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 柔らかなソファが私の身体を受け止めてくれていた。目を閉じれば視界は暗闇。耳に届くのはパソコンのキーが叩かれる音。それが弾き飛ばす放課後の喧騒はどこか別世界のよう。

 昨日のことを、くーちゃんは何も訊いてこない。訪れた私に一瞬だけ心配そうな顔をしたけど、でもそれだけ。それがなんで心地良いのか私にはわからない。だけどくーちゃんのそういうところが私は好きだ。私だけじゃなくて、きっと、あの子も。

 ぎ、と軋む椅子の音に目を開ける。くーちゃんがファイルを片手に立ち上がっていた。


「ちょっと職員室行ってくるわ、すぐ戻ってくるから」

「ん、行ってらっしゃい」


 軽く手を挙げてくーちゃんを見送る。柔らかな足音が保健室から遠ざかっていく。代わりに大きくなったのは外で部活動に勤しんでいるであろう生徒たちの声。

 今、この場所を守る人は居ない。今、私を庇ってくれる人はどこにも居ない。

 それが怖くてクッションを胸に抱く。それでもやっぱりどうしようもなく怖くって、みんなの声を、鳴り響く自分の心臓の音を拒むように強く目を閉じた。でもそれで逃げられるわけじゃない。

 誰かが、保健室に近づいてきていた。


「あ」


 思わず目を開ける。どうしよう。足音が一度保健室の前で止まった。どうしよう。少しの間を置いて彼女が姿を現す。どうしよう、どうしよう──何も決められない。それでも時間は止まってくれなかった。


「失礼します」


 プリントを手にした彼女の顔に落胆の色が滲む。くーちゃんがいないとわかったからだろう。小さくため息が吐き出されて、漆黒の瞳が動き出した。くーちゃんのデスクから、ソファに座った私へと。


「──っ」


 目が、合った。一瞬その目は大きく見開かれて、でもすぐにぐしゃりと歪んでしまう。瞳が逸らされる。身体が出入り口の方へと向けられる。足が動き出す。私から逃げるように……彼女が逃げているのは、本当に私から?


「待って!」


 引き止めた声を丹吉瀬さんは振り払わなかった。外に向かいかけていた足が止まる。恐る恐るといった様子で顔が向けられる。その瞳はまだ、私を見ないけど。


「その、丹吉瀬さん。この前は、ごめん」

「……ううん、別に、その、気にしてないよ」


 言葉が見つからないのはお互い様。丹吉瀬さんはぎこちなく首を横に振る。それは気にしてない、なんて言葉が嘘であることを示しているみたいで。


「……えっと、私も、ごめん。この前は、今もだけど、多分、極寂さんに良くない態度で接しちゃったっていうか、接してるっていうか」

「それは……丹吉瀬さんが謝ることじゃないでしょ。気にしてないよ、別に。私だって丹吉瀬さんと同じ立場だったらおんなじようにしてたと思うから」


 そう口にして笑みを向けた。丹吉瀬さんのまとう空気がほんの少しだけ柔らかくなる。だけどその空気には何か別の感情が含まれているような気もして。その正体を見破れないままで私は言葉を続ける。知りたくも、なかったから。


「えっと、えっとね、丹吉瀬さん」


 なに? と彼女の首が小さく傾げられる。いつの間にかその目が私を見ていた。哀れみによく似た感情を込めて。


「っ──」


 視界が点滅した。浮かんだのはいつか向けられた視線たち。怖かった。怖いよ。私はその視線を受け止められない。受け止めたくない。だから目を逸らした。

 ……でも、それじゃだめだ。それじゃあ本当に、彼女を利用するだけになる。

 ……利用、しようとしているんだけど。


「丹吉瀬さん、その」


 逃げ出したい。視界は小さく震えていた。それでも丹吉瀬さんの目を見た。今ここで目を逸らしたまま言葉を紡ぐのは、絶対に違うって思ったから。


「私と、私と、と──同盟。同盟を、組まないかな?」

「……同盟、って、何の?」

「それは、その……丹吉瀬さんって、さ、くーちゃんのことが好き、でしょ?」

「──な」


 あ、と。大きく彼女の口が開かれた。開かれた口はその状態で止まって、すぐにぱくぱくと開閉し始める。何かを訴えるように。でも言葉は何も出てこない。それどころか声さえも。瞳がこぼれそうなほど目が大きく見開かれていた。普段は白い肌が今は真っ赤。


「な、ななな、なん、なんで、って、まさか綺施池先生に言ってたり、言っ、そもそもまさかバレ、バレてるの!?」


 ──普通だ。これって、なんか、普通みたい。


「ふ、はは、なんだ、丹吉瀬さんってそんな顔するんだ」

「そんな顔ってどんな、っていうかそれならこれからどんな顔して綺施池先生に会えばいいの!? 全部バレてるってことじゃんかぁ!」


 頭を抱えた彼女はうう、と呻き声を上げながら床にしゃがみ込む。壮大な勘違いが彼女の頭を支配しているみたい。面白いけど、いつまでも放っておくわけにはいかない。可哀想だし、何よりそれじゃあ本題には辿り着けないから。


「違うよ。くーちゃんは何にも言ってないし、私もくーちゃんに何も言ってない。単純に、見ててそうだろうなって思ったの、私が」


 言いながら立ち上がる。しゃがみ込んだままの丹吉瀬さんのそばまで歩み寄れば、彼女が情けない声を出しながら顔を上げた。


「ほ、ほんとに? 綺施池先生にバレてない?」

「いや、それは正直知らないけどさ。でも大丈夫だと思う。……うん。くーちゃんなら大丈夫だよ、絶対」

「……そう」


 大きく息を吐き出した丹吉瀬さんはまた顔を俯かせてしまう。そんな彼女に向けて手を差し出した。この手が何の意味を持つのか。この手が何に届くのか。何よりこの手を取ってもらえるのか。何一つわからないままで。


「ね、同盟、組んでよ」

「……それ、さっきも訊いたけど具体的に何するの?」

「えーっと……その、丹吉瀬さんには私の話し相手になってもらいたいなって」

「それは……いいけどさ。その、なんで? 別に私じゃなくったって──」


 いいんじゃないの、と。瞳が差し出された手をじっと見て、それから私の目を見つめる。答えを求めて。宿っているのは静かな光。星のように、静かな。その光に、隠しているもの全てを暴かれそうだった。


「……丹吉瀬さんがいいの、私は」


 答えになっていない答えに、けれど丹吉瀬さんはそう、と頷いた。


「それなら、別に良いけど。でも同盟ってことなら私にも何か利益があるんだよね」

「もちろん。私さ、昼休みと放課後は基本的に保健室に居るんだよね。丹吉瀬さんも知ってるかもだけど。だから」

「──まさか」


 そう。そのまさかである。静かな光を持つ瞳がキラキラと強く輝き始めた。


「まさか、つまり、極寂さんの話し相手になったって言えば保健室に入り浸り放題ってこと──!?」

「い、入り浸るの!? いや、いいけどさ。まあでも、そういうことかな。……ね、そしたらくーちゃんのこと好きなだけ見ることができるし、くーちゃんの邪魔をしない範囲で相手してもらうことだってできる、んじゃないかな? 多分だけ、どぉ!?」


 身体が強く引き寄せられた。何が起きたのか一瞬理解できなくて、でも差し出していた手が握られていることに気がつく。

 見た。私の手を取った彼女を。前髪に隠れて顔が見えない。と、勢いよくその顔が私に向けられた。


「ぜひ、ぜひお願いしたいんだけど!」

「う、え? ほんとに?」

「ほんとに!」


 私の手を握る彼女の手にぎゅうと力が込められた。誰かにこんな風に手を握られたのは初めてかもとか、思っていたのと反応が違いすぎるとか、あと、くーちゃんにちょっと申し訳ない気持ちもあったりとか。そういうの、全部──なんて言えばいいのかが見つからない。それでもこんな私の手を取ってくれた彼女に、私は心からの笑みを向けていた。


「じゃあ、そういうことで。これからよろしくね、丹吉瀬さん」

「よろしく。それから、蝶でいいよ。その方が自然でしょ。ね、鈴」


 にっ、と。浮かべられた笑顔は子供みたいに無邪気なものだった。そっか。この子、本当はこんな顔で笑うんだ。


「──うん。よろしく、蝶」


 それが、その笑顔が眩しくて、少しだけ痛い。彼女が持つ光は私に影を落とす。私の醜さを照らしてくる──なんて、そんなことを考える自分が、私は何より嫌い。大嫌いだ。

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