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3ー2

 伊好先生が歩き出す。何も考えられない頭でそれに着いていく。保健室を出てすぐ隣の空き教室。大きな音を立てて開かれた扉の向こう、雑然と並べられた机達が目に入る。閉め切られたカーテンが陽の光を遮っていた。鼻に届くのは埃の臭い。なんか、お化け屋敷みたい。


「わ、ちょっと暗すぎるわね。カーテン開けましょうか。あ、極寂さん、適当に座っててもらえるかしら」


 はいと答えた声が自分のものに思えない。足が動かない。頭が早く早くと叫んでいる。早く動けって、心臓が胸を強く叩く。だからほら、早く動かなきゃ。

 ああ──落ち着かない。なんでだろう。伊好先生と二人きりになれたから? 二人きりになってしまったから? それとも──昨日のことを、思い出しているから?


「──う」


 思わず口元を手で押さえた。そうしなきゃ、今にも吐き出しそうだった。

 何を? 何かを。

 シャッ、と音がして、室内がわずかに明るくなった。座らなきゃ。いつまでも立ってたらおかしいと思われる。急がなきゃ、急いで、急げ!

 目に入った椅子を引けば、それが床と擦れる音が思った以上に大きく響いた。すみませんと反射的に口にして腰を下ろす。顔は上げられない。伊好先生は何かを言っているんだけど、やっぱりそれは今の私には理解できないものだった。


「──っ、は──っ──」


 意識していなきゃ呼吸がおかしくなりそう。それを落ち着ける何かを見つけたくて瞳を動かす。顔を上げないままで。

 机の上には見知らぬ誰かの名前が書かれた相合傘。それは、そこにある名前はどう見ても男女のもので、それが、ああ、消してやりたい、こんなもの、当たり前みたいな顔をして刻まれているこれを、今、今すぐに──。


「ごめんなさいね、突然」

「っ」


 弾かれたように顔が上がる。正面の席には伊好先生が座っていた。慌てて頭を左右に振る。それでも先生が見せる笑みに安堵の色はなく、やっぱりぎこちない。

 ……なんで。

 見ていられない。見ていたくなくてまた、視線を逸らす。机の上に置かれた先生の両手が目に入った。左手の薬指には鈍い輝きを放つ銀色の指輪。それは、逃げ場なんてないと私を脅す刃物のようで。


「その、ね、クラスでのこととか、そろそろちゃんと聞いておきたいなって思ったの。極寂さんはわたしなんかに話したくないかもしれないけれど、それでもその、一応担任だから」

「……なんか、とか、思ってないです」

「──そっか。うん、ありがとう。じゃあ、その、遠慮なく……っていうわけにはいかないでしょうけれど、話せる範囲で話してもらうことってできる、かしら」


 頷けない。頷きたいのか頷きたくないのかもわからなかった。


「ごめんなさいね、知られたくないこととか話したくないこともあるとは思うんだけど、やっぱりちゃんと知りたいなって思って。あ、もちろん綺施池先生にも少しだけ話は聞いてて……中学の時に色々あった、とだけ。けどその、内容までは聞いてないの。だから、わからなくて……知らなくて、何も」


 先生は一息にそう口にした。何かを誤魔化すみたいに。そっと、彼女の顔へと目を向けてみる。鈍色の瞳は私を見ては別の場所へ向けられ、また私を見て、そうしてやっぱり違うところに向けられた。


「……いじめられてる、とかじゃないのよね?」


 そっと踏み込まれたその一歩に、不快さは感じられなかった。だから、大丈夫。きっと大丈夫だって、ほんの少しだけ思えた。……本当に伊好先生のことを好ましく思っているなら、先生のことが好きなら、ちゃんと信じなきゃいけないのに。


「そういうのは、無いです。嫌なことされるとか、悪口言われてるとか、そういうのは全然、大丈夫です」


 嘘。こっそり何かを話されてることはまだあるのに、それを隠すのは結局知られたくないからで。


「そっか。よかった。それなら少し安心したわ。……じゃあ、ええと、話せる子はいるかしら。極寂さんが誰と仲良くしてるのか、わたしにも教えてくれると嬉しいんだけど」

「それ、は……」


 どうかしらと訊ねる声は優しい。それには少しの必死さのようなものが込められているように思えて、だから、怖くなる。いない。友達なんていない。そう告げるのが。それを告げたときに、彼女がどんなリアクションをするのかがわからなくて。


「……いない、かしら」

「……すみません」

「あ、違う違う、謝って欲しいわけじゃないのよ。っていうか謝る必要なんてなくて。わたしも高校に入学したばかりの頃は誰とも話せなかったもの。人見知りだったし、他の学校の子たちはグループができてたし。だから、大丈夫よ。友達がいないのを申し訳なく思う必要なんてないの。ごめんなさい、聞き方が悪くって」


 いえと首を振れば、教室を支配するのは居心地の悪い静寂。

 もっとちゃんとしなくちゃいけないなんて、わかってる。高校生になったんだ。もっとちゃんと、だけど言葉は何も出てこない。


「え、っと。その、答えにくいことだったらごめんなさいね」


 心臓の鼓動が規則性を失う。乱れ始めたそれのせいで息をするのが辛かった。伊好先生の言葉を受け止める準備なんて、まだ、私はできてない。できてないのに、先生は少しも待ってくれなかった。


「中学の時に色々あった、って話。何があったのか、少しだけ、本当に少しだけでいいの、教えてもらえないかしら」

「──それ、は」


 どうする。どうしよう。スカートを握りしめてみる。握りしめてなきゃ逃げてしまいそう。逃げたい。視線が机の上を走る。


「それは、その」


 下瞼が震える。乾いた目はそれでも瞼の下に隠れ続けることを拒否している。閉じては開き、また閉じては開き、そうして瞼を閉じたその一瞬の間にころころと景色が変わっていた。相合傘。見たくない、そんなの。震えてる自分の手。止まってよ、お願いだから。キツく結ばれた伊好先生の口元。お願い、何も言わないで。音を立てて進む時計の針。いっそ止まればいい。白く汚れた黒板。

 ──間違ってるのは、ほんとに、私なの?

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