本当の終戦
「ヤツェク?」
聞いたこともないスパイの名前に小首を傾げると、俺と同じように他の班から引き抜かれてきたひとり――確かグレープと名乗っていた――が肩を竦めてから語り始めた。
「十年前の戦争のお客さんだよ」
投げられた顔写真を受け取って一瞥し、そのまま投げ返す。
白黒の写真には、どこか冴えない細身の神経質そうな中年男性が写っていた。
「……ああ」
名前までは覚えていなかったが、それで今回追いかける狐がなんなのか大体分かった。
確か、戦争中に罠に掛かっていた内務省の役人の子供を助けたとかで、両国の有効の架け橋だのなんだのと骨の髄まで利用した男だ。
このご時勢、戦争は勝てばいいってモノでもない。テロを予防するためにも、国際社会の批判をかわすためにも、戦後の両国は友好的でなくてはいけない、表面上は。
そのための美談として、向こうの政府の理不尽な命令を身命をとして拒否し、捕虜を人道的に扱った英雄として祭り上げ、彼の功績として降伏条件の若干の緩和も行えた――と、いうことになっている。
現実は、彼の功績による降伏条件の緩和なんてものはひとつも無く、元々譲歩する予定だた部分を敵国が受け入れやすいようにそれらしく物語にしただけだ。
「困るよな。このクソ寒い冬に問題を起こすんだから」
ぼやきながら葉巻に火をつけたグレープを横目に、コーヒーサーバーに向かいながら俺は訊いた。窓にはびっしりと結露がついていて外が見えない。今日の気温は、確かマイナス十八度だったか。
積雪が深くないのだけがありがたい、そんな十二月の半ば。
「容疑は確定か? 聞き出さなきゃならないことが無いなら、新聞に騒がれないように見つけ次第殺すが」
ハン、と、グレープは皮肉たっぷりの笑みで付け加えた。
「ソイツのお友達が、生きたまま連れて来いとよ。内務省のお偉いさんは、現場の俺達よりも出涸らしの元協力者が大事だってよ」
ありがちな命令に、集めさせられたほかのメンバーからも乾いた笑いがポツポツと浮かんだ。
ブリーフィングが始まったのは、それから更に一時間後の事だった。
話から察するに、集められたのは国内防諜を司る各部署からそれなりの実績のある人間で、ちょっとしたドリームチームが結成されたようだった。
高そうな背広のヤツの説明の内容を要約すれば、協力者のヤツェクがロビー活動のコネを使い外務省から未発表の外交文章を盗み出した、ということらしかった。
ただ、容疑がほぼ確定しているものの、外交文章そのものがヤツェクの母国とこの国との戦後協定の維持や改定に関するものであるため、その後の利用価値と、古ぼけた戦争の友情によってヤツェクは生かしたままで捕らえなくてはならない、ということらしい。
そして、今回は人数が多いので複数の班が独自に情報収集と整理、推理を行い獲物を追う運びとなった。
俺と同じ班になったのは、俺と同じように現場をうろつくグレープと、俺等よりも一回りほど若いイリネイという技術者から転向してきた情報処理官の二人だった。
「よかったのかね、こんなに人を集めて」
潜伏場所への道すがら、ひとりごちると、陽気なグレープが合いの手を入れてきた。
「まあ、ここ最近は火種がないからな。ここらで引き締めとこうってねらいもあるんじゃないか?」
確かに、他が手薄になったところで、ダメージになるほどの情報もそれを欲しがる国家も無いとすれば警戒には値しないのかもしれないが……。
まったく、リスクを避けることが下手だよな、政治屋は。
「ふ、随分な演習だな」
と、やややつあたり気味な皮肉で若いイリネイを見るが、イリネイは色をなして反論してくるわけでも、いじけるわけでもなく、はあ、とか、そうですね、とか、答えてきた。
覇気が無いというか、なんというか。
最近の若い人間はどうにも読み難いな。
割り当てられた郊外のありふれたアパートの一室――俺とグレープが同じ職場の同僚で、イリネイが俺の弟でルームシェアしているという本来の形とそう違わない身分を偽装している――で、パソコンに向き合って、ヤツェクのこれまでの履歴を洗う。
スパイ行為もスパイ狩りも、昔みたいに足で稼ぐ時代じゃない。電子ネットの発達した今じゃ尾行することすら稀だ。
個人情報なんて、クレジットカードの履歴から嗜好や行動傾向、公共料金の支払い履歴や料金額の増減から同居人や来客の有無なんかが分かるし、細かく区切っていけばきりが無いが推理するための小さなヒントは容易に見つけられる。
ヤツェクは、これまでは模範的な協力者として行動してきた男で、その行動のため、彼の国の右翼団体は彼を暗殺リストの上位に載せられていた。
だからこそ、戦後もこの国で保護してやっていたんだが……。
こちらをただ裏切ることのメリットがあるとは思えないな。性格は、冷静できちんと頭を使えているタイプのようだし……。もしかすると、ヤツは俺等の国でも、ヤツの母国でもない、どこか他の第三国のスパイだったのかも。
「あの男は、イイヤツなんだ。まさか、そんなことをするなんて」
俺と同じ班になったグレープが、俺が手を止めたのに気付いたのか、面白くも無い冗談を口にした。
たいていの事例で、犯罪者の身内や仲間が口にする台詞だよなそれ。芸が無いって言うか、いや、無いのは観察眼か?
「誰の真似だ?」
苦笑いで俺が尋ねると、グレープがにんまりと笑って答えてきた。
「コイツのお友達」
ピンとグレープに弾かれたヤツェクの写真のデコが凹んだ。
「親父のコネで内務省のえらいさんになったヤツ?」
「そう。誰の目にも明らかな形で裏切ってるヤツなんか、脅威でもなんでもないだろうにな。偉い人は不思議なことを言うもんだぜ」
はは、と、笑いを返し「逆に、俺達みたいになんでもかんでも深読みする人間の方が少数派なんだろうよ」と、自虐ネタで応じた。
少しだけ、リラックスした頭で再度内容を整理する。
第三国のスパイの可能性は、低いな。スパイという物は、情報を収集して発信することではじめて価値がある。しかし、ヤツェクは内務省の完全な保護下にあったため、外部との接触は相当に制限されてもいた。
十年間も眠らせておく価値が、ヤツェクにあるようには見えない。レーダー基地の技師をしていたので多少の科学知識はあるだろうが、そもそもこの国の科学技術は最先端とは言い難い。盗み出す価値は低い。
外交文章だけを持って逃げたということは、望郷の念が高まった突発的な行動……なんだろう、な。
ありがちといえばありがちな破滅のストーリーだが。
ふぅ、と、短く溜息をついて推察を文章にまとめていると、不意にずっと黙ったままで作業をしていたイリネイが声を上げた。
「居場所、つかめましたね。真っ直ぐに国境線へと向かっているようですよ。ここから西の町です」
どうします? と、イリネイが目で問い掛けて来たのでグレープに目配せしてから訊き返した。
「精度はどの位だ?」
イリネイがパソコンの画面をくるりと回し、俺とグレープの側へと向ける。
「昨日のスーパーマーケットの監視カメラ映像です」
出入り口の映像に入り込んでいるのは、ごく簡単な変装はしているものの、ヤツェク本人と見て間違いはなさそうだ。
任務に関して言うなら、大体は、報告して間違っていたらどやされ、報告を上げる前に身柄を押さえれば興味なさそうに流される。だから、後者を選ぶことが多いんだが――。
「上に話をあげるのが先、かね、今回は」
「はは、絶対にこじれるな。新入り、サブマシンガンも持ってけよ」
上に報告をあげると、俺達以外のチームも、ほぼ同時にヤツェクの足取りを掴んでいたようで、その情報を総合的に判断した部長が、全員を率いて――とはいっても、十人以上もの男の集団は悪目立ちするので、分散してそれぞれ別の主要交通網を押さえつつ集まるのだが――現地に乗り込む算段をつけた。
「どう思うよ?」
車で現地入りし、適当に市内を乗り回している時間に、助手席のグレープが訊いてきた。
なにがだ? とか、聞き返さなかった。ヤツェクの逃走者らしかねる行動に関すること、以外にそんな言葉で聞かれるネタはない。
「なんとも……」
今はまだ上手く納得のいく説明が出来ないので、俺はそう答えた。
普通、一般人が逃げる際には、一目を気にして細い路地や人通りの無い場所へと無意識に動きがちだ。もっとも、そうした場所は、閉鎖的なコミュニティが支配しているので、部外者が入り込むとかなり目立つ。
誰かの入れ知恵で動いているのか?
ヤツェクの故郷の側も誰かを派遣しているのかも……。
しかし、それなら監視カメラなんかの設備がしっかりした大型のスーパーや、電車での移動なんかを止めなかったことに違和感を感じる。
今のヤツェクの行動を評価するなら、用心の仕方はマフィアの中堅ってところだ。
ともかくも、身柄を押さえればそうした疑問も解決させられるか、と、定時報告をしながら市内を流し続けていると――。
「居たな」
グレープの言葉に頷くが、車を止めたり速度を緩めたりはしない。そうした動きは、目立ってしまう。
なんでもなかったように、少し左記の通りを小道に折れ、先にグレープとイリネイを下ろし、俺は車を近くの駐車場へと止めた。
「部長、ヤツェクを発見しました。今、グレープ達が追ってます。確保しますか?」
『監視を続行しろ。決して手は出すな』
「はい?」
『これは、内務省からの命令だ。担当者が説得をじかに行う。君たちは監視を続行しつつ担当者を迎えに行きたまえ』
「はい。すぐに取り掛かります」
『ああ、今後の指揮は君が取れ。以上だ』
了解と言う間も無く、電話は切れていた。
半分は私物の携帯を壊して困るのは俺自身だ。物に当たるのは止めて、フンと、鼻で笑っただけでクソな仕事に取り掛かる。
「なんだって?」
路地から出ると、グレープとあと一人、俺達とは別の班の男が立っていた。
「役人が乗り込んでくるとよ。部長はやる気が無いようだ。俺が現場を整備することになった」
肩を竦めて答えると、グレープは苦笑いでもう一人の肩を押して俺の前へと押し出した。
「一斑は合流してる。ヤツェクは、三階建てのアパートに入ったな」
「三班と四班に付近の道路を押さえさせよう。二班は、悪いがアパートの他の住人の確保と隔離を頼む」
お前は? と、グレープに目で訊かれたので、小さな溜息ひとつで俺は答える。
「役人を迎えに行ってくる」
一番面白くない仕事をする事になった俺に、二人のにやけた視線が突き刺さる。
「あ、ちなみに、大使館の協力者からのネタだが、どこかの国やスパイが動いた形跡は確認されなかったようだ。単独犯の線が濃厚」
ふざけ半分に俺を指差すグレープ。
成程、道理で部長のやる気が無いわけだ。既に、役人へのご機嫌取りだけの仕事に変わってるんだからな。
駅で拾った役人は、特に特徴の無い男だった。ありがちな仕立てのいいスーツを着て、この仕事では見慣れた焦燥感のある表情をしている。ヤツェクよりは若干年上なのか、オールバックでまとめている髪には、白髪が混じり始めていた。
「戦後、充分な協力関係を築けていたんだ。戦場で助けられてから、ホームパーティに招待したり。……アイツも、心から楽しんでくれていたし、役割も理解してくれていて、だからこそ亡命という形は取らなかったんだ……」
「ええ、存じております」
さっきから語り続けている役人は、俺の適当な相槌など耳に入っていないようだった。疑念と不安で、喋っていないと精神の平衡を安定させられないのだろう。
まったく、なんでこんな感情的になりそうなのを対面させてやらなくちゃならないんだか。
二人っきりには出来ないな、と、思う。
典型的なストックホルム症候群になりやすい人間だったから。
寂れたアパートの駐車場に車を止める。
外観はレンガ造りだが、近くで見れば割れて崩れているものも目立っていた。安い工場勤めの塒、と、いったところか。
「状況は?」
アパートの入り口を固めているイリネイに訊ねると、あのいつもの無味乾燥な声で返事が返ってきた。
「済んでいます。単身世帯が四つ四名おりましたが、不在の一名を除く三名の身柄を一時拘束、移送しておきました」
「罠や待ち伏せなんかはなさそうだ。普通のアパートだ。警察から借りた狙撃班を二つ、近くのビルに一応待機させた」
完璧だ、と、手を挙げて応じて役人をエスコートする。
「お話になる際には、感情をあまり表情に出さず、難しい言葉ではなく簡潔にお願いいたします。こういった状況下では複雑な遣り取りは、相手側の逆上を招くこともありますので危険です」
「ああ……大丈夫。これでも、内務省の人間なんだ。マニュアルは読んでいるよ」
その必要最低限の手順さえ踏め無そうな状態だから、敢えて釘をさしたつもりだったんだけどな。
調子に乗っているわけではないと思うが、自分なら大丈夫とでも思っているような雰囲気が読み取れ、余計に気を滅入らせた。
ヤツェクが潜伏しているという二階の角部屋へと向かう。
だが、階段を登ったところで役人はバカなことを言い出した。
「彼を刺激したくないんだ。ここからは、私ひとりで行く」
「賛成しかねます」
「……なぜ?」
「現場の責任者は、自分です。貴方にもしものことがあってはいけませんから」
ヤツェクに人質にとられる、というのならまだいい。俺達よりも立場が相当に上のコイツに関して、俺達は充分な情報を得ていない。内通者かもしれない男を自由にさせるほど、現場の人間は甘くない。
「君達がいることで、彼を刺激する。説得が失敗するかも」
「優先すべきは、彼ではなく、こちらの安全と漏洩した情報です」
「だからこそ、だ。君達を同席させるわけには行かない」
埒があかねぇ、と、背後に控えていたグレープが前髪を掻き揚げた時だった。キィ、と、細い軋む音が聞こえたのは。
すぐさま音の方へと視線を向ける。銃把に手は掛けるが、まだ抜かない。状況が不明すぎる。
ドアから出てきたのは、追っていたヤツェク本人だった。他に誰かいるような気配は無い。
――どうする?
迷ったのは一瞬だった。この状況で説得もクソもない。まずは身柄を押さえ、その後でこのお役人に好き勝手させればいいだけだと判断し、距離を詰めようとするが……。
「帰ろう、ヤツェク。帰国したいなら、特別便だって手配するよ」
このクソ役人が。
俺達の目の前を遮るように、役人が立ちはだかっている。殆んど期待はしていなかったが、ヤツェクの様子を肩越しに窺う。
役人のニッコリと笑ったヤツェクは、前傾姿勢で役人に向かって駆け出す態勢に入った。ボタンを外していた背広の上着から、茶色の皮製の四角いナニかが左右の脇の下に固定されているのが見え――。
サッと血の気が引いた。
「撃て」
銃を抜きながら、横のグレープとイリネイにも命じる。
「お、おい!」
生かして捉えろという命令を気にしてか、それとも丸腰でヤツェクに向き合ったバカな役人を気にしてかグレープはすぐには銃を抜かなかった。
「自爆だ。両脇のふくらみは拳銃じゃない。紐を引かせるな! 頭を狙え」
役人の肩越しにヤツェクの頭部を、照門の間に捉え、照星に合うように微妙に手首を調整する。
役人に死なれたり怪我させると後がめんどくさい。
一発で決めるつもりだった。
「ックショ! これだからお偉いさんが現場に口出すのはだいっ嫌いなんだ、オレは!」
グレープが抜きざま、適当な照準でヤツェクの足を数発撃った。一発が脛に当たり、ヤツェクが前のめりに転びざま、背広から伸びる紐を――。
タン、と、乾いた音だけが耳に残った。
どっかの国みたいに45口径に拘ってるわけじゃない。9mm弾なんだから、手に伝わる衝撃もたかが知れている。
目の前には、眉間を射抜かれた衝撃で首をあらぬ方向に曲げたままうつ伏せに倒れているヤツェクの死体があった。
「下がってください」
呆然とした顔の役人の肩を引いて、現場から離れる。グレープとイリネイは、充分に離れた位置から現場を確保していた。
爆弾が遠隔操作が出来ないという確証もないので、不用意には近づけない。
だから、後は爆発物処理班の仕事だ。俺達も爆弾解体の指導は受けているが、プロを使えるならそれに越したことは無い。なんでもかんでもやるのは、映画の中のスパイだけだ。
呆然とした役人を表の車に乗せ、再び現場に戻ってくると、つまらなそうな顔のグレープに訊ねられた。
「この任務は成功にカウントされるのかね? それとも失敗?」
爆薬の入手経路や、本来の目的――国外脱出ではなく、テロの可能性も出てきた――なんかの背後関係を洗う仕事はあるものの、それらは片手間に済ませる類の優先度に下がってしまっている。
「どっちでもいいさ。明日になれば別の仕事が舞い込むんだ」
終わった。
そう、気を抜いてしまっていた。
本当の危機を、俺達が見逃していたことに気付いたのは、全てが終わってからだった。
ヤツェクが持ち出した情報を探すため、逃走中に立ち寄った場所を虱潰しに捜索し、爆薬の出所を闇拳銃の売人なんかを締め上げて探っていたある日のこと。
国内外のメディアが一斉に報じた。
戦後体制を維持するために俺達が行っていた不法行為に関する資料と、ヤツェクが持ち出した外交資料――占領地区の利権を延長するための恫喝外交の証拠――が、暴露されていた。
あの時、ヤツェクが派手に動いて注目を集めている隙に、本当のスパイはまんまと情報を片手に第三国へと出国していたのだ。
国際世論に屈する形で、我々の国は完全に平等で対等な形での友好条約を結びなおさせられた。
あのしょぼくれた協力者は、十年の果て、ついに復讐を成立させたのだ。




