#5これからよろしく共犯者(2)
また遅れた。
テストが悪い。
その問いに俺が一瞬、躊躇ったのはなんでだったか。
「……忘れるわけないでしょ」
求められる答えと、返す言葉はとっくに決まっているのに。
なんでか間が開いたのは、彼女の卑屈な口元を目撃してしまったからだろうか。
「分かりませんよ。私は自分が『忘れられるわけがない』と思って、眠ったんです」
彼女は笑っていなかった。
過去の自分を振りかえって、嘲るように彼女は続ける。
「そしたら、朝起きたら、学校に行っても、誰も私を見てくれない。みんなの世界から消えてしまった。忘れられたんです」
貴方は──。と、言葉を漏らして、続いた。
「──貴方は、見つけてくれたけど。世界は私を見つけてくれない。それが、酷く苦しくて。他の人に見つけてほしいと思う自分に嫌気が刺しました」
彼女は自分の孤独を語るように、顔を闇に沈めて呟いた。
「他の人に見つけてもらう関係性なんか、築けてなかったのに。人と関わることを放棄した人間が、自分の存在を他人に認められるわけがないのに」
独白は、なおも続く。
「世界にただ一人でいることが、こんなに怖いなんて知らなかった。一人は嫌です。それはとても怖いことなんです。世界から認められないのは、まるで。──自分の存在が揺らぐようで」
認められないのが苦痛だと、彼女は言葉をそこで終わらせる。
俺には分かる、その気持ちが。
一人ぼっちの疎外感。
俺があの教室で過ごした日々が、彼女と重なって見える。
自分自身で、自分の存在を肯定してあげたいけど、それはどうにも難しくて。
人間は、一人では自分の存在すら肯定できないから。
「認める人が必要なら、俺が認めるよ。俺が、しっかり覚えてるよ、ココンさんのことを」
彼女の存在を知っている俺が、彼女のことを肯定してあげたい。
それが彼女にとってただの慰めで終わるのか、いい薬になるのか、俺には良く分からないけれど。
それは非情に身勝手な、個人的な感情論で。
──俺は彼女を、助けてあげたいと思った。
「それじゃ、足りないだろうから。──俺はココンさんが世界に認められる手助けもしたい」
「──……なんで?」
彼女は純然たる疑問を瞳に湛えながら、俺の方を見た。
「──……私たちは、他人です」
「……そう?」
「猫を撫でて、一言か二言交わして。消えた私を貴方が見つけて、一緒にハンバーガーを食べて。どういう経緯か夜の公園で、ベンチに隣り合ってるだけの、ただの他人です。それなのに──」
彼女は続ける。──最初にこらえた心の声を、今も瞳にとどめながら。
「なんでそんなに優しいんですか。なんで私を助けようとするんですか。
──……なんで。嫌な顔一つせず、私の隣に座ってくれるんですか。貴方にしか見えない、面倒な存在の、私に。そんなことをして何の得があるんですか」
零した問いに、いつかと同じように言葉を返す。
「俺は、自分のことが嫌いでさ」
「……前にも聞きました」
「でも、自分のことを好きになってあげたいんだ。少しずつでもいいから、好きになってあげたい」
自分のことを嫌いな人間なんて、珍しいと思うけど。
それでも俺は、自分のことが嫌いだ。
人間。自分の嫌いなところなんて、挙げたらキリがない。
欠点なんて、山ほどある。それを考えてしまった。
汚い部分なんて、どこにでもある。それを直視してしまった。
それと、誰かの不幸を見て見ぬふりをした経験が、塵のように積もって。
──いつのまにか、自分のことが嫌いになっていた。
他人と比べた劣等感と、目にした汚い自分自身と、見て見ぬフリして過ぎた現実が、ここまで浅葱虎徹を運んできた。
変化のきっかけなんて、本当に大したことはない。
──勇気を出して、猫を撫でた。ただ、それだけ。
あの日、猫を撫でた縁が、不思議と俺たちを繋ぎとめている。
「強いて言うなら、俺のエゴだよ。見て見ぬフリは、したくない。誰かを助けて、自分のことを更に好きになれるなら、それが一番いいじゃん」
「──それ、だけ?」
「それだけだよ。俺は、難しい理屈をひねり出すほど俺は頭がいいわけじゃないし。それに──」
「……それに?」
彼女の顔を見た。
「──泣いている君を、見なかったことにはしない」
それは、泣きじゃくる寸前の子供のように見えて。
「我慢なんて、しなくてもいいよ」
彼女の二日の孤独を、俺は知らない。
きっとそれは、ただ日数で捉えられるほど、簡単な重みじゃない。
彼女の心の痛みを、本質的には何も理解してあげられない。
他人の痛みを想定することほど傲慢なことはないし、他人と自分の痛みを比較することほど不毛なこともない。
「──知ったような、口を、きかないでください」
彼女は我慢していた。
教室から、ここに至るまでずっと、ずっと我慢していたのだ。
「心の声は自分にしか聞こえないから。だから、ちゃんと聴いてあげないとダメなんだ」
「貴方は、なんなんですか。なんで、私を──」
「助けてあげたいからじゃ、ダメかな」
「……知りませんよ」
「とりあえず、泣いてもいいんじゃない?」
「知ってます? 高校生は普通、公衆の面前で泣けないんですよ」
「でも俺にしか聞こえないんでしょ」
「まぁ、はい。そう、ですね──」
そこで、彼女は言葉を区切った。
「貴方は、最低です。女の子を、こんな、泣かせるように誘導して」
「ごめん」
小さな嗚咽が、ようやく聞こえた。
「最低です、貴方は。ほんとに、さぃ、て、っい──」
ついに紡げなくなった言葉と、あふれ出した涙。
心の薄暗いところでとどまっていた、小くて大きな叫びを、彼女はようやく零した。
「……最低です、貴方は」
「うん」
「背中なんて、さすらないでくださいよ」
「ごめん」
「……謝らないでくださいよ。貴方は何も悪くないのに」
彼女は泣きながらも、確かに続ける。
「浅葱くん」
「なに?」
彼女は息を吸って、その言葉を紡いだ。
「……ありがとうございます」
彼女の感謝の言葉は、しっかり俺の耳に届いていた。
あしたは22時に投稿できるように頑張りたい。