は、私が先輩に対して恋愛感情を抱いていることを肯定するものだった。
空気の揺らぎが今でも思い出せる。冗談だよね、なんて戸惑うような声も。先輩が硬い顔をしてごめん、なんて謝ったのも。周りにいた子たちの視線が自分だけに集まっていたことだって。
──断絶だ。あの瞬間、私はこの世界から一人切り離された。切って、貼り直された。同じ世界に立っているはずなのに自分だけが画面の外に居るみたい。緩やかに繋がっていた周囲との鎖のようなものが切り落とされて、それはある意味自由を得たと言えるんだろう。だけど同時に手にしたのはどうしようもない孤独感。それから、お前は間違っていると、この世界から、周囲から突きつけられるバツ印。
「美術部はさ、結局居づらくなっちゃって。っていうかもう美術室に入れなかったんだよね、身体が受け付けてくれないっていうか。それで、辞めちゃった、部活。あ、最初は頑張ろうとしてたんだよ? 平気なフリしようって、何もなかったみたいに振る舞おうって。でも、できなかった」
噂というのはすぐに広まる。いつものように教室に足を踏み入れれば、私に向けれられるのは好奇の視線。まるで檻に入れられた珍しい動物を見るみたいな目。聞こえないようにと気を遣われて話されているのは理解できていた。それでもそのひそひそとした声は今も耳から離れてくれない。
「その、先輩さんとは、どうなったの?」
「え、ああ、うん。それから一度も話せなかった」
話さなかった。
先輩は私を避けるようになったし、私も、彼女に合わせる顔はなかったから。
「友達は? 居たんでしょ?」
「……そんなことになる前まではね」
でもその件がきっかけで距離が開いてしまった。立っていた同じ地面にヒビが入って、割れて、別々の地面に立つことになって。……それが飛び越せる距離だったのか、今でも私はわからない。だけど誰一人として飛び越えなかった。それが答えだと思う。
そう。住む世界が違ったんだ。きっと最初から。私は彼女たちにとっては異物でしかなくて、わかりあうことなんてできなくて、だから、私の声は誰にも届かない。どこにも私は馴染めない。それが普通で、当たり前なんだ。
「そんな状態のまま卒業して、この高校に入学した。それでちょっとは何か変わるかなーって思っちゃったんだけど、でもまあ、無理だよね。だってこの学校にも私と同じ中学だった子がいるんだもん。あのことを知ってる人がいる。だから、難しかった。やり直すみたいなこと、新しく生まれ変わるみたいな、そういうの」
だけどそれは言い訳。頑張って普通を演じれば良かったんだ。みんなに合わせる努力をすれば良かったんだ。そうすれば、少なくとも中学時代を知らない子たちは受け入れてくれたかもしれない。
ううん、同じ中学だった子たちだって。
あの子は普通になったんだ。変な子じゃなかったんだ。私たちと何も違わないんだ。そういう風に、きっと──でも、できなかった。自分を抑え込んで捻じ曲げる。そんな生き方、冗談じゃない。かといって、自分自身を認めて肯定して、胸を張って歩くこともできなくって。
「……わかってる。わかってるよ。別に誰も私のことなんて見てない。昔みたいに、あからさまに変な目を向けられてるわけじゃない。少なくともクラスの人たちはそう。私に関心なんてない。ただお互いに関わろうとしないだけで」
誰とも関わらない。それが、誰からも好奇の目を向けられないための生き方。
「頑張れば良いんでしょ、わかってるよそんなの。自分を曲げて普通のフリすればいい。それが嫌なら堂々としてればいい。どっちかを選べば、多分みんなと普通に話せる。それが一番良いってわかってるよ。だけど、できない。私には、どっちも選べない」
だって、私は。
「私は、弱いから──」
絞り出すように口にした言葉は自分が選んだものなのに、私の胸に鋭く突き刺さる。じくじくとした痛みに胸を押さえるけど痛みは少しも和らがない。薄いシャツを握りしめる手はじっとりと湿っていた。




