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短編 弱い根の樹

作者: 間の開く男

「弱い根の樹」


 まず、何から書いたものか。ワタクシを小説にするだけで良いと言われたのだから、少年時代から追って書けばそれなりになるだろう。しかし、書くべきことが無い。特段、友人に恵まれた訳でもなく、焦がれるような恋は今もなく。殴り合いの喧嘩などとは無縁であるものの、ただただ自分の中のちっぽけな正義の心を振りかざすような、つまらない学生時代であった。

 何かをしようと思いつき、動き出すまでの時間には自信があった。爆弾に到達するまでの導火線(リミット)が、人一倍短いらしい。間違ったものを爆破しないよう制御するのが難しく、俺の上司はさぞかし苦労したのだろうと同情する。最短での正解を求めすぎるきらいがある、というのも自覚している。

 ここいらでとりまく環境についての話でもしよう。よく出来た後輩が数人と、頼れる仲間たちと、どこか抜けている上司。中間管理職なんて大したものじゃなく、その一段下で支える程度の、補強材のような役回りだった。毎年の新人に仕事の基本を教えるのはもちろん、仕事を楽しめるコツやら、聞かれれば……上司や目上と仲良くなるための、薄汚い交渉術なども伝えた。悪い先輩と背中に書かれたとて文句は言えない、つまらぬ男だった。しかし人に教えるのはなかなか面白く、俺なんかよりも頭の回転が早いやつらはさっさと追い抜かしていった。口では先輩の教えが良かったんですよ、人柄の良い先生で良かったと言いやがるが、素直に受け取れるわけがない。下地が良いから吸い込めただけで、もっといい手本がごろごろと転がってる。汚れた雑巾の汁なんて捻り出してしまって、もっと良質な洗剤入りの溶液に浸かってこいと、こっそり裏で手を回したりもした。俺は悪いやつだから、選択肢を増やして悩ませてやったのだ。

 

 ある喫茶店の話をさせてもらう。職場から2分ほどの距離にある、半地下というには埋まりすぎた、由緒ある(と言われている)その店がお気に入りだった。気さくな男性店員と、コーヒーやケーキなどを出すのに、場違いな「おかみ」と呼ばれる女店主の2人で切り盛りする、静かなジャズを流す良い店だった。昼飯をそこまで食わないから、チーズケーキとコーヒー、それとタバコにジャズだけで腹が一杯になる、俺にとっての好都合が可視化されたような店だ。ある日、店の奥の手洗い場との仕切壁に張り付くよう、一番奥の定位置に、置物のように座りながら一服していた時のことである。

 気まずそうな顔をした、1人の男。彼の名などここには書き記せないだろうから、何か適当な名前をつけようか。彼の同僚はよく、名字(みょうじ)をもじったあだ名で呼んでいた。それに習い、必要であれば"パセリ"と呼ぶことにしよう。先程食べた定食の、皿の端に載っていたからという安直な理由でもあったが、どこか頼りなく、身につけた香水の嫌味がない清涼感も、パセリに似ていた。

 

「先輩、やはりここでしたか」

 昼休憩はおおよそココか、飯を食わずにゲーセンの……いわゆるぬいぐるみやら、フィギュアやらを取りに行く。二択に勝った彼が、俺を探していた理由を付け足した。

 

「相談に、乗って頂けませんか」

 気を利かせたのか、おかみが洋風の暖簾からスッと奥へと消えていく。

 真剣な表情に言葉を詰まらせて、俺は彼に頷いて見せた。喉の調子を整えて、いざ話し始めようとすると、横から見慣れたペットボトルと氷入りのグラスが、カウンターへとコトリと登場し、黒子(くろこ)のように去っていく。

 俺は、この光景を見慣れていた。店の売上にはならないが、来客をもてなしたいという心なのだろう。英語が得意なお客さんの小粋なジョークを少し分かりやすく伝えた時も、こうやって茶を置かれた。

 置かれたグラスの水滴がコースターへと染みていくのをまじまじと見る彼に、「きっと君の分だろう」と一声かけてやった。きっと暖簾の奥ではこう思っていただろう。うるせえ、さっさと飲んで相談を終わらせろ、溜まったグラスを洗わなきゃならんのだ、と。何かに付けて照れ隠しをするおかみさんの思考が、なんとなく分かるような気がするくらい、常連客となっていたのかもしれない。

「では、いただきます。ありがとうございます」

 少しの躊躇いを乗せた感謝の声が、暖簾の隙間を通って奥へと届いたらしい。聞こえていないフリの下手な、椅子のぎしりという音だけが返事をした。

 

 彼の悩みについて詳細を書きすぎるのはどうかと思うが、少しの嘘を混ぜたい。それくらいはご容赦頂きたい。

 いわゆる同期の、1人の女性に対しての……甘い気持ちというヤツらしい。ブラックコーヒーに入った幻想の砂糖が奥歯に染みて、頬が心良く歪む。この、鳩尾の左から見えない手が出て、頭を掻きむしりたくなる気分というのは、人に伝播するらしい。彼が話し終えて左手を髪の毛から解放してやると、その部分だけがイワトビペンギンのごとく飛び出していた。

 

「それで、どうしたいんだ」

 残念ながら、恋心などとは無縁なのだ。人を好きになる気持ちなど解せぬ、愚鈍な輩。優しい人ねと言われても、それが普通と返すのみ。まったく、面白みが無い人間に、恋の相談をしようとする、彼の気持ちが分からなかった。

 

「何でも相談室だ、と仰っていたので」

 それは、仕事の話だ。決して人の人生や色恋に口出しをしたり出来るような、立派な人間ではない。

 もしや、間違ったことを言ってしまっているのでは、と暗くなる顔色を見て、慌てて口を開く。


「恐らく力になれないが、聞くだけなら聞けるだろう」

 野次馬根性という言葉は頭の中で真っ先に否定した。これは、彼に対する最大の冒涜である。

 親切心、とも違うだろう。庇護欲とも言い切れない。頼られたのだから、頼らせてやろうという慢心でもない。

 その一言は喉から出ると同時に、不思議な空気に飲まれたのだ。

 

 いかんせん、告白という単語が聞き慣れない。いつのまにかセルフサービスだと言わんばかりに置かれたアイス・コーヒーのポットを、白いカップへと傾ける。彼のグラスはほぼ氷が溶けて、薄まった緑色が底に少し残っているばかりだった。

「もうそろそろ……昼休みが終わっちまうな」

「……すみません、僕なんかの話で潰してしまって」

 いいってことだ、先に戻っててくれと財布を取り出しながら、カウンター上へとカップとソーサーを乗せた。カチャリと音を立てるスプーンが、おかみを暖簾の奥から呼び戻す。

「今日は、おいくらです?」

「突然店の床にぶちまけられたから、空気まで甘ったるく感じるよ、まったく。掃除の代金として、この一杯分だけ頂こうか」

 言いながら、白いカップ達を流し台へと降ろしていく。何か文句を言おうものなら、以前のように本当に塩をまかれかねない。3枚の種類が違う硬貨をカウンターへとゆっくり乗せて、椅子をそっとカウンターの下へと戻した。

「またおいで、朴念仁(ぼくねんじん)ども」

 おい、しっかり聞いていたのだろう、とは言い返せなかった。ドアを開けてベルの音を置き去りに、逃げ出した。

 

 彼の、折角つけたのだから呼んでやろうか。セロリの相談は数日続いた。パセリもセロリも同じようなものだろう。思い出して恥ずかしくなったから、少しだけ、俺にしか出来ない仕返しをしてやろうと思ったのだ。これを読書嫌いの彼が読むはずがない、という確信が在った。

 確かに、内線の取次ぎやら打ち合わせやらで、彼と彼女を見かける度に感じたものがある。歯の出ていない鉋をかけているような、するりと滑る対応やら、ガツンと打ったつもりの釘が(ぬか)へ"ぐんねり"と埋まるような、恋愛の棟梁が見ていたらじれったさのあまり、鎮具(ちぐ)破具(はぐ)を取り上げられそうな光景を見せられた。

 

 応援したいという気持ちはあった。

 しかし、不用意にしゃしゃり出て馬に蹴られたくないのだ。

 

 もはや察しがついただろう。

 彼は昼休みの度に、上手く運ばないのだと、喫茶店の奥に置かれた何のご利益もない恋愛成就の地蔵へと、お参りにくるのだ。

 うんともすんとも言わなくなった地蔵の代わりに、店の奥からひょいと顔を出し、昔はさぞかし別嬪だっただろう、赤いエプロンをしたおかみさんが、1つの小さな包みをカウンターへと載せた。あれは、ぐるりと暦が一回りしかけた、夏の始まる少し前の出来事だった。

「ほんとまぁ、アンタたちはいいお客だこと。でもねえ、いい加減アタシを虫歯にしようとするのはやめとくれ」

 なんのことやら分からないが、ゴールデン・ウィークの過ごし方と何か関係があったのだろうか。

「ええと、これは一体……クッキー、ですか」

 袋を手に取りながら彼が言う。表、裏とひっくり返し、赤リボンの飾りをゆっくりと解こうとした。

 

「甘いもんに弱いから、それでも投げつけてやんな」

 言い終わるなり、他の客が居ない時の定位置となってしまった暖簾の奥へと戻るおかみさんの、すこし怒気を孕んだ足音を聞く。

 彼は、指先をリボンから離して俺の顔を見つめた。黙ったまま、頷いてやった。

 

 社内の用事でてんやわんやしているうちに、彼らのことなどすっかり忘れてしまっていた。

 あれからどうなったのだろう、と帰宅後にスマホを見ると、着信とメールがひとつずつあったようだ。こういう時は、マナーなど気にせず主張してくれたまえ。LEDの青い点滅が、心音と同期する。

 

「先輩、ありがとうございます」

 その一行が、彼らの幸せに向かう階段の一段目に見えて、俺は何も返信出来なかった。お節介な地蔵と老婆が居なくとも、恐らく彼らはこうなった。今は邪魔するべきではないだろうと、静かに液晶を暗闇へと戻してやり、翌朝を迎えることにした。

 

 翌日、彼は来なかった。いわゆる無断欠勤だ。新人として指導していた俺以外にも、複数人が彼に連絡を取ろうとしていた。

 その中に、彼女も含まれていたのだ。真っ青な顔をする彼女が、おそらくただ1人理由を知る彼女が、給湯室で何度もスマホを耳に当てていた。返信が来ないかとそわそわと廊下を行ったり来たりしていた、俺なんかは目にも入らないようで、真面目な彼が電話口に出るのを待ったのだろう。

 

 俺のスマホが、鳴る。彼の名前が表示されていることを確認し、周囲の人物から距離を取った。

 

「どうした、おい。大丈夫か?」

「先輩……コーヒー、飲みませんか」

 少なくとも、一番凶悪な夢を見た訳ではないのだろう。何か大事なものが漏れ落ちるような音を、俺の鼓膜に響かせる。

 直属の上司へと空の休暇申請を押し付けて、カバンとジャケットを手に、喫茶店へと急いだ。

 

 まぁ、予想していた通りではあった。クッキーなる手土産が彼を高揚させ、うっかり口を滑らせたのだという。そもそも、リサーチが足りていなかったのだ。会社ではそんな素振りも無かったようだが、予定はしっかりと決まっていて、ご一緒出来ませんと丁寧に断られた……そうだ。

 ジャズのゆったりとした音程だけが、他の客も居ないこの店の支配者だった。

 

「そりゃ、そうですよね。可愛いですもん」

「お前なあ……いや、俺も同じ行動を取ったかも知れない」

 馬鹿野郎ふたりを笑うでもなく、じいっと見つめるひとり。この時間がどれだけ過ぎたかを忘れる頃に、彼が口を開いた。

 

「会社、辞めちゃってもいいですか?」

 社内恋愛の辛いところというのは、こういうものなのだろう。部署を変えたところで名前が目に入り、噂が立ち、両者を苦しめる、のかもしれない。当事者になったことがないから、それが分からない。

 グラスについた水滴を人差し指でなぞり、大きな粒にしている。そんな彼に、俺がかけられる言葉なんてのは、ほぼ無い。

 

「選択は自由であるべきだし、それは否定しちゃならない。辞める上でしっかりと引き継ぎをしたり、後任へのサポートをするなら、周りも納得するだろう」

 俺が言い終わるのを待ちながら、人差し指をグラスに当てたまま、彼はゆっくりと聞いていた。

 軽い気持ちで聞いていた相談事が、彼の人生を少なからず変えたことに、責任を感じていた。

 

「先輩は、どう思いますか?」

 俺は、悪人だ。ここで自分次第だと言い放ち、彼を苦しめる重しを増やすことも出来る。

「辞めたいなら、辞めてしまえ。良い方向に向かえるなら、そっちに向かって、押せるだけ押してやろう」

 グラスから目を上げた彼の表情は、少なくともあの瞳は、希望で輝いていたのだ。

 

――――――


 ワタクシ小説というのがどうにもしっくり来ないが、こういう内容で良かったのだろうか。

 こうやってウィスキーをちまちまとやりながら、キーボードを打っていると彼の髭面を思い出す。小さいながらもバーを初めたと聞いた時には、サイズなど知りもしなかった胡蝶蘭を頼んでしまい、地下鉄の車内で注目を集めてしまったりもした。苦い思い出だ。せめて、あの名前の分からぬ、床をコロコロと転がるアレに載せて運ぶべきだった。駅員に止められなかったのは、俺が満面の笑みだったからなのかも知れない。

 

 テーブルトークアールピージー、TRPGという深淵に引きずり込んだのも、この野郎なのだ。

 オンラインゲーム好きも共通点としてあったから、それとなく交友関係も広くなり、今でもWeb飲み会などを主催したりする。

 会社、辞めたあとのほうがイキイキしてるな。冗談で言ったはずが、彼の返した言葉が案外と重かったので、今でもすぐに思い出せる。

 先輩が言ったんだから、今更無しって言っても遅いですよ。

  

 翌年訪ねた時、店の観葉植物に七夕の短冊のようなものがぶら下がっているのに気づいた。これはなんだとピンク色の一枚をめくってみると、結婚したいと丸い文字で書かれていた。

 

「ああ、みんなの弱気を引き受けてるんですよ。なんでも相談所みたいなところですからね」

 酒が入ると、弱音を吐いてしまう。そんなときに、短冊とペンを取り出して、後ろに置いていっちゃいませんかと提案するのだと言う。

「俺も、書いていいのか?」

「先輩はやっぱり、キレやすいところじゃないですか?」

 会社を辞めてからも先輩呼びの抜けない、すっかり体重の増えて樹のようになった男から、一式を受け取る。

 

「何でもいいんだよな。弱音……あんまり無いな」

 ボールペンで何度か、オレンジ色の短冊をつついた。

「何でもいいですけど、僕、それ見ますからね? 笑わない程度に――」

「うるせえな、これでいいだろ」

 俺が突き出した短冊を受け取り、金色の……菓子の袋を止めるのに使う、モールのような物をそれに通した。

 

「……ははぁ、これ、弱音じゃないですよね」

 カウンターから表へと出て、樹へと歩み寄る男の手から、短冊を取り戻そうとしたが遅かった。

 色々あって最近は店に顔を出せていないのだが、今でもその樹は鉢植えにしっかりと根を張っている筈だ。

 もし偶然入ったバーの、カウンター席の後ろへと設置されたその鉢植えの樹に、オレンジ色の短冊が括り付けてあったとしても、覗いてはならない。

 それが許されるのは、当時弱く細い根を張っていた、彼だけなのだ。

 

 <完>

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