3ー6
「────」
音が、聞こえる。聞き覚えのあるそれが私の意識を闇の底から引き上げる。不確かな身体の感覚が段々と確かなものに変わっていく。何もなかったものが新たに形を得たみたいで、でも、まだ完全じゃなくて。
「うる、さ──」
耳障りな音が聞こえていた。規則性のある、不規則な音が。不快なその音を止めたくて手を動かす。でもお目当てのものは見つからない。ああ、もう少しだけ眠らせてよ──眠って、た?
「あ、れ」
瞼は軽やかに持ち上げられた。目に入ったのは紺色の空。散りばめられた星たちが小さく輝いている。なんとなく手を伸ばしかけて、でも、手が止まった。自分がしたことを思い出したから。
「──なん、で」
音は止まない。でも不快とか気になるとかそんなのどうでもいい。慌てて身体を起こして頭に触る。手に伝わるのは柔らかな髪の感触だけ。傷らしきものはどこにもない。
「いたく、ない」
音が止む。うまく働かない頭のまま鞄に手を。取り出したのは携帯。画面には母からの着信履歴。それを確認した直後、メッセージが届く。
何時に帰るの?
その連絡に指先が勝手に返事を送っていた。それで、終わり。役目を終えたと判断したのか、身体からは力が抜けていた。
「私、なんで、あ、ううん、帰らなきゃ、お母さん、心配してるんだから」
自分が何を言っているかもわからない。それでも立ち上がって、通学鞄を拾って歩き出す。来た時よりも軽くなった身体は私をあっという間に山から街へと運んでいく。空はもう真っ黒になってしまっていた。
「……どうしよ、明日から」
ぽつりと漏れたのはそんな言葉。思い出してしまったから。なんであんなことをしたのか。思い出してしまったから。つい数時間前に、何を言われたのかを。
「ああ……やだなぁ」
明日からどんな顔して学校に行けばいいんだろう。伊好先生に悪気はなかった。わかってる。わかってるけど、明日からどうしたらいいの。先生とまともに喋るなんて、そんなのできっこない。
だって怖い。怖いに決まってる。わかってもらえないまま見当違いなこと言われるのとか。
……それをしないために知りたいって、言ってたはずなのに、あの人は。
立ち止まりそうになって、それでも足を動かした。大丈夫。私にはまだ、保健室が、でも、くーちゃんがいたからって、私は結局は一人ぼっちで、だってくーちゃんだって私とは違うじゃんか──でも。
「あ」
違わない人が一人、いるんじゃないの?
──君、お仲間でしょ。
私が傷つけた彼女は、私が無遠慮に踏み込んだ彼女は、それでも確かに私と同じだ。同じだと知っている……お互いに。だから、もしかしたら、この痛みと孤独を。
「い……いやいや、そんなの丹吉瀬さんには何にもメリットないじゃんか」
でももしも、そのメリットを作り出すことができるのなら? 私と話すことで彼女にメリットがあるとしたら?
「……メリット、ない、わけじゃ、ないかもだけどぉ」
だからといって、それが本当に彼女にとってメリットになるのだろうか? 保健室で過ごす権利を得られる。それは、でも、合法的に放課後とか昼休みに来られるのは、彼女的には嬉しい、のでは?
「……丹吉瀬さん、喋ってくれるかな、私と」
呟きは夜の闇に虚しく消えていく。誰に受け止められることもないその言葉を抱きしめるようにそっと胸を押さえた。でもそれは、ひとりぼっち、その痛みを抑える動作にもよく似ていた。




