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5ー3

 指を離れたシャープペンシルが机の上を転がっていく。かつんと音を立ててぶつかったのは空になったマグカップ。小さく息を吐いて視線を動かせば、棚の上に置かれた時計が目に入った。

 時刻は午後九時。わずかに開かれた扉の隙間から入り込むのは賑やかなテレビの声。マグカップを手に立ち上がった。

 暗闇の中を降りていく。階段を踏み外してしまわないか、いつだって不安になる。そんなに怖いなら電気をつければいいのに。一番下の床を踏めば、明かりはもう目の前に。

 足を踏み入れた台所には皿を洗う母が、テレビの前にはソファに座る父の姿があった。


「あら鈴、お茶? 冷蔵庫に冷えたの入ってるわよ」

「ん、ありがと」


 言葉通り、冷蔵庫の中には茶色いお茶が満タンに入れられたピッチャーがあった。マグカップにお茶を注ぎながら、ちらとテレビへ目を向けてみる。かけられているのはよくある男女の恋愛ドラマ。若い男優と美人な女優。惹かれ合う二人が感動的な音楽と共に抱き合っていた。


「いやぁ、いいねぇ、若いっていいねぇ」


 まるでおじさんのような……いや、年齢的にはおじさんで間違いない……感想を口にする父はこのドラマを楽しんでいるようだ。と、テレビに向けられていたその顔が私の方に向けられる。メガネのレンズには今日も汚れなんて一つもなくて、楽しげに細められた目がはっきりと見えていた。


「鈴も若いからなぁ、そのうちこんなドラマがあったりしてなぁ。ははは、いやぁ、いいなぁ」

「……ないよ。お父さん、酔ってるでしょ。もう寝たら?」


 冷蔵庫にピッチャーを戻しながらそう口にすれば、父はなんだなんだ、と悲しそうな声を出す。


「酔ってないぞ、父さんは。悲しいなぁ、娘が冷たくて。旦那さんにはそんな態度とっちゃ駄目だぞ、鈴。冷えた家庭は子供の心を壊すからな」

「っ、だからそういうのはないんだって。私は結婚しないし、子供を産むつもりもないの」


 怒りを滲ませたくなかった。だから必死に、なるべく淡々と言葉を紡ぐ。ただの事実を。でも父は私の言葉を本気だと思ってくれない。ちゃんと私の言葉を受け止めてくれない。だってほら、わかってないでしょ、あんな呑気な顔してさ。


「ほらほら、そこまでそこまで。鈴、酔っ払いの相手を真面目にしないの。お父さんも、鈴に絡まない!」

「お母さん……」


 皿洗いを終えた母は、タオルで手を拭きながらソファの方へと移動する。彼女もドラマを見るつもりらしい。そのまま父の隣へと腰を下ろした。


「二人ともほんと、気が早いんだから。鈴はまだ高校生でしょ、今はまだ結婚とか子供とか考えてなくて当たり前よ。そういうのはまだまだこれからなんだから」


 何気なくそう口にして、母はそうでしょと父に同意を求める。父は確かにそうかと大人しく母の言葉に頷いていた。その言葉に頷けないのは、ここでは私一人だけ。でも。


「……そう、だね」


 口から出たのはそれだけ。それだけ言って、私はマグカップを手に居間を出る。後ろから聞こえるのはドラマの音と両親の声。それは私の背を押す。普通の空間には相応しくないと追い出すように。

 反発するのは、跳ね除けるのは、黙り込むよりずっと難しい。普通に逆らうのは、違うって声を上げるのは、当たり前を拒絶するのは、自分を押し殺すよりもずっと苦しくて痛くて、怖くて。

 ──じゃあなんで、ああやっぱり、なんて言葉が胸で渦巻いてるんだろう。期待なんてしてないはずなのに。じゃあなんで、私はみんなみたいにできないんだろう。みんなみたいになろうとしないんだろう。

 階段を上がりきって自室に戻る。今度は扉をしっかりと閉めた。普通が入り込む隙間なんてないように。自分の部屋だけでもこんな世界から切り離されてしまえばいいと願って。切り捨ててほしいと願って。


「……どこに」


 どこに行けば私は一人になれるんだろう。どこに行けば、私は、一人じゃなくなるんだろう。


「……はは、馬鹿みたい。どこに行ったって、どこに居たって一人でしょ、そんなの」


 マグカップの表面を覆っていた水滴が、素足へと落ちた。

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