水マニア
溝口は水が好物だった。いや、好物という生半可なレベルじゃない。暇さえあれば彼は、常に水を飲んでいた。休み時間は持参した水筒の水を飲み続け、空になると水道へ補給しに行く。それが学校に居る間中、ずっと続くのだ。そのくせ水太りもせず、汗もほとんどかかないのだから、神秘としか言いようがない。彼曰く、学校の水道は一つ一つ味が異なるという。「理科棟の二階が一番コクがあって美味しい」とは彼の評である。
水泳の授業は、彼にとってはまさに楽園だった。何しろ、授業を受けながら大っぴらに水を飲めるのだ。プールの水が汚かろうが、溝口にとってはお構いなしだ。味について訊こうと考えたこともあるが、結局止めた。彼の回答に胸を悪くしそうな予感がしたからだ。
なぜ彼がそこまで水に執着するのか、誰も突き止められなかった。直接問うても、溝口は言葉を濁して席を立ち、水を飲みに行ってしまう。最早、彼の存在自体が謎である。
ある時、悪ふざけが好きな級友たちが共謀して、溝口に悪戯を仕掛けた。彼が持っている物と同じ型の水筒をわざわざ買い込み、注いだ水に塩や胡椒、料理酒、タバスコなど、考えつく限りの刺激物を混ぜ入れる。それを溝口がトイレに立った隙に、こっそりすり替えたのだ。席に戻るなり、何も知らない溝口は水筒の蓋を開け、中の劇物を一息に呷った。
発狂した獣のような絶叫が、教室に響いた。溝口は床に倒れこみ、喉を押さえて両足を激しくバタつかせている。仕掛けた張本人たちは、遠く離れた席で凍りついている。騒ぎを聞き付けた教師が駆け込んできた時には、溝口は白目をむいて痙攣を繰り返していた。
溝口は家まで教師に送り届けられ、次の日から学校に来なくなった。
それから二ヶ月後、ある雨上がりの帰り道のことである。
がりがりにやせ細った男が、地べたに這いつくばっているのが目に留まった。老人のごとき深い皺が刻まれていたが、その顔立ちは紛れもなく溝口だった。彼は舌を伸ばし、水溜りの泥水を舐めようとしていた。舌が水面に触れた途端、電流を流し込まれたかのように跳ね起き、とぼとぼと何処かへ歩き去っていった。それが溝口を見た最後だった。
今でもたまに、溝口が推奨した理科棟二階の水を飲んでみることがある。
味が他の水道とどう違うのか、俺にはやっぱり分からない。