#1心に触れる(1)
――この静謐には、誰も訪れないで欲しい。
ガツガツと、猫がツナ缶を勢いよく食べる様子が、妙に心地よかったため。
頬を少々頬を緩めて、この静謐に俺と猫以外が存在して欲しくないと思うのだ。
コンビニの駐車場の隅っこで、空が暮れなずむ頃。
猫の鳴き声に心を揺らされ、俺はツナ缶を名も知らぬ野良猫に食べさせていた。
可愛いな、と思ってしまった挙句。
食事を求めるようにしきりに鳴き続けるので。
仕方なく俺はコンビニで買ったツナ缶を猫に与えている。
片耳が欠けているので、多分『地域猫』という奴なのだろう。
地域に認められている猫と言うことで、俺がちょっとツナ缶を上げても何の問題もないはずである、多分。
ちなみに三毛猫だ。黒やオレンジに近い茶色のまだら模様が、夕暮れによく似あっている。
この猫は甘え上手なのだろう。ついでに買ったレジ袋に、食べ終わったツナ缶を入れたところ、甘えるように俺の足元にすり寄ってきた。
「おわっ」
どうにか避けることには成功したが、猫は不思議そうに俺を見上げてくる。
俺が猫アレルギーだとか、重篤な問題を抱えているわけではなく、避けたのは単純にビビったからである。
妖怪ビビりすぎ侍の名に恥じないビビりっぷりに、思わず自分でも嘲笑が漏れる。
「――猫、嫌いなんですか?」
多分、それと同時だった。
思わず振り返った俺が視認するより先に、頭はその声を覚えていた。
「――ココン、さん?」
夕陽が照明のように彼女を照らしていた。
銀髪が肩にかかるくらいのショートヘアー。夜空を閉じ込めたみたいな紺色の瞳。非の打ちどころがない整った造形。
まさしく、美少女と形容するべき存在。それが制服に身を包んでいる。いわゆる美少女JKと言う奴である。俺には眩しすぎる。
まるで、映画の主人公。
威風堂々、芯のある立ち振る舞いに俺は目を奪われた。
「『さん』付けなんてどこか距離が遠い。『ココン』で良いって言ったじゃないですか」
「あぁ……うん、……――ココンで、良いの?」
「オッケーですとも!」
彼女は気分よさげに鼻を鳴らす。
それからしゃがみこんで、地面にスクールバックを落とした後、猫に手を伸ばした。
「猫ちゃーん。おいでー」
ココンが猫に向かってちょいちょいと手招きをすると、それに誘われて猫もココンへの手に寄っていた。
孤紺糖財。
その名前は、実に珍妙だったからよく覚えていた。
苗字が孤紺で、名前が糖財。
古今東西とはよく言ったもので「『ココン』と呼んでください」と、自己紹介をしたことが印象的である。
ちなみに好きなものは『ウサギ』で、特技は『格闘技』。
「……『格闘技』?」と、誰かが呟いた。
彼女はその容姿とチグハグな特技から、最初は人気を博したもので、『よく遊びに行こう』と誘われて(主に男子から)いたが――。
『あ、すいません。その日バイトなので』
バイトを理由に遊びを断る。
どうやら忙しいらしく、ほとんど毎日バイト漬けの日々らしい。
ちなみにバイト先は秘密。
ココンのバイト先については1年B組の七不思議(現状二つしかない)の一つである。
彼女はとっとと帰ってしまうので、中々クラスメイトと遊ぶ機会が生まれず、ちょっとクラスで浮き気味の存在である。
(浮いてるというか……孤高の存在、高嶺の花として、認識されてるだけ……――)
学校では一人。雑談には応じるけれど、仲良くなれる肝心な場所に彼女が居ない。
自分とはまるで違う。確かに彼女はぼっちだけど、俺と同じぼっちじゃない。
偶然に頼る俺とは違って、彼女は必然の存在だ。
彼女が遊び相手を集えば、間違いなく人が集まる。
食堂に行く相手を集っても、間違いなく人が集まる。
友達を作ろうと奮起すれば、間違いなく友達ができる。
たけど、彼女がそれをしないのは、一人が好きだからだ。
――多分、彼女はバイトなんかやってない。
憶測だけども、そう思う。
月火水木金と続いて、土日までバイトなことがふつうあり得るのか。
冷静に考えれば考えるほど、それは断るための口実だった。
生きていくために、他人を必要としない。
一人ぼっちの青春が苦痛に感じる俺にとって、正反対に位置する人間。
それが、孤紺糖財という少女だった。
「虎徹くんは猫ちゃん触らなくていいんです?」
「あ、俺の名前……」
「ん? どうしました?」
「……ちょっと嬉しかっただけ」
思えば、クラスメイトに自分の名前を呼ばれたのは初めてだった。
だから、ちょっと心にこみ上げてくるものがあった。
「……――それだけ」
彼女の隣にしゃがみこんで、猫を見る。
気持ちよさそうに喉を鳴らしているな、と。
彼女に撫でられ、満足げな猫に。触れていいのか、困る。
「撫でたらどうです? 人懐っこいですよ、この子」
「……――いや」
「え、もしかして、猫アレルギーとか?」
「いや、そういうんじゃ、なくて――」
「……なくて?」
不思議そうにこちらをまじまじと見る丸くした瞳に、俺は言いよどんだ先の言葉を吐いた。
「……ちょっと、怖くて」
「……怖い? 猫ちゃんが?」
「昔、猫に触れようとして、引っ掻かれたことがあって……それで、ちょっとビビってる」
流石、妖怪ビビりすぎ侍と自分で自称することがあるビビりっぷりだ。
この臆病っぷりは、流石にバカにされても文句を言えない。彼女が告げる言葉を死刑囚のように両目を瞑って待っていると――。
「え。――怖いのに餌あげたんですか?」
予想していた宣告とは、違う響きの言葉が出てきて。
目を開ければ、彼女は目を見張って俺を見ていた。
ツナ缶と、それが入ったレジ袋。
それを彼女は既に認識したらしく、俺の行為も理解していたようだった。
「……怖いんですよね? 猫」
「……あ、うん。若干」
「え。……――なんで?」
彼女は、本当に疑問げに首を傾げた。
「……私なら、怖い物とは関わりませんけど」
「え、っと?」
「人間付き合いが怖いので、私は人と最低限しか関わろうとしません」
「あぁ……――怖かったの?」
「え。人間付き合いが怖くない人なんています?」
そう言って、彼女は心情を吐露するように。
猫を撫でる指先は止めずに、滔々と話す。
「表面上だけ仲良くして、裏では何を言われてるか分かったもんじゃありませんもん」
「確かに、そうだけど。怖いのは分かるし……――俺も怖いし」
「動物は、そういう裏がなくて楽です。彼らは、素直ですから」
彼女の指先で嬉しそうに喉を鳴らす猫を、目を細めて見て、微かに笑っている。
「俺と喋ってるけど、怖くないの?」
「あぁ。猫ちゃん最優先なので、虎徹くんに心が揺れ動くことはないです」
「結構言うねココンさんって……」
「……――『さん』付け、しなくていいって言ったじゃないですか」
「もう間に合ってんじゃないの、そういうの」
表面上だけ仲良くする。
それが彼女のスタンスで、よく『ココン』と呼び捨てで呼ぶように義務付けているけれど。
肝心なところで一人の彼女に、その呼び方は相応しくないんじゃないかと、ふと思った。
「俺が『さん』付けの方が落ち着くってのもあるけどさ。無理に仲良くするの、疲れない?」
「……――あぁ、そうですね。浅葱くん」
彼女は俺を、苗字で呼んで。
「教えてください。なんで怖いハズの猫ちゃんに、餌を上げたんですか」
「別に、本当に教えてもいいんだけどさ、大した理由じゃないし。でも、なんでそんな知りた――あぁいや別に攻めてるとかそんなんじゃなくて、ただの好奇心ていうか、答えたくないなら答えたくないで――……」
「貴方のことを、もう少し知れたら――」
ちょっと言いよどんで、それから緊張した声色で、彼女は弱弱しく、本当にギリギリ小さく聞こえる声で呟いた。
「……――貴方と、ちょっと、仲良くなれる気がしたので」
その声を、聞き逃すことがなくてよかったと思った。
――聞き返しても、二度と本音は語ってくれない気がしたから。
「……俺は、俺を好きになりたいんだ。自分のことが嫌いな人間なんて、珍しいと思うけど。俺は……俺のことが嫌いでさ」
彼女の本音に応えるために、こちらも本音で返さなければ失礼だと思った。
人に本音を話すのは初めてで、心に押しとどめた感情は、久しぶりに顔に出る。
「鳴いてる猫を無視したら、もっと、自分のことを嫌いになりそうだったから。自分を好きになるための、努力の一環……それだけ」
人間相手に同じ行為が出来るとも思えないけど。
大したことのない、理屈だった。
「……そうですか」
彼女は納得の伴った響きを声に乗せて、猫を撫でる指先を止めた。
地面に落としたスクールバックを肩に提げて、立ち上がった。
「じゃあ、私はバイトがあるので」
「あ、バイトあるんだ」
この場から離脱する口実かと思いきや、彼女は意味深に微笑んでから言った。
「えぇ。……――化け物を殺すだけの簡単なお仕事です」
「ん。……え。冗談?」
彼女はその問いかけに、笑顔だけで応じて。
「さよなら、浅葱くん。……――ま、また明日っ!」
最後、言い慣れない言葉を吐いたせいか、少々声が上ずっていた。
足早に彼女はこの場から去っていったけど、これは、仲良くなれたということで良いのだろうか。
「……嬉しいな」
明日も、学校で彼女に話しかけてもいいのだろうか。
「お前は、どう思う?」
「にゃあ?」
猫は、相も変わらず不思議そうに俺を見上げていた。
『撫でないのか?』、とでも言いたげな目線をこちらに向けている。
猫の頭に手を伸ばしていく。
怖くないのか、と問われれば嘘だと答える。
怖いに決まってる。引っ掻かれるのではないかと、未だに頭に過るけど。
「……ふわふわだ」
「にゃあ」
『当然だ』とでも言わんばかりに猫が鳴いた。
触れてみれば、妄想で考えたことは起こらなくて、現実は思ったより怖くなかった。
「……はは」
猫の頭をワシワシと撫でながら、明日もココンさんに話しかけようと、そう思った。