1ー1
ああ、瞼が重たい。
目が開いたのは無意識。その一瞬の隙間に差し込んだ光が私の瞼をこじ開けてしまう。
「ん……」
ぼやけた視界の中、心地よい風が頬を撫でていった。鼻に運ばれてきたのは消毒液とコーヒーの香り。何度か瞬きを繰り返せば、私の目はもうすっかり見慣れた景色を映し出す。
ファイルがびっしりと詰め込まれた銀色の棚。白いテーブルクロスのかけられた大きな机。窓から差し込む陽光とそれを受け止めるピンクのカーテン。
高校に入学してわずか一ヶ月、されど一ヶ月。この空間にも随分と馴染んできたように思う。それが良いことかどうかは別として。
「確かにそうね。でもそれなら──」
聞きなれた声が耳に届く。ソファに背を預けたまま、正面よりも少しズレた位置にあるデスクへと視線を向けた。そこにはいつも通りのくーちゃんの姿が。プリントを手にした彼女は誰かと話をしているらしい。椅子に座ったくーちゃんは真剣なご様子。そんな彼女のそばに立つのは。
「──そう、ですね。そうします」
ああ、いつもの子か。
彼女の視界に私は入っていないらしい。くーちゃんの持つプリントを覗き込んで、彼女の言葉に相槌を打って、時折何か質問をして……真面目な顔をしているけど、その頬は少しだけ赤みを帯びている。初々しくて大変可愛らしい。
と、黒髪ショートカットの彼女がふと顔を上げる。黒く艶のある瞳が私を捉えた。ついさっきまで浮かれ気味だった顔が、しまった、なんて言いたげな表情へと変わる。彼女は誤魔化すように瞳をあちらこちらへと移動させて、また、プリントへと視線を戻した。
丹吉瀬蝶。口の中で名前を呼んでみる。声には出さない。クラスも出身中学も違うくせに、私は彼女のことをすっかり覚えてしまった。あまりに頻繁に保健室にやって来るものだから、つい。……まあ、保健委員だから当然なんだろうけど。
丹吉瀬さんの方は、どうだろうか。私のことをみんなと同じように──いや、興味なんてないかも。
「ま、いいけどね」
誰にも聞こえないようにそう呟いて、より深くソファに座り込む。
丹吉瀬さんは何度かくーちゃんの言葉に頷いた後、重たそうに膨らんだ鞄を肩にかけ直した。小さく会釈をすると私の方は見ずに出入り口へ。失礼します、と口にした声は上擦っていた。それを見て見ぬふりするように彼女は早足で廊下に出て行ってしまう。
頬杖をついてその背を見送る。保健室の空気には抑えきれなかった恋心と少しの気まずさが残されていた。
「で、何がいいのかしら?」
訝しげな声に目を向ける。プリントをデスクの上で整えながら、くーちゃんは小さく首を傾げて私を見つめていた。
「くーちゃんの地獄耳」
「ちょっと、何よその言い方。聞こえちゃったものは仕方ないでしょうが。っていうか、そもそも聞かれたくないことなら口に出さないでよね。保健室にいる生徒の声は聞き逃さないように気をつけてるんだから、わたし」
「ふうん、さっすがくーちゃん。養護教諭の鑑だね」
もう、と頬が膨らむ。そうして眉を寄せた彼女はどうやらご機嫌斜めのご様子。こら、なんて言いながら、くーちゃんはびしり人差し指を突きつけてきた。
「極寂、くーちゃん言わない! 綺施池先生でしょ」
「はーい、紅雀先生」
素直に従わない私にくーちゃんは小さくため息をこぼす。とはいえ本気で怒っているわけじゃないらしい、それ以上何を言うこともなくパソコンを開いた。
丸く大きな灰色の瞳は陽の光に照らされてきらきらと輝いている。色素の薄いミディアムヘアは緩く巻かれていて、メイクもいつだって丁寧。若くて可愛らしいその容姿は、まあ、好まれるのも無理はない。残念ながら私の好みじゃないけど。
「それで、今日は何時までいるつもりなの」
そう投げかけてきたくーちゃんはパソコンから顔を上げない。そうだなあと考え込むような声を出してみる。壁掛け時計が示す時刻は四時。帰るのは、まだほんの少し躊躇われる時間だった。
「……五時、くらいには」
「そ、了解。じゃあ今日は五時になったら帰りなさい。それ以上は駄目よ。昼休みも放課後もここに居られたんじゃ、わたしの自由時間が無くなっちゃうもの」
「わかってるってば」
どうだか、と呟いてくーちゃんはお仕事モードに入ってしまった。だけどまだ完全に集中しているわけでもないらしい。彼女はちらちらとこちらに視線を投げかけてくる。
「何、くーちゃん。言いたいことがあるなら言ってよ。ちょっとウザいんだけど」
「う、ウザいとか言わない! 別に。……さっきの、何が、いい、の?」
「まだ聞くぅ?」
もちろん、と大きく頷くくーちゃん。だけどそんなに気にされたところで、言えないものは言えない。
「もしかしなくても丹吉瀬さんのことでしょ。ね、本当は喋りたいとか?」
「べっつにー」
嘘。気にしてないわけじゃない。でも機会がないから良いのだ。別に。
「ふぅん?」
「……なに」
意味ありげに含み笑いをするくーちゃん。不満を伝えるために睨んでみれば、耐えきれなくなったのか、彼女はくすくすと愉快そうに笑みをこぼし始めた。
「仲良くなりたいならぁ、取り計らってあげてもいいけどぉ?」
「だーかーら、違うってば。そういうのじゃないの。っていうか私の好みじゃないし」
「あらそう? ま、そうよねー。知ってる知ってる」
ご機嫌な様子で頷きながら、くーちゃんはパソコンへと視線を戻した。真面目な顔をしているから、今度は本当にお仕事モードに入ってしまったのだろう。
「…………」
別に、いいんだけど。いいけど、さ。
「……くーちゃんってさぁ」
「んー?」
続く言葉を口に出せないまま、くーちゃんをじっと見つめる。私の視線に気がついた彼女は不思議そうな表情で私を見つめ返した。
「なに、どうかした?」
その声に真剣さはない。かといって、決して軽くもない。大きな瞳が真っ直ぐに私に向けられていた。何を疑うこともなく、何を拒むこともなく。私が何を言うのか、ただ静かにそれを待ってくれている。でも。
「……別に。なんでもない」
やめた。人の恋路を邪魔する奴はなんとやら、だ。私に介入する権利はないし、無遠慮に引っ掻き回すほど酷い人間じゃない。うん、わかってる。そういうことされるのが嫌な子なんだろうってことくらい、わかってるし。
それでも口を滑らせてしまいそうになったのはどうしてだろうか。親近感? 一方的な友情? それともただの興味本位? きっとどれも嘘じゃない。だけど一番の理由はそのどれでもないのだろう。例えば。例えば、そう、普通が欲しい、とか?
──馬鹿な答えだ、そんなの。
「そう? ま、何もないならいいけど」
くーちゃんは深く追求することなくまたパソコンへと視線を戻した。