3ー4
「っと、ごめんなさい! もうこんな時間」
ぎゅっと。強く瞼を閉じた。そうしなきゃ無駄な水がこぼれそうだったから。止まれって。一度だけ自分に命令して目を開ける。黒板の上に置かれている時計、その針は午後五時を指していた。
「ごめんなさい。本当はもっと話をしたいんだけど、今日はここまでにさせてもらってもいいかしら」
はい、って。口から出たのは抑揚も何もない声だった。伊好先生はそんなの気にならなかったんだろう。ありがとうと口にして立ち上がる。……私が立ち上がるのを待っているのか先生は動き出そうとしない。仕方なく席を立って、床に置いていた鞄を持ち上げた。それでようやく、黒い内履きに包まれた足が出入り口に向かい始める。その後を歩く。薄く埃の積もった床を見つめたままで。鼻から液体が流れ出していた。それを、捲ったシャツの袖で押さえる。だけどそれだけじゃ止まってくれない。仕方なく鼻を啜れば、ず、と音が鳴ってしまった。
だめだ。今のはバレる。
思わず顔を上げたけど、伊好先生にはその音は聞こえなかったらしい。先生は私の方を振り返ることもなく空き教室を出ていく。
わからない。わからなかった。今の自分の感情が、気持ちが。だってわかんないよ。色んな色を適当に混ぜたみたい。ぐっちゃぐちゃで、どこにも色だと認識できるような色なんてなくて。
「失礼します、綺瀬池先生」
わからないまま、保健室へと足を踏み入れた。伊好先生と共に。
はーい、なんて呑気な声が聞こえて、でも、その呑気さはすぐに消えてしまった。
「……伊好先生」
それは彼女を責めるような声に聞こえた。そうであってほしいと願った私の願望が、聞こえ方を捻じ曲げたのかも。だってそれはほんの一瞬だけのことだったから。
「お疲れ様です、伊好先生。お話、どうでした?」
ほら、いつもの猫被りモードだ。
だから大丈夫。何が大丈夫なのかわからないけど、大丈夫。
「ええ、その、少しだけかもしれないですけど、それでも極寂さんのことが知られてよかったです。すみませんでした、教室お借りしてしまって」
「いえいえ! あそこを使うことって滅多にないですから、ぜんっぜん問題ないですよ。あ、それより時間、大丈夫ですか? そろそろ学校出ないとまずいでしょう、伊好先生」
そうだったと焦ったような声が聞こえて、目の前の彼女がこちらを向いた気配がした。その顔を、やっぱり私は見ることができない。掃除されたばかりの床を見つめるばかりで、視線をどこにも動かせなくて。
「今日はありがとう。また明日ね、極寂さん」
「……はい」
伊好先生はもう一度だけくーちゃんにお礼を言って保健室を出て行った。急ぐような足音が遠ざかっていく。それはすぐに消えてしまって、聞こえるのは時計の針の音だけになった。
「………………」
どうしたらいいかわからなかった。どんな顔をしなきゃいけないのかはわかるけど、それを作ることもできなくて、結局私は俯いたまま立ちつくす。きっとどこに行けばいいのかもわからなかったせいだ。
軋む椅子の音に肩が跳ねた。肩にかけた鞄の持ち手を強く握りしめる。足音は小さい。心臓の音にかき消されてしまいそうなほど。でも確かに私の方に近づいてきている。
「極寂」
「────」
灰色の瞳と、目が合った。くーちゃんは私から目を逸らさない。真っ直ぐに私の目を見て、それで、それがだめだった。唇に歯が沈む。喉を迫り上がってきた何かを押し留めるように。でもだめ。唇の隙間から漏れ出すのは言葉にならない呻き声。何の役にも立たない水が目から溢れて止まらない。だめなのに。だめだってわかってるのに。
「どうしたの。何か言われた?」
やめてよ。やめて。背中なんて撫でないでよ。そういう目で私のこと見ないでよ。私から目を逸らしてよ。私のことなんて見ないでよ。そうしてくれなきゃ、私。
「っ、わた、私、っ、わた、し、っ──」
何か言わなきゃって思った。でも何も言えない。目から溢れ続ける涙を止めたかった。けどだめ。手で擦ったって止まらない。全部全部意味なんてない。何にもならない。
くーちゃんは何も言わない。でも背中をさする手も止めない。なんで。なんでそういう、お願いだからそんなことしないでよ。そんなことしたら、私は、私は一人でも平気じゃ、一人なんて、そんなの平気なわけ──。
「──っ、ごめ、ごめん、帰る」
強引に足を動かした。立ち止まっていたいはずの足を動かした。
極寂、って。くーちゃんの声が確かに聞こえたのに、気がつけば私は保健室を飛び出していた。
逃げた。逃げるしかなかった。
わかってる。くーちゃんは優しいから私の味方してくれるって。わかってる。わかってるの。わかってるはずなのに──。
人のいない下駄箱、靴を履き替えたいのに慌ててるせいでうまくできない。くそ、なんて声が口から漏れたけどそれを誤魔化すのも今は面倒だった。
走り出した。額から汗が流れて落ちていく。汗だ。頬をつたい落ちるのは汗に決まってる。だって暑いもの。息が苦しいもの。背中にシャツが張り付いてる。ほら汗だ。だから涙なんかじゃない。泣いてなんかいない。否定しながら走り続ける。どこに向かっているのかもわからないままで。それでも走るしかない。逃げるために。逃げなきゃ。
……どこに? きっと、この世のどこでもない場所に。




